目次

の居る場所



 東風の章  参


 冬の終わりの空は淡く、太陽が弱々しく照らしている。
 蝶子たち一行は、かさかさと乾いた落ち葉を踏みしめながら細い山道を進んでいた。 先程までとは違い、明らかに人通りが少ないと見られるこの道は踏み固められておらず、落ち葉に覆われたくぼみに足をとられて何度も転びそうになる。 こちらを行く覚悟を決めたものの、荒れた山道を進むことは想像以上に過酷で、蝶子は荒い呼吸を繰り返しながら注意深く歩みを進めていた。

「滑りやすいので気をつけられよ」
 急な傾斜にさしかかり、夫は妻を振り返るとその腕をとった。守之介は安全を確保する為にひとり先を行き、その他の従者らが先頭と後尾について伊織と蝶子を挟む形で旅を続けていた。
「きゃっ」
「大丈夫か?」
 太い木の根に足をとられた瞬間、掴まれていた腕にぐっと力が込められる。
「申し訳ござりませぬ」
 乱れた呼吸と共に小さく詫びれば、抱きとめてくれた伊織がぽんぽんと励ますように背中を撫ぜてくれた。
 最近でこそ雪寿尼のもとを訪れるようになったが、蝶子の行動範囲は殆ど己の部屋の中で完結している。 歩くことに慣れていない姫君にとって、足場の悪い山道を行くことは体力的にかなりの負担だ。
 そしてそれ以上に彼女の枷になっていたのは、この道の先に誰かが潜んでいるのではないか、何者かが自分たちを襲おうとしているのではないかと、心を苛む疑心であった。


 ――そなたに伝えねばならぬことがある。
 はじめて水仙の花が咲いた日の夜、伊織は声を落としてそう告げた。すべてを知りたい、夫が抱えているものを共有したい。 そう覚悟を決めて頷けば、やがて伊織は淡々と真実を語り始めた。
「先日、蝶子を襲った行商人に扮した男たちは、篠田光宗が雇った刺客であった」

 瑠璃が蝶子を突然訪れたあの日、光宗を罪人として捕らえたと、伊織は縋る従妹に対してそう言い放った。 どういうことかと疑問に思いつつも、あのあとは予想外の展開が待ち受けており、蝶子はすっかり詳細を尋ねる機会を逸していたのだ。
 ようやく事のあらましを知る機会を得られたのだが、まさか自分にも関連していたとは思わず、さすがに戸惑いは隠せなかった。
「蝶子、大丈夫か?」
「はい」
 そう頷きながら、冷たい目をした男の顔を思い浮かべる。棘を含んだ物言いや剣のある表情から、光宗が蝶子を敵視していることは明白で。 そしてそれは、野分の際に家臣らに意見したせいであることも、蝶子はきちんと自覚していた。
 けれど、あの大嵐の前では藍畑を守ることよりも民を避難させることが最優先であり、己の判断が間違っていたとは決して思わない。 それでも本当は、もっと上手い言い方があったのかも知れない。必死なあまり、ずっと蒼山家に仕えている家臣らに対して、年若い娘が偉そうな発言をしてしまったかも知れないのだ。 殺したいと憎まれるほどに己は光宗の自尊心を傷つけてしまったかと、落ち込んだ蝶子は無意識のうちに俯いていた。
「違う」
 不意に、両肩が強く掴まれる。驚いて顔を上げると、切れ長の目がこちらをじっと覗き込んでいた。
「そなたは何も間違っていない。私があの状況にあったとて、蝶子と同じ決断を下すだろう」
「伊織様……」
 どうやら大丈夫だと答えた妻の強がりなど、夫にはお見通しのようだ。これ以上ない嬉しい言葉で、沈んだ蝶子の心を掬い上げてくれる。 自己嫌悪と喜びの入り混じった複雑な気持ちで、蝶子はそっと夫の胸に顔を埋めた。

