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の居る場所



 東風の章  漆


 鬼灯が茂る離れはいつも寂寞としている。
 寸刻前の喧騒から静けさを取り戻した部屋には、父と娘だけが残されていた。

「……父上」
 ずっと仁王立ちをしていた和孝であったが、やがて力が抜けたようにその場に座り込んだ。憤怒に燃える背中は大きく見えていたけれど、今は哀しみの方が勝っているのか小さく弱々しい。蝶子は肩を落としたその後ろ姿に、そっと労わるように声をかけた。
「父上、助けていただきありがとうございました」
「すまぬ」
 けれども、父の口から搾り出すように発せられたのは謝罪の言葉だ。何に対して詫びているのか分からずに、蝶子は戸惑い気味に問い返した。
「何を謝られることがあるのでございましょう?」
 むしろ詫びなければならないのは蝶子の方だ。義兄が己の命を狙っていることは知っていた筈なのに、安易にふたりきりになってしまったことは迂闊と責められても仕方がない。危機一髪のところを助け出してくれたのは父と夫で、もう少し彼らの助けが遅ければ殺されていたかも知れないのだ。

 父娘ふたりだけの部屋に、沈黙が落ちる。背を向けたまま、やがて静かに和孝が口を開いた。
「蝶子、おまえは此度のことをどこまで聞いておる?」
「それは……」
 穂積と染乃が和平交渉を試みていたこと。それが何者かに阻まれ、兄が命を失ったこと。守之介が死んだと偽って身を隠し、穂積と染乃を行き来して密かに橋渡しをしながら、その身ひとつで嫁いだ蝶子のことを影で守ってくれていたこと。義兄が紅野家の当主の座に就いたあかつきには、染乃はもちろん海原国まで攻め入って領土を広げようという野心を隠し持っていたこと。そして茜子が義兄の子を宿し、流したことだ。
「きっとわたくしが知っていることは、ごく一部なのでございましょう。父上や守之介、そして伊織様がそれらからわたくしを遠ざけて下さっていたのでございましょう」
 蝶子が美しい花を愛でながらのんきに暮らしている間、男たちはずっとそれを守る為に影で尽力していたのだ。
「父上」
「何だ」
 紅野家の姫として、蒼山家の正室として、己はすべてを知るべきだ。小さく息を吸うと、蝶子は父の背中に問いかけた。
「兄上のお命を奪ったのは、誰でございますか?」

 春が近づき少しずつ日が長くなっていたが、今日は薄い雲が空を覆っている為、既に部屋の中は仄暗い。
「豪進か、あるいは栄進の手の者なのかは分からぬ」
 蝶子が濁した言葉を、父はあっさりとそう口にした。伊織から兄との和平交渉が何者かに阻まれたと聞いた時に、それが海原国の仕業ではないのかという疑念は蝶子の中にも浮かんでいた。確かに穂積か染乃の何者かが混乱に乗じて領主を討つことを企て、戦が終わることを阻止した可能性は否めない。けれど両国が争い共に疲弊した時に最も喜ぶのは、その二国の南に横たわる海原国であると考えるのが自然なのだ。
「船越豪進とは強欲な男だ。広い領土を持ちながらそれに飽き足らず、隙あらば我らの国を狙っておる。海原国は海運で栄える国である故、我が国の農作物と染乃国の藍染を都へ運んで富を増やそうという魂胆なのであろう。なれど、我らが仮に同盟を結べばそれは困難になる。海原国ならば大軍を率いて制圧できるであろうが、二国が共に歯向かってくればそれが船越家へ致命傷を与えるやも知れぬ。どうやら忠孝が重用していた者の屋敷に船越の間者が紛れ込んでいたらしく、忠孝と伊織殿の動きを知った船越家が和平交渉を阻止しようとしたらしいのだ」
 和孝は淡々とそう説明すると最後に、もちろん証拠など残されていないがと付け足した。
「栄進は切れ者で、海原国と佐波国との先の戦では若くして軍師を努めていたとの噂もある。たとえ首謀者でなくとも、まったくの関わりがないとは言い切れぬであろう」
 実兄である忠孝の死に哀しむ蝶子の心を癒してくれたのは、養子としてやって来た栄進の優しさであった。その柔らかな雰囲気や思いやりに満ちた言葉に何度も救われたというのに、義兄こそが蝶子に哀しみを与えた張本人かも知れぬのだ。栄進という人が心底分からなくなり、蝶子は言葉を失った。

