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の居る場所



 東風の章  捌


 城の奥にある座敷牢には、月明かりは届かない。襖の隙間から覗く微かな炎だけが、夜を照らすすべてであった。

「なあ、守之介よ」
 暗闇の中で姿勢を正していた男が、不意に口を開いた。もはや抵抗することも悲嘆することすら面倒で、考えることのすべてを放棄してただ静かに座していたのだが。それなのに、己の行く手を阻んだ張本人と思われる男と話してみたいとふと思ったのは、ほんの気まぐれであろう。
「此度の筋書きはおぬしが書いたのか?」
 襖の向こうからは一瞬身構えるような気配が感じられたが、返事はない。けれども男は頓着することなく、断定を込めてそう問うた。言葉を発すると、切れた唇に痛みが走った。

「俺だけでは書けぬ」
 黙殺されるだろうと答えは期待していなかったが、意外にも感情を殺した声が返された。
「蒼山伊織の元へ蝶子を嫁がせることを進言したのはおぬしであろう?」
「いや、忠孝だ」
 さして興味もないが何となく質問を重ねてみると、次は即答で返された。
「かつて忠孝が進言し、お屋形様が決断なされた。何より伊織様が、蝶姫を求められたのだ」
「ふん、下らぬ話だ」
 自分から尋ねておきながら、守之介の答えを聞いて急に男は鼻白んだ。篠田光宗によると蝶子は夫よりもその腹心の部下に心を開いているという話であり、間者からの報告でも、ふたりは寝所を共にしておらずいずれは瑠璃を側室に召し上げるつもりであろうとのことであった。けれど、男の手から妻を奪い返した夫の態度はとても離縁を望んでいるようには見えず、また妻の表情も夫以外の男に懸想しているようには見えなかった。要するに、夫婦不仲の噂は真っ赤な嘘であったのだ。
「栄進殿」
 男が黙り込むと、今度は守之介の方が呼びかけてきた。
「蝶姫が蒼山家から離縁されると聞けば、それに乗じて動くやも知れぬと仰られたのよ。出戻った蝶姫を己の妻として迎えるか、あるいは傷心で気が触れたとして奥座敷に閉じ込めるか、はたまた自害を装って命を奪うか……」
 守之介の説明には主語はなかったが、男はそれが誰かを尋ねる気にもならなかった。
「蝶子は優しいと評しておったが、食えぬ男よ」

 小国の凡庸な若当主と思っていたのだが、どうやら栄進の見立ては間違っていたらしい。穂積と染乃を支配するのに、厄介なのは和平交渉の発起人である紅野忠孝とみなし、紅野家の次期当主さえ消せば容易に事が運ぶと考えていたのだ。
 決断力と行動力のある忠孝は確かに脅威であったが、父である現当主が木偶のような男であるということは海原国まで聞こえていた。忠孝の死後、栄進が紅野家へ養子として入ることに強固に反対していたという筆頭家老の田辺家嫡男はある日山奥であっさりと命を落とし、田辺家と反目していた武藤家は娘を差し出し擦り寄ってきた。想像していたよりも遥かに穂積の人間は無能で、風はあっさりと栄進に向かって吹き始めたのである。
 一方、染乃国では若い伊織よりも叔父である秀久を支持する声が根強く残っており、統率力に欠けているのは明らかであった。その筈であったのに、栄進は今、彼らの手により月明かりも届かぬ奥座敷に閉じ込められているのだ。

