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の居る場所



 東風の章  陸


 蝶子を抱き起こし、己の胸へと引き寄せたのは伊織であった。無理矢理飲まされそうになった薬湯を拭い、さりげなく乱れた髪を手で梳いて着物を整えながら、夫は震える妻を安心させるように何度も優しく背中を撫ぜた。
「栄進、おまえ……!」
 夫の体温を感じて少し落ち着きを取り戻した蝶子の耳に入ってきたのは、怒りに震える父の声であった。そっと視線を上げると、父が仁王立ちになって義兄と対峙している。蝶子が助けを求めたその瞬間、部屋に踏み入って栄進を殴り倒したのは夫の伊織ではなく、父の和孝であった。
「……父上」
 その背中にそっと声をかけるも、父は振り返らない。拳を握り肩を怒らせながら、倒れ込んでいる栄進を睥睨していた。

「臥せっておられるのではなかったのですか?」
 やがて静かに栄進が問うた。殴られたのは口元のようで、赤く血が滲んでいる。義兄が口にした疑問は蝶子も抱いたものであり、いくら愛娘が殺されそうになっているとはいえ、その力はずっと寝込んでいた人間に出せるものではなかった。
「残念か。わしはこのように健康でおるし、蝶子を自害と見せかけて殺すことにも失敗した。紅野の血が残されて、おまえはさぞや口惜しかろう」
「謀っておられたのですね」
 滲んだ血を拭うと、栄進はそう呟いて薄く笑った。ずっと床に臥せっていた筈なのに大してやつれてはおらず、あまつさえ自分は健康なのだと言い放つ。つまりそれは和孝が体調不良を偽っていたということで、その姿に変化が見られないのは当然であった。
「飯は食うておった。ただ、信用できるものしか口にしなかっただけだ」
「ははっ。私は貴方のことも侮っていたようですね、義父上」
 和孝の言葉に、栄進は乾いた笑いを漏らした。

「……何故だ?」
 栄進の言葉には答えることなく、和孝がそう低く呟く。苦悶に満ちた唸るような声に、蝶子は息を止めて父の後ろ姿を凝視した。
「わしは養子であるおまえに家督を譲るつもりであった。何故それで満足できぬ? 穂積と染乃が和平交渉を結び、両国がそれぞれ小さいながらも平和な国を築く。何故それでは満足できぬのだ?」
「そこに何の保障があるというのです。たとえ貴方がそのつもりでも、家臣らが紅野の血筋を求めたら、その血を引かぬ私はたちまち排除されましょう。和平交渉を結んだとて、誰かが裏切ればいつでも脆く崩れ去るのです。戦国の世で信じられるのは己のみ。だから私は、己に害なす可能性のあるものを排除しようとした。ただそれだけです」
「貴様!!」
 淡々と述べる栄進の言葉に、激昂した和孝が思わず拳を振り上げる。その瞬間、身じろぎもせずにそれを受け入れようとする栄進の前に、ひとりの女が音もなく進み出た。そして視線を上げることなく手をつくと、そのまま畳に額を擦りつけるかのように頭を垂れた。
「恐れながら、栄進様は心底お屋形様の体調を案じ、薬を煎じておられました」

 和孝と栄進の間に進み出たのは、侍女である茜子であった。果たしていつからこの場にいたのだろうか。義理の父子が会話を繰り広げる間はずっと気配を感じられなかったけれど、当主の怒りが爆発したその瞬間、まるで栄進を庇うかのように現れた。
「お屋形様は疑っておられるようですが、あの薬湯を何度も口にしたわたくしはこのとおり元気にございます。それは実際にご覧になられたお屋形様がよくご存知でございましょう? これまでも栄進様はご自身で育てられた薬草で、城で働く者たちを何人も救って下さいました。お屋形様の体調が思わしくないとお聞きになられた栄進様は、薬をお飲み下さるならば薬師が煎じたものだと偽っても構わないと。ご自身がお屋形様を案ずる気持ちが伝わらなくてもそれで良いと、そう申されたのでございます」
 頭を下げたまま茜子は訴え続ける。そんな侍女の様子を、栄進は無表情で眺めていた。
「お仕えするわたくし共は皆、栄進様を鬼灯様とお呼びしておりました。船越家はご当主の豪進様をはじめ男子には進という文字が必ずつけられ、栄進様というお名前である限りご生家である海原国の船越家を自然と連想してしまいまする。それ故、今は紅野家の人間であるご自身のことは、‘鬼灯の間に住まう者’ということで‘鬼灯’と呼んで欲しいと、そう我らに申されました。栄進様、いえ鬼灯様は、誰よりも紅野家に相応しくあろうと努めてこられたのでございます」
 茜子の切々とした声だけが部屋に響き、誰も言葉を発しない。当主である和孝は、いつの間にか振り上げた拳を下ろしていた。