「光宗は蝶子が憎かったのではない。ただ瑠璃を愛していたのだ」
 蝶子の気持ちが落ち着かせるように、黙ってその艶やかな髪を手櫛で梳いていた伊織だが、やがて静かに口を開いた。
「瑠璃様を?」
「さよう」
 驚いて問い返すと、夫は短く肯定した。
 幼い頃から瑠璃の父親である秀久に師事していた光宗は、ずっと瑠璃を想っていたらしい。けれども瑠璃は伊織を慕っており、光宗は己の恋情の一切をずっと隠し通してきた。 密かに恋心を募らせてゆくうちに、やがてそれは歪な想いへと形を変えてゆく。瑠璃を想うがあまり、彼女の願いを叶えることこそが己の幸せだと盲心するようになっていったのだ。
「瑠璃を私の正室につかせる為に、蝶子を亡き者にしてしまおう。愚かな男はそう思い至り、刺客を雇ったらしい」
「そんな……」
 蝶子を襲った者たちの黒幕が光宗であったという事実だけでも衝撃であるというのに、その哀しい理由は彼女を動揺させるに充分であった。 思わず蝶子は夫の着物を握り締める。伊織は何も言わず、そのまま優しく抱き締めてくれた。

 瑠璃の為に蝶子を消そうとした光宗は、遠戚である露乃という侍女を使って蝶子の行動を把握していたらしい。 桔梗の補佐的な役割を担い、たまに蝶子と言葉を交わす立場にあった露乃ならば、日々の蝶子の予定を知ることはさほど難しいことではない。 確実に計画を遂行する為に、蝶子の数少ない外出日を逃さぬよう適当な理由をつけて露乃に報告させていたようだ。
「そもそもあの時私が城を空けていたのも、光宗からの報告を受けて国境の村へ出向いていたからだ。 確かに火急の用向きではあったが、今思えば裏で調整して、敢えてあの日に合わせてきたとも考えられる。 私が奴の画策に気づかぬように、そして後に己に疑いが向けられれぬようにと、光宗は当日遠方に出向くよう仕向けたのであろう」
 瑠璃には何度か、伊織は蝶子の元を通っておらず正室の務めを果たせていないのではないかと追求されたが、そのあたりの情報源も恐らく光宗だったに違いない。 もしかすると城内に広まっていた蝶子と虎之新の噂も、光宗が彼女を正室の座から引きずり下ろす為に流したものかも知れぬということであった。
「なれど、瑠璃様と篠田殿の間には婚儀の話があったのでございましょう?」
「奴の幸せとは、瑠璃を妻にすることではなく、瑠璃の望みを叶えることであったのだろう。叔父にはなかなか子ができず、ようやく産まれた瑠璃は甘やかされて育ったところがある。 光宗は幼い頃から弓の師匠であった叔父に心酔しており、我がままに振舞う瑠璃のこともまるで皇女のように敬ってきたのだ」

 瑠璃が伊織を想っているのを、誰よりも知っていたのは光宗なのかも知れない。だから、己の手で幸せにしてやることよりも、己の手を汚して願いを叶えることを選んだのだろう。 けれど、血に濡らしながら手に入れた望みなど、絶対に幸福をもたらしはしないのだ。あまりにも独善的な光宗の愛情に、蝶子はふるふると首を振った。
「して、瑠璃様は今?」
 そこでようやく瑠璃の立場に思い至り、恐る恐る夫に尋ねた。
「自室に軟禁されておる。此度のことに瑠璃は関わっておらず、願いはじきに叶うと、そう光宗に言われた言葉をただ信じて待っておったそうだ。 なれど待てども一向に願いは叶わず、憤りの矛先をそなたへと向けた。 叔父は勝手に蝶子の元を訪れてはならぬと禁じており、言いつけを破って無礼を働いたことに対して激怒しておられるのだ」
「秀久様が?」
 まるで蝶子が蒼山家の正室に相応しいかどうか値踏みをしているような、そんな夫の叔父の冷ややかな目を思い出す。 野分の際に反論したときなどは恐ろしいくらいの眼力で睨みつけられたが、その秀久は瑠璃が蝶子に会いに行くことを許していなかったとうのか。 にわかには信じらず、蝶子は思わずそう問い返した。
「蝶子は知らぬだろうが、叔父上はそなたに一目置いておる」
「え?」
「野分の際、殺気立った家臣らに一歩も引くことなく己の意見を貫いた蝶子のことを、叔父は認めておられるのだ。いつだったか、蝶子は他の女子たちと器が違うと申しておられた。 だから瑠璃には敵わぬ相手に勝負を挑むよりも、彼女のことを想うてくれている相手に添わせると、そう申しておったのだ」

