山の天気は変わりやすい。朝は薄日が差していたというのに、午後になると灰色の雲が日の光を遮るようになった。
徐々に風が強まり、ざわざわと木々を揺らす音に、蝶子は何者かが襲って来たのかと何度もどきりとさせられた。
「女子にこのような困難を強いてすまぬ。道程も半分以上は過ぎた故、あと少し頑張ってくれ」
蝶子や桔梗が何度も転びながら必死で山道を歩くさまを見て、想像以上にこの山道が女子にとって過酷であることを悟ったのであろう。
伊織は幾度となく彼女らを気遣い、励まし、そして申し訳なさげに詫びた。
「強いられてはおりませぬ。伊織様について行くと、わたくし自身が決めたのでございます」
そんな夫の言葉を、妻は即座に否定した。今の状況を辛くないと言えば嘘になる。ただでさえ歩き詰めで体力は限界に近い。
その上、ぼんやりとした疑念から黒い策謀が浮かび上がった今、いつ襲われるのではないかと風の音にさえ怯える状態で精神的にもかなり消耗していた。
けれどもそれに対峙せねば、きっと穂積と染乃の両国に安寧は訪れない。困難に立ち向かって来た伊織の隣に立つ為に、己も強くあらねばと蝶子は己に言い聞かせた。
「それに、普段は見られぬ野花が咲いております故、わたくしは楽しゅうござります」
それは夫を安心させたいが故の、妻の精一杯の虚勢であった。息はあがり、足のまめは潰れ、体は疲労で思うように動かない。
周囲の景色など何も目に入っていないくらいに余裕のない状態で発せられた言葉は、微塵も説得力がなかったけれど。伊織は蝶子の言葉に優しく頷いた。
「そうか。ならば安心した」
そう言って、ぽんと頭を撫でられる。そしてそのまま夫の手は、転んで土で汚れた妻の掌をぎゅっと握った。その温もりに、張り詰めていた気持ちが癒えてくる。
緊張で擦り減った精神は、再び活力を取り戻していた。今はとにかく山を越えよう。蝶子が握られた手に力を込めると、伊織も同じく力を込めて応えてくれた。
そんな些細な仕草にとくりと胸が鳴ったその瞬間、前方に複数の人の気配を感じた。何者かががさがさと音をたてて落ち葉を踏みしめながら近づいて来る。蝶子は思わず身構えた。
不審な人物が潜んでいないか、あるいは罠が仕掛けられていないかを確認する為に、守之介が先を行っているのだがまだ戻って来てはいない。
夫は妻を庇うように一歩前へ出ると、その手を離して刀の柄をぐっと握り締めた。
* * * * * * * * *
「いっ……」
昨日から歩きどおしですっかり棒のようになってしまった足に、そっとぬるま湯がかけられる。潰れたまめに湯がしみて、蝶子の口から思わず呻き声が漏れた。
「痛いのは当たり前にございます。紅野の姫君が、このようにおみ足をまめだらけにして……」
ぴしゃりと言い放った言葉とは裏腹に、その手つきは優しい。労わるように足の汚れを落としてくれる侍女に、蝶子は黙ってされるがままになっていた。
「蝶姫様はお元気そうで、何よりでございます」
「ありがとう。茜子も元気そうで良かったわ」
今、蝶子の面倒を見てくれているのは侍女ではなく、正確には元侍女だ。慣れぬ山歩きに疲労困憊したのは帯同していた桔梗も同じである。
何とか穂積城に到着した蝶子たち一行であったが、現在の蝶子付きの侍女は別室で休ませており、代わりに以前のお付であった茜子が里帰りして来た姫君の世話を焼いていた。
つい半年ほど前まではずっと茜子が傍にいてくれていた筈なのに、幼い頃から離れて過ごした経験がないふたりは、蝶子が染乃に嫁いで以来久しぶりに言葉を交わすことに何とも不思議な感覚を抱いていた。かつての自室が、懐かしさや気恥ずかしさの入り混じった空気に包まれる。屈んで蝶子の足を拭いている茜子の姿を、蝶子はじっと眺めていた。
「ご到着は明日になるかと思うておりました」
