久しぶりに会った父は、蝶子が危惧していたほどには衰えてはいなかった。
「よう参られた」
上座に構えている和孝は、娘と娘婿に対してそう声をかけた。食欲がないと聞いていたので痩せ細っていたらどうしようかと案じていたのだが、若干顔色が悪く見えるも、その佇まいは蝶子の記憶の中の姿と殆ど変わりはなかった。
「ご無沙汰しておりました。昨秋の野分の際には米や野菜を援助下さり、誠にかたじけのうござります」
「大したことはしておらぬ。災害の時にはお互い様でござろう」
そう礼を言いながら頭を下げる夫に倣い、蝶子も手をついて頭を垂れる。その行為は、己が紅野家ではなく蒼山家の人間であるのだと実感させられて、少しだけ父との距離が寂しく感じられた。
「蝶子」
不意に、父が娘の名を呼ぶ。はいと答えて面を上げると、父の優しげな視線がこちらに向けられていた。
「おまえは達者にしておったか?」
「はい。お屋形様はじめ皆様に良くしていただき、何不自由なく過ごしておりまする」
「そうか」
蒼山家へ嫁げと父にそう命じられた時は、幼い頃からずっと優しかった筈なのにと随分混乱したものだ。政略結婚など決して珍しい話ではないと分かってはいるものの、己は父に疎まれてしまったのかと戸惑い、強引に進めるそのやり方に憤った。結局殆ど言葉を交わすこともなく蝶子は蒼山家へ輿入れし、父が臥せっていると茜子から知らせを受けた時は、わだかまったまま父が逝ってしまったらどうしようとずっと怯えていたのだ。
「父上は最近あまり食事を召し上がられないと聞いておりまする。どこか具合がお悪いのでございましょうか?」
「少し疲れが溜まっていただけだ。おまえが心配するようなことは何もない」
病でないと言われても、臥せがちであると聞けば心配になる。そう口にしようとしたが、それは続く父の言葉に遮られてしまった。
「なあ蝶子。おまえには急な婚儀であったかも知れぬが、わしは己の決断は正しかったと思うておる」
唐突な言葉に、蝶子は思わず目を瞬いた。父は今日、娘にそのことを伝えたかったのだろうか。
「わたくしも、父上のご決断は正しかったと思うておりまする」
半年前は気づかなかったけれど、父は決して政略結婚の相手として蒼山伊織を選んだわけではないことがその言葉から伺えた。だから蝶子も伝えねばならぬと思った。父が決めた結婚がずっと不満で仕方がなかったけれど、今は伊織の妻となれたことが本当に幸せだということを。隣で夫が身じろぐのを感じながら、蝶子は真っ直ぐに父を見つめ返していた。
「そうか、そうか……」
ゆっくりと二度頷くと、和孝はじっと目を瞑った。誰も言葉を発することなく、部屋の中に沈黙が流れる。
「蝶子、席を外しなさい」
やがて目を開けると、和孝は静かにそう言い放った。
「父上?」
「わしは伊織殿と話がある故、おまえは下がっておれ」
一体、父は夫と何の話をしようというのだろうか。久しぶりに対面した父ともう少し話をしたかったのに、唐突に会話を打ち切った和孝の言葉は、穏やかではあるが有無を言わせない覚悟が見えた。疎外された蝶子はただならぬ空気を感じ、隣に座る伊織をそっと見やる。けれど夫も父に同意するかのように頷くので、蝶子は一礼してその場を辞するしかなかった。
「蝶子」
後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ようとしたその時、蝶子は和孝に呼び止められた。
「先程、武藤の薫姫が訪ねて来たそうだ。今宵は宴の用意をさせておるので、それまで久方ぶりに姫と語らうが良い」
「薫子様が?」
父の口から出たその名を、蝶子が戸惑い気味に問い返す。紅野家の家老を務める武藤家の薫子こそが、此度の婚儀で義兄の花嫁となるその人であった。けれど義兄は留守にしているらしいので、栄進に会いに来たのではなさそうだ。そもそも婚儀を間近に控えた姫が気軽に出歩いていることに驚きをおぼえつつ、蝶子は薫子が待機している部屋を確認してそちらに向かうことにした。
「では父上、また後ほど」