「もう少しだと思うておったのにな……」
 そうひとりごちる。あと少しで手に入ると思っていたものたちが、するりと栄進の指先を掠めて零れ落ちていった。もはやそれらを掬い取ることは叶わない。
「なあ守之介、この身はどうなるであろうか?」
 自嘲気味にひとつ溜息をつくと、やがて栄進は閉ざされた襖の向こうで己を見張っている小柄な男にそう問いかけた。
「知らぬ。すべてはお屋形様が決断なされることだ」
 返ってきた言葉は、予想どおり突き放したものであった。
「もしも私を処刑するならば、船越家が黙っていないと思うがな」
「俺に首を斬られるか、それともこの薄暗い部屋で一生を過ごすか。おまえの行く末を決めるのはお屋形様であり、おまえではない。忠孝の人生を奪い、茜子の人生を狂わせたおまえが、己の道を決められるとは思うな」
 そうきっぱりと守之介が言い放つと、部屋の中に再び静寂が広がった。もはや守之介は会話をするつもりはないらしく、栄進の方ももう話すことはなかった。

 月が見えぬこの部屋では、今の刻限が分からない。暗闇に包まれた部屋の中で、栄進は縛っている己の髪をおもむろに解いた。この部屋に連れて来られるまでは長吉郎によって後ろ手に縛られていたのだが、立場を考慮されたのか、何も隠し持っていないことが判明するとその手は拘束を解かれていた。部屋の外にいる守之介に悟られぬよう、そっと髪をおろす。そして己の髪の中から細く折った薬包を取り出した。
 心は不思議と凪いでいる。騙しているつもりが騙されていた己の未熟は面白くないが、権力を得ることにそこまで執着があったわけでもない。栄進はその長い指で、音をたてないように注意深く薬包紙を開いた。
 閉じ込められている部屋は三方が壁で、残りは襖だ。襖の向こうでは守之介ら腕利きの男が数名こちらを睨みつけている筈で、その圧迫感はなかなかのものである。それなのに今、栄進の心は無性に解放感を覚えていた。やがて居住まいを正すと、ゆっくりとひとつ息を吐く。そして薬包紙を口に寄せると、その粉末を躊躇うことなく口に含んだ。



* * *   * * *   * * *



 年が明けて少しずつ春が近づいていると思われたのに、今朝は真冬に逆戻りしていた。部屋の中までも底冷えがし、ぴたりと板戸が閉められているので見えないがどうやら外はみぞれが降っているようだ。
「奥方様、お加減はいかがでございますか?」
 夢と現を彷徨っていた意識が、聞き慣れた声に呼び戻される。薄く目を開けると、心配げな表情で桔梗がこちらを見つめていた。
「ええ、大丈夫よ」
 安心させるように笑おうとしたのだが、上手くできていたかは分からない。相変わらず桔梗の表情は硬いままで、恐らく己はひどい顔色なのであろうと蝶子は自覚した。

 慣れぬ山歩きの末に、蝶子が生まれ故郷である穂積国に辿り着いたのは昨日のことだ。そして、事を急いた義兄の栄進により危うく命を奪われそうになったのもまた、昨日のことである。既のところで父と夫に助けられたものの、けれども長い一日はそれでは終わらなかった。
 ようやく床についた蝶子だが、体は疲労困憊している筈なのに、頭は冴えてしまって一向に睡魔がおとずれない。義兄の言葉と茜子の表情が何度も脳裏に蘇り、暗闇の中でじっと目を開けたまま様々なことへと思いを巡らせた。その時、不意に廊下で物音がした。寝入っていれば気づかないくらいの微かな音であったが、神経が研ぎ澄まされている状況では、緊迫した何かが起こったのだとすぐに察せられた。上掛を羽織って部屋を出れば、同じく起き出していた父がそれを見咎めた。けれども己だけが守られ、何も知らないままにやり過ごして良い筈はない。そんな蝶子の覚悟を汲んでくれた夫が父を説得し、蝶子も彼らに同席することが許された。そしてその場で知らされたのは、栄進が自害したという事実であった。