 重苦しい沈黙が広がる。やがて無言が支配する空間を静かに打ち破ったのは、紅野家の娘である蝶子であった。
「わたくしは子供の頃、鬼灯の赤い実が恐ろしく思えることがございました」
 そうぽつりと語り始める。守られるように夫に抱き締められていた蝶子は既にその腕から離れ、凛と姿勢を正して真っ直ぐに茜子の横顔を見つめていた。
「鬼灯の根は子を流す毒を持つ。その事実を知りわたくしは、幼心に美しい筈の赤い実が恐ろしく見えた理由がようやく分かったのです」
 頭を下げたままである茜子の横顔は、髪に隠れてその表情は伺えない。けれどもほんの一瞬だけ、その細い肩が微かに跳ねた。
「わたくしが穂積を発つ際に、三種類の薬を授けられました。発熱時に服用する薬と咳止めに効く薬、そして子を宿した際の悪阻を和らげる薬です。わたくしはそれらを母上の形見である裁縫箱の奥底に仕舞い、いつかの為に大事に保管しておりました。そしてある時、とある大切な者の母君が悪阻で苦しんでいると聞き、その薬を飲むようにと手渡したのです」
 淡々とした染乃での日々に朗らかな気持ちをもたらしてくれたのは、桔梗の妹である雲雀の無邪気な存在だ。けれども彼女は母が悪阻に苦しむ姿を見て小さな心を痛めており、その天真爛漫な笑顔が戻るようにと、蝶子はその薬を雲雀に授けたのであった。
「……それを飲めば、どのような症状が現れるのでございますか?」
「存じませぬ。わたくしが軽率に渡した薬が堕胎作用のある鬼灯の根であるとお屋形様がお気づきになり、服用されることはなかったのです」
 あからさまに顔色が変わった茜子が、やがて覚悟を決めたように尋ねてくる。微かに声を震わせながらなされた問いに、けれども蝶子は素っ気無く応じた。その返答のとおり、幸いにも雲雀らの母親の手に危うい薬は渡ることはなかったのである。
「茜子は覚えておらぬやも知れませぬが、この城を発つ直前に、義兄上より預かったと手渡されたあの薬のことですよ」

 蝶子の声がどこまで耳に届いているのか、茜子はそうですかと小さく呟いた。そして己の平らな腹に手をやり、無表情でそっと撫ぜた。
「ならぬ!!」
 刹那、部屋の中に鋭い声が響く。振り返れば、いつも穏やかな伊織が険しい表情で腰を浮かせていた。
 和孝に殴り倒された栄進は抵抗も見せず、まるでひとごとのように蝶子の話を聞いていた。けれどもやがて、脇に置かれていた鉄瓶にすっと手を伸ばす。そして先程蝶子に飲ませようとした、毒草を煎じた茶と思われるその中身に口をつけようとしたのだ。
「死ぬのは卑怯ぞ」
 さりげなく命を絶とうとした栄進にいち早く反応し、その手から鉄瓶を奪い取ったのは伊織であった。けれども、紅野家と蒼山家の両当主の前に企てのすべてが露見され、栄進はもはや死ぬことしか見えていないのか激しく抵抗した。
 やがて大きな音を鳴らし、鉄瓶は開け放たれた庭へ毒茶を撒き散らしながら転がって行く。その先には、鬼灯の赤い実がひとつ落ちていた。