「忠孝を失って混乱している中で、船越家より養子縁組の話が舞い込んだことはおまえも聞いていよう。無論、誰もがそれを純粋な助けだとは思うておらなんだ。大国であるという己の立場を笠に着た、下心丸出しの申し出だと気づいておったが、それを拒めばどうなるかも皆分かっておったのだ」
 栄進を紅野家の後継として養子に迎えた一連の話を、蝶子ははじめて父の口から聞いた。当時は城内がぴりぴりと張り詰めてただならぬ様子であったが、女子にその詳細は何も知らされず、蝶子はすべてが決定してからはじめて義兄ができることを知らされたのだ。
「養子縁組を受けることに、強固に反対したのは守之介であった」
「それはわたくしも聞き及んでおります」
 穂積と染乃は互いが卑怯な攻撃をしていると憎しみ合っていたが、蒼山家の家臣である河合竜之新によってそれが両国の和平を快く思わぬ何者かの策略であることが明らかになった。穂積国より和平交渉に同行した者たちの中で唯一生き残った守之介は、敵将である伊織にそれを知らされ、船越家への疑惑を密かに強めていたのだ。
 けれども秘密裏に動いた末に忠孝は命を失い、ひとり生き残った守之介への風当たりは強かった。彼の言い分は他の家臣らに受け入れられず、忠孝に重用されていたことへのやっかみや他者と馴れ合わない従来の性格もあって、守之介が孤立を深めていたことは蝶子でさえ見てとれるほどにあからさまであったのだ。
「仮に養子縁組の話を反故にすれば、豪進は後継者を失って混乱している我が国を攻めるだろう。たとえ忠孝らの命を奪ったのが船越家であったとて、栄進を養子に迎えれば当面は攻め入られることはない。我らのような弱小国がその身を守るには海原国のような大国と手を結び、多少の政治介入は我慢しながら守られる方が得策なのではと思ったのだ」

 そこまで話すと、和孝は大きく息をついた。息子の仇かも知れぬ相手と手を結ばねば生き残れない、そんな戦国の世の厳しさを蝶子は痛感した。
「栄進は優秀な男であった。混乱した城内をその手腕でもって立て直してくれた。船越家に有利なように事を進めるかと危惧しておったが、父である豪進の無理な要求は突っぱね、その振る舞いは穂積の為に尽くしてくれようとしていると思えるくらいであった。消極的な決断ではあったが、もしや良い選択であったのやも知れぬ。そう思い始めていたのだが、栄進は穏やかな佇まいの中に燃えるような野心を隠しておったのだ」
「領土を広げ、栄華な暮らしを望んでいたのでございますね」
「切れ者とはいえ栄進は船越家の六男だ。どう考えても領主の座に就くことは見込めず、小国なれど紅野家の当主が約束された養子縁組の話は当人にも旨味があったのであろう。降って湧いた好機に、俄然己の野望を膨らませていったのだ」
「哀しい人……」
 思わずぽつりと漏らす。小さいながらも肥沃な土地に恵まれたこの国で、賢君として名を馳せる未来では物足りなかったのだろうか。栄進ならばきっと豊かな国を築くことができただろうにと、今更言っても詮無いことばかり蝶子は考えていた。

「栄進の裏の顔に気づいたのは、守之介であった。結局は奴の執念が、この国を救ったのだ」
 やがて父は、蝶子を見やるとそう打ち明けた。いつも飄々としている小柄な男の顔を思い浮かべながら、蝶子は黙って父の話に耳を傾けた。
「栄進が我が国の為に尽くしてくれていると我らが油断していた間も、守之介はひとり忠孝の死の真相を探っていた。出世を諦めたように振舞いわざと孤立を深め、度々染乃を訪れて伊織殿と情報を共有しておったのだ」
 忠孝の死後、他人を寄せつけぬ空気を纏って己を貶める言動を繰り返していたのは、単独行動をしやすくする為。本人は多くを語らないが、間者として海原国に赴くなど随分と危険なこともしていたらしい。
「まさか、そこまで……」
「栄進や豪進がそう安易に尻尾を出すことはない。執念深く追い続けた守之介がようやく掴んだのが、かつて忠孝が生きていた頃に蜂起した泉水村の者たちを影で援助していたのが、栄進であるという事実であった」
 その父の言葉に、蝶子は体から血の気が引くのを感じた。蝶子の命を奪おうとした栄進は、その長い指で義妹の首を絞めながら言ったのだ。姑である雪寿尼のもとを訪れようとしていた蝶子を襲ったあの刺客は、泉水村の出であったと。