父と夫を残し、そっと襖を閉める。やがてひとつ息を吐くと、蝶子はすっくと立ち上がった。
廊下を曲がると、そこには梅の木が立っていた。
生まれ育った城は半年やそこらで変わる筈もなく、蝶子は懐かしさを感じながら古びた廊下を歩いていた。その梅の木の見事な枝ぶりは父の自慢で、花が咲く時分になると母とよく眺めていたものだ。蕾はついているかと思わず足を止めて探してみると、ここ数日暖かい日が続いたせいか細い枝の先にひとつふたつ、固い蕾を見つけることができた。ああ、春が近い。周囲を取り巻く黒い謀略から一線を画し、変わらず梅の木が可憐な花を咲かせようとしていることに蝶子はほっと安堵した。
「蝶子」
不意に、背後から名前を呼ばれる。人の気配をまったく感じられなかったので、蝶子は驚きのあまり思わず小さな悲鳴をあげた。
「すみません。驚かせてしまったようですね」
申し訳なさげに謝罪するその声に、蝶子は慌てて振り返る。そこには美しい顔立ちの男が立っていた。
「……義兄上」
蝶子の義兄である栄進は、武士とは思えぬ物静かな男であった。その所作は洗練されて美しく、声を荒げたり物音をたてたりするところを見たことがない。今も彼は、足音もたてず静かに蝶子の後ろに立っていた。
「久しぶりですね、蝶子。元気そうで何よりです」
「ご無沙汰しております。義兄上はご多忙とお聞きしておりますが、お疲れではございませぬか?」
「確かに忙しいですが、それも明後日の婚儀までのこと。少し疲れてはおりましたが、可愛い義妹の顔を見られて元気が出てまいりました」
蝶子が気遣いの言葉をかけると、優しく微笑みながらそう返してくる。この人はいつも、心を温かくくすぐるような言葉をかけてくれるのだ。
「蒼山殿はどちらに?」
「父上と接見中にございます」
そうですかと、まるで知っていたようにも意外そうにもとれる表情で、栄進は静かに頷いた。
「男同士の話から外されて、それで蝶子は拗ねていたのですね」
「別に拗ねてなど」
からかうような物言いに、蝶子は反射的に反論する。見上げれば、楽しそうに笑う義兄と目が合った。
「では、蒼山殿への挨拶はあとにして、私は寂しがっている蝶子のお相手をしましょうか?」
冗談めかしてそう言うと、栄進は蝶子を自室へと促した。そこで蝶子は、義兄の婚約者が待っていることをはたと思い出した。
「実は義兄上、薫子様がお見えになられているようなのでございます」
「薫姫が? まあ良い。少しくらい待たせておきなさい」
蝶子がそう告げるも、義兄から返ってきたのは意外な言葉だった。彼はあっさりそう言うと、ぐいと蝶子の手を引く。予想外に力強くて、蝶子は思わずたじろいだ。
「今宵は蝶子たちの歓迎の宴が開かれるでしょうが、そうなればゆっくりと話すことはできないでしょう。私は貴女が染乃城できちんと大切にされているか、それを確認しておきたいのです」
蝶子がかつてそうであったように、義兄も伊織を冷酷な鬼であると思い込んでいるのが言葉の節々に感じられる。そのような誤解をされたままでいられるのは耐え難く、一瞬蝶子は抵抗することを躊躇した。すると、そんな蝶子の迷いを見透かすように栄進はかつてない強引さで蝶子を自室へと連れ込み、そしてまるで人目を避けるかのようにぴしゃりと襖を閉めた。
栄進の居室は離れにある。もともと薬草を育てる為に利用している場所であったが、栄進が養子として穂積城にやって来た際、薬草の知識を有している彼が気に入り居室としたのである。海原国から突然養子にと差し出され、本人も色々と気苦労があるだろうから離れの方が気楽かも知れぬと、父も彼の希望に反対することなく受け入れた。
「あ、鬼灯……」
久しぶりに義兄の居室に足を踏み入れた蝶子だが、開け放たれた木戸の先に広がる庭に視線をやると、小さくそう呟いた。昔から薬草園であるその庭を囲うように鬼灯が植えられており、冬になって枯れてしまった袋の中から赤い実が妖しく覗いている。
「この庭も随分と薬草の種類が増えたでしょう? それでも存在感があるのは今も鬼灯で、以前からこの部屋は鬼灯の間と呼ばれていましたが、とうとうここに住んでいる私は‘鬼灯’という渾名をつけられてしまったのですよ」