「鬼灯の赤い実は鬼の目ぞ。悪さをしないように庭から見張っているのだと、かつてそう教えたでござろう?」
 激しい物音を聞きつけて、男がふたり部屋に入って来た。ひとりは栄進を後ろ手に拘束している伊織の元へ進み、そのままその腕を縛り上げる。そしてもうひとりの小柄な男は、呆然と座っている侍女にそう声をかけた。
「……守之介様?」
 まるで亡霊でも見るように、驚愕と怯えが入り混じった表情で茜子が呟く。その瞬間、両手を縛られて自由を失った栄進が、声をあげて笑い出した。
「田辺守之介、そなたは生きておったのか?」
「俺は忠孝の分まで生きると誓った故、そう簡単には死ねぬのだ」
 今しがた死のうと試みた男に対し、胸に十字の傷を負った男が皮肉な笑みを浮かべた。

「跡継が亡くなった紅野家を思うままに操るのは容易だと、そう思うておられたのでござろう?」
 思うておった。守之介に質問を向けられた栄進は、拘束された状態ながら不遜な態度でそう答えた。
「当主は優柔不断で決断力がない。家老職に就く田辺家は嫡男の守之介が急死して落ち着かず、敵対している武藤家は田辺家を出し抜く為に娘を差し出して擦り寄ってくる。当主の座に就きさえすれば無能な家臣らを丸め込むのは容易で、染乃国を穂積の領土とし、海原国へ攻め入ることも可能だと思うておった」
 まるで夢を見る少年のような表情で栄進はそう語った。その美しい横顔を見て、蝶子は背筋がひやりと凍るような気がした。
「無能な者たちは愚か故に、血筋に固執する。私が養子であり正当な跡継であったとて、いざ家督を継ぐとなれば紅野の血を引いていないと横槍が入るに違いない。だから紅野の姫である蝶子を妻とすれば、家督争いは回避できる筈であった」
 実際に栄進と蝶子が婚姻を結ぶという噂は流れており、蝶子もそうあれば良いと願ったこともあった。けれどもかつて優しく見えた義兄の瞳には愛情の欠片も見えず、思わず蝶子は伊織へ視線をやった。そんな妻の様子を察知した夫は切れ長の目に優しさを滲ませ、安心させるように頷いた。
「なれどお屋形様は、蝶姫を伊織様の元へ嫁がせることを決断なされた」
 守之介がそう口を挟むと、栄進はふっと鼻で笑い口角を歪めた。そのやりとりを受けて口を開いたのは、蝶子の嫁ぎ先を決定した張本人である和孝であった。
「わしは可愛い娘を駒にはせぬ。父として、蝶子を幸せにしてくれる男を夫として選んだまでだ」
 仁王立ちのままそう低く言い放つ。いつの時点で義理の息子の歪んだ野心を見抜いていたのかは知らないが、父は栄進の妻として娘を手元に残すよりも、敢えて隣国の蒼山家へ嫁がせることを望んだのだ。

 義父のその言葉に、栄進はちらりと伊織に視線をやった。黙ってそれを受ける伊織に対し、栄進はすぐに興味を失ったように視線を逸らして言葉を繋いだ。
「そんな折に武藤家から娘を差し出す話が出た。既に薫姫は他家への輿入れの話が進んでいると聞いていたが、それを曲げてまで強引に進めようとするのは出世に貪欲だという証だ。武藤家はその系譜を辿れば紅野家に繋がり、家柄に関しては申し分がない。私は武藤家と力を合わせ、強い国が作れるとそう信じておったのだ。なあ、長吉郎?」
 淡々とそう語ると、栄進は己の両の手を縛っている背後の人物に呼びかけた。
「強い国とは、民に犠牲を強いる国。私はそのような国を求めてはござらぬ」
「まさかおまえまで私を謀っていたとはな……」
「まるで私を信じておられたような口ぶりだ。鬼灯様、貴方は誰のことも決して信じてはおられなかったでしょうに」
 信じていたよ。義理の兄弟になる筈であった武藤長吉朗の問いに、栄進は即答した。その口調はどこか寂しそうにも聞こえた。
「貴方は蒼山殿と蝶姫様を亡き者とする為、私に山に忍んで岩を落とすことを命じられた。そしてご自身は、決して疑いがかけられぬよう城を不在にする予定であった。なれど貴方は早めに帰城なされた。確かに私は貴方の命に従わず、蝶姫様の命を奪う代わりに鏡泉山までお迎えに上がったが、貴方も人目につかぬようこそこそと帰城なされて別の作戦に移られたではござらぬか?」