「奥方様、朝餉をご用意いただいております。お召し上がりになられますか?」
 桔梗はそう声をかけると、湯気のたっている膳を運んで来た。その隣では、見覚えのある侍女が茶の準備をしている。何かを口にしなければならないのは分かってはいるのだが、蝶子は粥をひとさじ口にする食欲すらなかった。何よりも全身がだるく、上体を起こすことすら困難であった。
「蝶子、起きておるか?」
 蝶子が食事を断ろうと口を開きかけたその瞬間、襖の向こうから遠慮がちに声がかけられた。聞き慣れた穏やかな声の主は夫である。蝶子が小さく頷くと、桔梗がすぐに襖を開けた。
「大丈夫か?」
 そう気遣わしげに声をかけながら、伊織が横になっている蝶子の傍までやって来る。そのまま胡坐をかくと、大きな掌で妻の額にそっと触れた。
「少し熱があるな。粥は食えそうか?」
「……」
 せっかく準備をしてくれたのに申し訳ないが、蝶子は口にできるとは思えなかった。小さく首を振ると、夫はあやすようにそっと頭を撫でた。
「穂積までの道中で無理をさせた上、昨日は一度に様々なことが起きた。身体的にも精神的にも、蝶子には相当な負担を強いたと思うておる。熱が出ているのも、我慢強いそなたの代わりに体が悲鳴をあげておるのであろう」
「伊織様……」
 掠れた声でその名を口にすると、夫は妻の呼びかけに優しく微笑み返してくれた。
「なあ蝶子、辛いとは思うが少しだけ粥を口にしてはくれまいか? 飯を食わねば体に力は入らぬ。私はそなたに穂積城の美しい庭を案内して欲しいから、私の為に食事を摂って早く元気になってはくれまいか?」
「……ずるい、です」
 愛しい人にそのように懇願されて、無下にできる女がいようものか。蝶子は恨めしげにそう呟くと、鉛のように重い体を何とか起こそうと試みる。そんな妻の背中を支えながら、伊織は桔梗から粥の入った椀を受け取った。結局、椀の中の半分も食べることはできなかったけれど、それでも少しだけ食事を口にした蝶子は、そのあとぐっすりと深い眠りについたのであった。


 ひんやりとしたしたものを額に感じ、蝶子はうっすらと目を開けた。どうやら水に濡らした手拭いを額にのせられているらしい。体のだるさは殆どなくなっていたがまだ少し微熱は残っているようで、その手拭いの冷たさがとても心地良かった。
「も、申し訳ございませぬ!」
 蝶子が目覚めたことに気づいたのだろう。首筋の汗を拭う手が止まり、侍女が蝶子を起こしたことを慌てて詫びた。
「随分と楽になったわ。ありがとう」
「とんでもございませぬ。先程まではずっと、蒼山様が蝶姫様のお世話をされていらっしゃったのでございます」
「伊織様はどちらへ?」
 大きな伊織の手に安心して眠りについたのだが、今はその姿が見えない。桔梗の気配も感じられず、蝶子の傍には年若い紅野の侍女しかいなかった。
「蒼山様は田辺様に呼ばれ、お屋形様のお部屋へいらっしゃいました。桔梗様は少し席を外していらっしゃるだけですので、すぐにお戻りになられます」
「そう」
 侍女の説明に小さく頷くと、蝶子はゆっくりと体を起こした。朝は夫の支えがあっても辛かったというのに、今は自力で起き上がることができた。
「蝶姫様、無理をなさっては……」
「大丈夫よ。それよりも、喉が渇いたので水をいただけないかしら」
 蝶子が笑みを浮かべると、気遣わしげだった娘はようやく安堵の表情を浮かべた。そして手早く水を注ぐと、そっと蝶子に差し出した。

「小菊、色々と世話をかけたわね」
 こくこくと水を飲み干すと、蝶子はほっと息を吐いた。熱のせいか水分を欲していた身体が一気に潤される。空になった湯呑みを返しながら、蝶子は年若い侍女にそう声をかけた。
「わたくしは何も……」
 蝶子の言葉に、小菊は恐縮したように何度も首を横に振る。そしてそのまま俯いてしまった。
「小菊?」
 何か言いたげな様子に蝶子がその名を呼ぶと、侍女はやがて意を決したように手をついて頭を下げた。
「蝶姫様が穂積を発たれる日、蒼山様に対してわたくしは無礼なことを申し上げました。大変申し訳ございませんでした」