そう言って、くっくと楽しげに肩を震わせる。そんな義兄の美しい横顔を、蝶子は黙ってじっと眺めていた。
「おや、その足はどうしたのですか?」
「これは……」
ふと視線を足元に落とした義兄が、驚いたようにそう声を発する。蝶子は潰れたまめを隠すように、そっと足先を擦り合わせた。
「何と、ひどい足だ。女子にこのような無理を強いるとは、貴女の夫はあまりに思いやりに欠けておられるのではないですか?」
立ち尽くす蝶子の前で屈むと、栄進は眉間を寄せてこの場にいない伊織のことをそう非難した。
「これはわたくしの歩き方が悪かったのでございます」
「歩き慣れぬ女子を気遣わなくてどうするのです」
非難めいた言葉に耐え切れず、思わず夫を庇う言葉を口にする。けれどそれも、あっさりと切り捨てられてしまった。黙って唇を噛んで俯くと、蝶子は義兄から座りなさいと命じられた。
そのまま栄進は華麗な動きで庭に下り、薬草の葉を数枚ちぎると再び部屋の中へと戻って来た。
父と夫は話を終えただろうか。薫子はまだ自分を待っているだろうか。そもそも己が義兄と居ることを、誰か知っているのだろうか……。そこまで考えると、蝶子はやはり己はここに居てはならないと思い直した。
「座っていなさいと言った筈でしょう」
落ち着かない気持ちで立ち上がろうとした蝶子を、栄進が静かに制する。その口調は柔らかいのに、逆らえない何かがあった。
「ここまで妻に無理を強いて、貴女の夫はやはり冷酷な鬼ですね」
「っつ……」
ひとりごとのようにそう呟きながら、義兄は手早くすり潰した薬草を蝶子の足に塗りつけた。薬草の汁が潰れたまめにしみる。青臭い匂いを嗅ぎながら、蝶子は零れ出そうになる声を必死で堪えた。
「やはり義父上に逆らっても、貴女を染乃へやるのを反対すべきでした」
このようなことになるのなら。そう言って栄進は、蝶子の白い脚をそっと撫でた。
「伊織様は、鬼などではござりませぬ」
すっと脚を引くと、蝶子は怒りを含ませながらそう反論した。
「ほう、絆されたのですか?」
義妹の顔を覗き込むと、意外そうに義兄が問うた。蝶子が挑むように見つめ返すと、栄進は哀れむような表情を見せた。
「妻の体も気遣わぬ夫は、きっと今頃義父上に離縁の話をしているのでしょう。己に都合の良い話を作り上げて貴女を貶めて、体よく穂積へ帰そうとしているのですよ」
それは以前、蝶子が誤解した話。何故それを義兄が知っているのかと驚きつつ、同時にやはり知っていたかと納得した。
「蝶子のことが心配で、実は染乃に何度か間者を送って様子を探らせておりました。そこで蒼山伊織が離縁に向けて画策していると掴んだのです」
「違います」
あっさりとそう白状した義兄に対し、蝶子は事実とかけ離れたその内容を否定した。けれども栄進には蝶子が現実から目を逸らしているだけだと映ったのか、まったく取り合うことなく部屋の隅に移動する。そこに鎮座している鉄瓶を手に取ると、湯飲みに薬湯と思しき何かを注ぎ始めた。
「蒼山伊織が蝶子を離縁するのは、従妹姫を娶る為とのこと。穂積との和平よりも、己の野心を優先させる身勝手な男なのですよ」
「伊織様は、優しいお方です」
「ああ、そうですね。離縁せずに従妹姫を側室にすることもできたでしょうに、貴女を飼い殺しにしないというのは優しいのやも知れません。なれど、いずれあの男はこの穂積を攻め入る算段であり、蝶子がかつての夫の侵略を迎え入れなければならない状況もまた残酷ではあるでしょうが」
まあ、そんな勝手はさせませんよ。そう静かに笑うと、栄進は蝶子の目の前に薬湯の入った湯呑みを置いた。
「伊織様は、決して穂積を攻めませぬ」
差し出された湯呑みに見向きもせず、蝶子はそう言い放った。
「まあ、その薬湯を飲みなさい。心が落ち着く作用があるのです」
「伊織様は決して穂積を攻めませぬ。義兄上が、染乃に攻め入らぬ限りは」
「どうやら蝶子は長旅に疲れているようですね。珍しく気持ちが昂ぶっているように見受けられます」