やがて静かに茜子が口を開いた。
「天候にも恵まれて、予定よりも早く到着することができました」
「それは何よりでございました」
もともと本日中の到着を目指してはいたが、予定よりも早く着いたのは晴れていたことが大きい。
また、到着目前で少し風が強まったものの、道中の殆どにおいて風がなかったことにも助けられた。そのようなことを説明しながら、やがて蝶子はずっと気になっていた問いを口にした。
「ところで茜子、父上のお加減はいかがですか?」
今回の帰省は義兄の結婚を祝う為であるが、体調が思わしくないという父を見舞うことも重要な目的であった。
病ではないと茜子からの文にはあったものの、臥せっていると聞けば心配するのが道理だ。
城に着いた瞬間にまず父に会いたいと願いつつ、病でないというのは蝶子を心配させない為の嘘で、本当は重い病に罹っていたらどうしようという不安が蝶子の胸を占領していた。
「今朝はお顔の色がよろしゅうございました。ご到着がもう少し遅いと思うておりました故、今は午睡をとられていらっしゃいますが、そろそろお目覚めになられるかと存じますのでどうぞ姫様のお顔をお見せ下さりませ」
きっとすぐに元気になられましょう。茜子の説明に、蝶子は力が抜ける気がした。色々と深読みをしてしまったがどうやらその言葉に裏はなく、本当に病などではなかったようだ。
「お屋形様は少しお疲れのようで、ずっと食欲がござりませぬ。栄進様が煎じた薬湯をお出ししておりますが、そちらもたまにしか召し上がらないのでございます」
溜息とともに零れ出たその名に、蝶子は思わずぴくりと反応した。
足を拭いてくれている茜子にもそれが伝わったのではないかとそっと様子を伺うも、さして気に留める様子はなく、蝶子はほっと胸をなでおろした。
「義兄上は、外出されていらっしゃるのですか?」
蝶子の足を拭き終わり、湯をはった手桶を片づけようとしている茜子に、蝶子はそっと声をかけた。城に居るならば染乃国の領主である伊織を出迎える筈だが、顔を見せぬということは不在なのであろう。
「夕刻にはお戻りになられると伺っておりまする。明日のご到着と思うておりました故、蒼山様をお迎えできず誠に申し訳ござりませぬ」
「そのようなつもりで尋ねたわけではないの。こちらが早く着き過ぎたのだから。父上が臥せっているとなると義兄上のご負担が増して、きっとお忙しくされていらっしゃるのでしょう?」
「はい」
蝶子の言葉に、茜子は小さく頷いた。
「栄進様は、お屋形様の分も紅野家の為に尽力されていらっしゃいます。その上ご婚儀の準備もございます故、少々お疲れのようにお見受けいたします。
なれど姫様のお顔をご覧になられましたら、きっとお元気になられましょう」
そう言うと、ずっと俯いたまま蝶子の世話を焼いていた茜子がようやく顔を上げた。もともと線が細かった幼馴染は、蝶子が穂積を発った時よりも更に痩せたようだ。整った顔立ちで幼い頃から周囲の目を引いていたが、痩せて一層大人びて見えるようになったと、蝶子はまるで知らない女性を見ているような錯覚に陥った。
「蝶姫様」
暫く見つめ合っていたふたりだが、やがて口を開いたのは茜子であった。
「ところで、わたくしの差し上げた文は届きましたでしょうか?」
「文を、送ってくれたのですか?」
蝶子は驚いたように目を瞬かせると、小首を傾げて問い返した。
「先日、鏡泉山から穂積へ向かう道が倒木で塞がれているという知らせを受けました。
もしも姫様がそちらの道を来られると引き返さねばならなくなります故、あらかじめお知らせしようと文を差し上げたのでございます」
「まあ、そうだったの。もしかすると、わたくしたちが染乃を発つのと入れ違いに届いたのかも知れませんね」
蝶子がそう答えると、茜子は手元の桶へと視線を落とした。