「……蝶姫様のお命を狙っておられたのですね」
 ぽつりと、会話が途切れた室内に哀しみを帯びた言葉が落ちる。頭を垂れ続けている茜子が、畳の目をじっと凝視しながらそう呟いた。
「蒼山様の元で姫様は虐げられているのではなく、大切にされておられたのでございますね」
「ええ、そうよ」
 誰に問うでもなく呟かれた言葉に対し、蝶子が静かに肯定する。その瞬間、茜子の目からほろりと一粒涙が零れた。
「姫様は何もご存じないままにその身ひとつで伊織様の元へ嫁がれたが、その曇りのない目で誰が自分にとって害をなす人物で誰が自分にとって大切な人物かを、しっかりと見極められたのだ」
 幼い頃から蝶子と茜子を知る守之介が、冷やかにそう言い放つ。その言葉に茜子は声を殺して泣き崩れた。
「長吉郎、守之介、茜子と栄進を連れて行け。自害を図る為に毒薬を身につけておるやも知れぬ故、栄進の着物をしっかりと調べよ」
 和孝の命令に短く応えると、長吉郎は栄進の両手を拘束している縄を掴み、守之介は茜子の両肩を掴んで立ち上がらせた。

「あっ……」
 連れ去られようとしているふたりの背に向かい、蝶子は思わず声を発した。怒涛の展開に思考が追いつかず混乱が続いているが、言いたいことは山とある。まとまらないままに、口をついで出てくる言葉をそのまま繋いだ。
「義理の兄妹となって短い期間でございましたが、義兄上には随分と優しくしていただきました。わたくしは兄と慕っておりましたが、義兄上は一度も妹として見てくれたことはございませぬか? 紅野の血を引く邪魔な存在としか思えなかったのでございましょうか?」
 部屋を出ようとした栄進が足を止める。けれども、蝶子の方を振り返ることはなかった。
「父が床に臥したまま亡くなり、わたくしが伊織様との子を成せばその子を流し、わたくし自身の命も奪う。そうやって紅野家直系の血を絶やしたとて、義兄上に安寧はもたらされないでしょう。無事に当主に就いたとて、次は下剋上を狙っていると家臣らを疑い続けるだけ。何ひとつ信じるものがなければ、一生疑い続けねばならぬのではございませぬか?」
「そこに何の問題があると言うのです。先程の私と長吉郎の会話を聞いていたでしょう。手を組んでいても謀られていることや裏切られることはあり、それをふまえて算段しておけば良いのです。まあ今回は、まさか全員が手を組んでいたとは予想していなかったので、私が未熟だったということです」
 何と哀しい一生なのか。蝶子の中で義兄に対して憤りや怯えや様々な感情が渦巻いているが、一方で哀れに思えて仕方がなかった。
「蝶子、もう良い……」
 諦めたように父は大きく溜息をつくと、長吉郎と守之介にふたりを連れて行くよう促した。栄進は背筋を伸ばし、悠然と歩いて行く。一方で茜子は、深く頭を下げたまま守之介に支えられるように部屋を出て行った。
 愛する男性を盲目的に信じ、その言葉に従い続けた茜子という存在がずっと傍にいたではないか。虚勢を張るかのように背筋を伸ばした義兄の後ろ姿に、蝶子は心の内でそう問いかけた。茜子ですら利用する為だけの存在であれば、彼女の献身は一体何だったのであろうか。気づけば知らぬうちに、蝶子の頬に熱いものが流れていた。

 


2016/05/22 


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