 蝶子が伊織のもとへ嫁ぐ際、ひとりの侍女を帯同することも許されなかった。茜子が栄進と通じていたせいだと分かった今ならそれも当然と受け入れられるが、何も知らなかった当時は随分と父を恨んだものだ。
 そんな蝶子に栄進は、茜子の帯同を許さないのは伊織の意向であり、和孝は冷酷な鬼の言いなりになっていると吹き込んだのである。優柔不断な筈の和孝が蝶子を敵国にやることを決意し、あまつさえ茜子の帯同も拒否したので、栄進も己の計画が狂ってさぞかし困惑したのであろう。何とか政略結婚が上手くいかないようにとの苦肉の策だったのだろうが、残念ながら蝶子は染乃での暮らしの中で、逆に栄進の言葉に違和感を持つようになっていったのである。
 けれども当時の蝶子は、栄進の言葉や他の家臣らの噂を真に受け、伊織を冷酷な鬼だと憎んでいた。そしてそれは、仕えてくれていた侍女らも同じであったのだ。

 ――蒼山伊織様にはくれぐれもお心を許されぬよう、お気をつけ下さりませ。

 侍女頭に制止されながらも、蝶子に仕えてくれていた侍女の中では最も年少であった小菊は、染乃へ発つ蝶子に必死でそう訴えた。けれども事実は違ったのだ。伊織は冷酷な鬼などではなく、蝶子は誰よりも夫に愛されている。伊織だけでなく姑の雪寿尼も、虎之新や桔梗と雲雀の姉妹も、皆が蝶子を大切にしてくれていた。
「小菊、伊織様は……」
「蒼山様はこんなにも蝶姫様を大切に想ってくださる方だというのに、わたくしはあの時、確証もない噂に惑わされて姫様が不幸になってしまわれると決めつけておりました」
 そう言えば、朝餉を運んでくれたのも確か小菊であった。伊織が蝶子に優しい言葉をかけていたのも、体を気遣いながら粥を食べさせていたのも、きっと目のあたりにしていたのだろう。深く頭を垂れる小菊の手に、蝶子はそっと触れる。驚いて顔を上げた侍女に、彼女は優しく微笑みかけた。
「わたくしも噂を信じ、伊織様を冷酷な鬼だと恨んでおりました。なれどそのお人柄に触れるうちに、そうではないと気づいたのです。わたくしたちは確かに政略結婚かも知れませぬが、もはやそのようなことは関係なく、伊織様はわたくしにとってお慕いする大切なお方なのです。そしてその事実に気づいたのは、小菊、そなたがわたくしの行く末を心より案じてくれていたからなのですよ」
 どれだけ己が染乃までついて行きたいか、どれだけ蝶子の身を案じているか。夫を冷酷な鬼であると信じていた頃の蝶子にとって、孤独な毎日の支えになったのは亡き兄への想いと、そして己を案じてくれる侍女らの想いに他ならない。穂積の者たちに恥じないようにと心に誓っていたからこそ、蒼山伊織その人の本質を見抜くことを放棄せず、過酷な真実の数々と向き合うことができたのだ。
「小菊、わたくしのことを案じてくれてありがとう。伊織様のもとでわたくしは誰よりも幸せだから、もう安心して頂戴ね」
「蝶姫様……」

 蝶子にとって、小菊が夫の優しさに気づいてくれたことが何よりも嬉しかった。義兄のように人を疑い、利用し続ける一生はあまりにも哀しすぎるから。だから蝶子が染乃の人たちと接して憎しみを親しみへと変化させたことを、夫である伊織のことを心から尊敬していることを穂積の人たちに知って欲しい。そして穂積国と染乃国がもはや憎しみ合う存在でなく、助け合う存在であるということを、すべての人に理解して欲しいというのが今の蝶子の願いであった。

 


2016/06/11 


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