「……本当にそうなのでございましょうか?」
「え?」
俯いたまま呟かれた言葉は聞きとることができず、蝶子はもう一度尋ね返す。けれども顔を上げた茜子は、何でもないと小さく笑うだけであった。
「茜子が書いてくれた文は、すべて大切にしています」
「え?」
曖昧な笑みを浮かべたまま黙り込んだ茜子に対し、蝶子はおもむろに口を開くとゆっくりと語りかけた。
「最近はようやく染乃の暮らしに慣れましたが、嫁いだ当初は穂積を恋しく思うことが何度もありました。そのような時、茜子からの文がわたくしを勇気づけてくれたのです」
控えめに言ったものの、本当はこの城を恋しいと思ったのは毎日だ。寝ても覚めても帰りたいと願っていたあの日々の中で、茜子が知らせてくれる故郷の様子が慰めになっていたのは事実であった。
「届いた文はすべて目を通し、大切に仕舞っています。わたくしからの返事も、茜子の手元に届いておりましょう?」
「……はい」
己の出した文が伊織の妨げのせいで蝶子の手元に渡っていないのではないかと匂わせたものの、けれども蝶子からの返信はこれまできちんと茜子のもとに届いているのだ。蝶子の問いかけによりその矛盾点に気づいた茜子は、己の浅はかさに頬を染めて俯いた。染乃を敵国で伊織は冷酷な鬼であると、かつての蝶子がそうであったように茜子は今もそう信じている。蝶子は唇を噛む幼馴染の姿を、じっと眺めていた。
「女子の足ではどうしても歩みが遅くなる故、此度の旅ではわたくしを待つ間に従者のひとりが先を行って安全を確認してくれていたのです。確かにその従者も北側の道に倒木があると報告して参りました。出立前に茜子の文を受け取ることができれば、あの者に無駄足を踏ませることはなかったのでしょうね」
「では、南の道を来られたのですか?」
「いいえ」
こくりと唾を飲むと、茜子は真っ直ぐに蝶子を見つめて尋ねてきた。その問いを、蝶子はきっぱりと否定する。
「北と南のふたつの道の間にある、細い道を参りました」
「まさか、姫様にそのような危うい道を……」
「南側の道は沢に沿っている故に湿っており、歩き慣れぬわたくしでは滑りやすくて危なかろうということでしたので」
結局、何度も転んでしまいましたけれど。そう冗談めかして笑ったものの、茜子は黙り込んだまま笑い返してくれはしなかった。
「姫様」
「何ですか?」
やがて茜子が、絞り出すように呼びかけた。
「恐れながら、蒼山様は姫様を……」
その時、不意に足音が近づいて来た。言葉の途中で茜子はそのまま口を噤んでしまう。やがて襖の向こうから聞こえてきたのは、既に蝶子の耳に馴染んでしまった穏やかな低い声であった。
「蝶子、良いか?」
はいと蝶子が答えると、静かに襖が開いて夫が部屋に入って来た。
「足の具合はどうだ?」
「茜子が汚れを洗い落としてくれました故、随分とすっきりいたしました」
「そうか、良かったな」
突然現れた染乃国の領主に、茜子は慌てて手をつき頭を下げた。蝶子の前で屈んだ夫は、まめで潰れた妻の足を気にかけているようだ。
「伊織様はお疲れではござりませぬか?」
「私は大丈夫だ。それよりも、和孝殿がお目覚めとの連絡が参った。共に挨拶に参ろうか」
「はい!」
どうやら昼寝から目覚めた和孝に、娘たち一行の到着が告げられたらしい。思わず蝶子の口から弾んだ返事が飛び出し、喜びを隠さない妻の様子に夫は優しげな笑みを浮かべた。
やがて、足を痛めている妻を気遣って手をとった伊織は、傍らで頭を垂れている侍女に声をかけた。
「茜子殿は蝶子の幼馴染ということであったな?」
「は、はい」
「暫く世話になる。その間、蝶子をよろしく頼む」
短くそう告げると、伊織と蝶子は外で控えていた紅野家の誰かに案内されて和孝の部屋へと向かって行った。ひとり残された茜子は、閉まった襖をぼんやりと眺めていた。