「お約束くださりませ、義兄上。決して染乃を攻めぬと。染乃の民も、穂積の者たちと変わらぬ勤労な者たちばかりなのです」
伊織は民を苦しめる戦を望んではいない。けれども穂積が攻め入れば、国を守る為に武器を手にするしかないのだ。逆に言うと、穂積が攻め入ることがなければ、戦は起こりようがない。それはとても簡単で、とても難しいことであった。
「私は常に紅野家の繁栄を願っております」
「伊織様はいつも染乃国の平和を願っておられます」
かつて蝶子は、自分は栄進の妻になるのだと思っていた。美しく優しいこの男性に対して、密かに義兄以上の感情を抱いたこともあった。けれど、伊織の元へ嫁いで少しずつ会話を重ね、夫と義兄の目指すものは異なることに気づいたのだ。栄進は常に、紅野の為と口にしていた。蝶子が穂積を発つ時も、文を送ったその返信も。紅野を守る、紅野を任せよと、いつも触れるのは蝶子の生家である紅野家のことだった。
一方、伊織が蒼山家について言及した記憶はない。夫が口にするのはいつも、国の行く末についてである。染乃の為、民の為、それが伊織の口癖であった。そのことに気づいた時、蝶子は一生伊織の傍にいたいと願うようになったのだ。
「伊織様は、己よりも民を、家よりも国の繁栄を望んでおられるのです」
そんな揺るぎのない夫への信頼を口にしたその瞬間、蝶子の視界はくるりと反転していた。
「聞き分けが良く聡い義妹を好ましく思っていたのに、蒼山伊織に毒されたのか小賢しい女になってしまいましたね」
残念です。そう冷ややかな笑みを浮かべる義兄の顔が、すぐ目の前にあった。背筋をぞくりと悪寒が這い上がり、逃れようともがく。その時はじめて、蝶子は己が義兄に押し倒されていることに気がついた。
「義兄上、お離し下さりませ!」
「領主の繁栄がなければ、国の繁栄はないのではありませぬか?」
整った顔に浮かぶ笑みはいっそ冷酷だ。そんなことも分からないのかと蔑むように、栄進はそう問うてきた。
「私が民の為に尽力してやっているのですから、私が見返りを受けるのは当然でしょう? 栄華な暮らしを民に見せつけねば、領主の威厳は保てないでしょう?」
まるで肯定せよというように、首筋に伸びてきた指にぐっと力が込められる。恐ろしくてその腕を払おうと掴んだが、華奢に見えた義兄の身体はやはり男のそれであった。
「貴女たち兄妹は、本当に綺麗ごとが好きですね」
恐怖で滲む涙の先に、呆れたように微笑む美しい顔があった。
「亡くなった忠孝殿も、そのような綺麗ごとばかりを吐いていたようですし。理想ばかりを追い求め、形勢が有利だったにも関わらず染乃に攻め入ることを躊躇し、戦を長引かせて村を疲弊させた。さっさと引導を渡しておけば良かったのに」
「勝ち負けでは遺恨が残りましょう。兄上は、和平交渉を結びたかったのでございます」
負けた方は恨みを重ね、いつかまた攻め返さぬとは言い切れない。だから兄たちは、危険を冒してでもきちんと文書を交わして対等に交渉を結ぶことを望んだのだ。結局は何者かに阻まれ、兄も命を失ってしまったけれど。
「それで貴女も人質として嫁ぎ、健気に国の為に尽くしているのですね」
感心したようにそう言うと、更にその指に力が込められる。呼吸が止められて、大きく咳き込んだ。無我夢中で抵抗すると、少しだけ力が緩められて必死で呼吸を繰り返す。
「義兄上は、わたくしの存在が邪魔なのですね」
緩められたものの、いつでも締められるようにひんやりと冷たい指は首筋に添えられている。呼吸を乱しながらそう問えば、肯定とも否定ともとれない薄い笑みが返された。
「だから篠田光宗を使って、わたくしを襲わせたのですね」
断定するかのようにそう尋ねると、栄進は微かに目を見開いた。
「ほほう、これは驚きました。そこまで辿っていたのですね」