 少しずつ、部屋の中の薄闇が濃くなってゆく。義兄の心もこうして、闇色を濃くしていったのだろうか。蝶子は背筋をぞくりと震わせながらそう思った。
「……すべてわしが悪いのだ」
 やがて音のない部屋の中で、ぽつりと父が零す。
「早々に戦を終わらせれば良かったのに、染乃へ恨みを持つ者たちの反発が怖くて動けなかった。そんなわしを見かねて忠孝が和平交渉に乗り出したが、無残にもその命を奪われた。栄進の嫁にして蝶子のことはわしの手元に置いておくつもりであったが、敵国へ嫁がせることとなり、しかも供のひとりをつけることも叶わなかった。そうやって蝶子を危険から遠ざけたつもりであったのに、二度も恐ろしい目に遭わせてしもうたのだ」
「父上は、守之介や伊織様と手を結び、義兄上の企みからこの国を守られたではございませぬか」
「それは守之介と長吉郎の働きだ」
「なれど、あの犬猿の仲であったふたりに手を結ばせること自体が、並大抵のことではございませぬ」
 もとを辿れば互いに紅野家に繋がる田辺家と武藤家は、昔から折り合いが悪い。紅野家を守るという目的は同じであるというのに、特に飄々とした守之介と堅物な長吉郎は性格が合わないようで、常に反目し合っていたのだ。
「わしは何もしておらぬ。守之介が己のことを死んだと偽って染乃へ発つ際に、長吉郎にすべてを告げて協力を仰いだのだという。守之介が伊織殿との連絡役を務めてくれておったのも、長吉郎が栄進にとりいろうとしているように装ったのも、すべて奴らがこの国の為に己で考えて動いたことだ」

 わしはいつも遅いのだ、そう言って哀しげに父が笑う。微かに震えるその声に、蝶子は泣きそうになった。
「家臣の反発を恐れて戦を終わらせることができなかったくせに、忠孝に万一のことがあった時の為、男子を他にももうけよという言葉には耳を貸さなかった。病がちなおまえの母の他に、側室を召し上げるという話は一蹴したのだ。もしも染乃との交渉をわしが早く決断していれば忠孝は命を落とすことはなかったかも知れないし、もしももうひとり男子を産ませていれば栄進が穂積に養子に来ることはなかった。さすれば奴が欲に狂わされることもなかったかも知れぬのだ」
 この人は一体、どれほどの後悔を抱えているのだろうか。蝶子は父の背中をじっと見つめた。優しくおっとりとした人柄は、平時の際には民に慕われるものとなろう。けれども常に近隣の地図が塗り替えられている戦国の世において、和孝のような性格を表す言葉は、優柔不断や決断力がないという否定的なものにたちまちすり替わってしまうのだ。

 蝶子はそっと父に近づくと、その背中に頬を寄せた。頼りない当主だという揶揄は、幼い頃から蝶子の耳にも入っていた。娘に聞こえてくるくらいであるから、当然本人も知っているであろう。国を守るべき領主の座の重みと、その勤めを上手く果たせていないという歯がゆさの狭間で、ずっと父は苦しんでいたのだろうか。
「……蝶子」
「はい」
 己の名を呼ばれた瞬間、頬が触れている背中が微かに振動する。その温もりを感じながら、蝶子は静かに応えた。
「わしは智将と呼ばれた父のことを疎んじておった。祖父に似て決断力に秀でた忠孝に対して、劣等感を抱いておったのだ」
 何と弱い人だろう。父の告白に、娘はそう感じた。確かに本人が自覚しているように決断を強いられる立場に向いているとは言えず、この時代のこの立場に、このような性格で生まれついたことはある意味不運であろう。けれど違う。当主に求められるのはそれだけではないと、蝶子は強く感じていた。

「先程父上は、虎之新と長吉郎の各々が国の為に働いてくれたと仰られました。それは父上が、あの者たちにとって誠心誠意仕えるべき主君であるという証でございましょう。もしも父上が当主として不向きならば、父上を討ち、己が成り替われば良いのです。なれど彼らはそうせず、反目し合う者同士が敢えて手を組んで紅野家を守ろうと尽力してくれました。それは常に穂積の民のことを考えておられる父上の人徳のいたすところであると、蝶はそう確信しております」
 いくら栄進のように切れ者であっても、常に人を疑っている主君を崇めることは難しい。たとえ優柔不断であったとしても、和孝は決して家臣や民を切り捨てない。紅野家の栄華よりも国の繁栄を願っているからこそ、その信頼関係が揺るぐことはないのだ。
「頼りない当主ですまぬ。情けない父で、本当にすまぬ……」
 そう声を絞り出すと、和孝は肩を震わせた。父は蝶子のことを、和平交渉の駒にはしないと言った。母の死後も、他の誰かを代わりに据えることはなかった。それで充分だ。民が最終的に求めるのは誠実な人物であり、情に深い人物である。
 蝶子は零れてきた涙を拭うと、父の背中を労わるように何度も優しくさすった。

 


2016/05/31 


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