瑠璃への歪んだ愛情の為に蝶子を亡き者にしようとした光宗は、刺客を雇い蝶子が外出する機を見つけて襲わせた。誰も光宗の策略に気づいてはいなかったが、彼にとって誤算だったのは、守之介が密かに護衛としてつけられていたことだ。愚かな計画は阻止され、刺客のひとりは潔く自害した。けれども己の命と報酬に執着していた若い方の刺客は隙をついて逃げ出し、山奥にある雇い主の小屋へと向かった。任務を遂行できなかった刺客は用無しとばかりに雇い主の男は追い返したが、諦め切れない男は光宗に直接接触を図ったのだ。最初は警戒して無視していた光宗もやはり瑠璃の為に計画を諦めきれず、再び任務遂行を命じたのだ。結局その場を押さえられ、光宗は捕らえられてしまったというのが事の顛末であった。
けれども、この事件には続きがある。山奥に潜んでいた刺客を斡旋していた男は、ずっと山から下りることなく人目を忍んでひっそりと暮らしていた。そしてある日、身を隠しながら山道を進み男はどこかへ向かったのだ。そして尾行されていることも知らずに男が辿りついたのは国境の廃寺であり、そこに現れた人物こそが栄進であったというのだ。
「なるほど。どうやら私は、蒼山伊織という男を少々侮っていたようですね」
そう言うと、栄進は先程自らが薬湯を注いだ湯呑みを手に取った。
「ならばあまり、猶予はないのかも知れません。さあ蝶子、急いでこれを飲みなさい。不貞を働いた貴女は夫に離縁を突きつけられ、二度と愛人に会えなくなることに絶望して自害を図るのです」
「んんっ……」
無理矢理に口元に持ってこられた湯呑みからは、何やら不思議な匂いがする。絶対に口をつけてはならぬと本能が告げ、蝶子は慌てて口を閉じた。
「そうだ、最期にひとつ教えてあげましょう」
必死でもがく蝶子の口元に、湯飲みの中の液体を少しずつ垂らす。決して口に含んではならぬと唇を引き結ぶ蝶子を愉快そうに眺めながら、栄進はふと思いついたようにそう言った。
「蝶子を殺そうとしたあの刺客は、泉水村の出なのですよ」
「……!」
思わず漏れそうになった声を、既のところで飲み込む。驚愕して目を見開くと、吐息が触れそうなくらい近くに顔を寄せて栄進がくすりと笑った。
「ああ、覚えていたようですね。そうですよ、泉水村とはかつて紅野家のやり方に不満を抱き蜂起したあの村です。首謀者として捕らえられた男の弟が、貴女を殺そうとしたあの刺客なのですよ」
すれ違いざまに、笠の下からぎろりと睨みつけられた視線。短剣を突きつけてきた際の殺気。人殺しを生業とする者であるからあのような恐ろしい気配を漂わせているのだと思っていたが、違うのだ。光宗の瑠璃に対する歪んだ愛情による愚かな騒動に巻き込まれたのだとばかり思っていたけれど、決してそうではない。あの殺意は躊躇いもなく真っ直ぐに、紅野の姫である蝶子に向けられていたのだった。
ぽろりと零れ落ちた涙の雫を、そっと長い指が拭う。そのまま頬を辿り首筋に這わせると、再びその指に力が込められた。
「さよなら蝶子」
息が苦しい。けれども口を開ければ薬湯を飲まされる。蝶子は手足を必死にばたつかせ、爪をたてて抵抗した。髪が乱れ着物の裾がはだけても、そんなことは厭わずに無我夢中でもがいたが、けれども指に込められる力は緩むことはなかった。
(伊織様、助けて!!)
どうして義兄について来てしまったのかと後悔しながら、蝶子は心の内で夫に助けを求めた。栄進が言ったように、蝶子の考えは綺麗ごとにすぎない。義兄のことを危険だと分かっていたくせに、かつてと変わらぬその柔らかい物腰に嘘だと思いたい自分がいた。翻意させられるかも知れないと期待を抱く、愚かな自分がいたのだ。
薫子を待たせているから、きっと蝶子の不在には気づいているだろう。けれど、いつになったらここまで助けに来てくれるかは分からない。そもそも栄進が密かに帰城していたら、こちらまでは誰も探しに来ないかも知れないのだ。状況はどう考えても真っ暗だ。絶望を振り払うかのように、蝶子は最後の力で声を振り絞って叫んだ。
「伊織様!!」
その声に応じるように、どたどたと荒い足音が近づいて来る。予期せぬ蝶子の行動に一瞬狼狽した栄進が慌ててその口を塞ぐも時既に遅く、勢いよく部屋の襖が開け放たれた。
「蝶子!!」
次の瞬間、栄進が眼前から吹き飛び、蝶子の体はふわりと軽くなった。