 まさか秀久がそのように蝶子のことを評してくれているとは知らず、本当なのかと戸惑いながら夫の顔を見上げる。
「すべて真だ」
 言葉にしていないのに夫には通じたようで、優しい声が肯定する。恐らく秀久自身も、娘を伊織の正室にと望んでいたであろう。 だから戦の終結と引き換えに伊織の正室となった蝶子のことは、きっと快く思っていないだろうと諦めていたのだが、意外な言葉を伝え聞いて心の奥がじんと震える。 そして同時に、どうしようもなく哀しくなった。
 きっと秀久は光宗の想いに気づいており、彼に瑠璃を幸せにして欲しかったに違いない。光宗の愛情を受けて、瑠璃に幸せになって欲しかったのだ。 最悪の結末に、誰よりも衝撃を受けているのは秀久その人であろう。娘と弟子の幸せを願う不器用な親心が届かなかったことを思うと、蝶子はやるせない気持ちになった。

「蝶子」
 秀久の無念を思っていると、やがて静かに名を呼ばれる。はいと返事をして夫の顔を見上げれば、たじろぐくらいに真剣な瞳がこちらに向けられていた。
「あの日、蝶子を襲った犯人は捕らえられた。なれど、まだ解決はしておらぬのだ」
 恐ろしい事実を告げる言葉に、背筋がぞくりと冷える。一方、どこか冷静な頭の片隅で、やはりという気持ちもあった。
「さらに黒幕がいるのでございますね?」
 蝶子がそう確認すると、伊織は苦しそうに頷いた。そっと夫の手に触れると、蝶子はずっと感じていた疑問を口にした。
「もしやあの捕らえた男が逃走したというのは、わざと逃がしたのではございませぬか?」
 蝶子を襲った男は守之介が見張っていたのだが、隙をついて逃げ出したという。けれども、守之介ももうひとりの従者も隙を見せるとは思えず、ずっと蝶子は違和感を拭えずにいたのだ。
「やはり気づいておられたか」
 苦笑を浮かべながら、伊織はあっさりと事実を認めた。あの時見張りをしていた守之介は、黒幕を探る為にわざと隙を作り、敢えて刺客の男に逃走させたというのだ。
「蝶子を襲った理由として考えられるのは、私に恨みがあるか、かつての敵国として穂積を恨んでいるか、はたまた蝶子を襲うことで穂積と染乃の関係に亀裂を入れようと目論んでいるかだ。 けれども男たちは口を割らなかったし、身なりもよくある行商人の格好で特定できるものが何もなかった。 そのような状況で、任務が失敗に終わったことを悟り年配の男は潔く自害したが、もうひとりは死ぬこともできずに生への執着を見せた。泳がせればいずれ尻尾を出すかも知れぬと賭に出たのだが、果たしてその通りに事が運んだのだ」
「雇い主の元を訪れたのでございますね?」
「逃げた男は村を離れ、夜道を山の中へと逃げて行った。追いかけた守之介によると、そこには奴らの隠れ家と思しき粗末な小屋があったという。 けれども警戒した仲間に拒絶されたようで、男は数日間山の中で身を隠しておった。そして、ようやく村外れの廃寺に姿を現した男が接触したのが光宗であったのだ」

 やはり予想は当たっていたと、蝶子は夫の説明に納得した。伊織や守之介や虎之新や、他にも蝶子の知らぬところで家臣らが奔走していたのかも知れないと、そっと心の内で感謝する。 けれど先程、夫はまだ解決しておらぬとそう告げた。ならば答はひとつしか考えられず、それは更に黒幕が存在するということであった。
「誰かが篠田殿を利用していたのでございますか?」
 そう疑問を口にすると、その声は微かに震えてしまった。
「その者こそが、穂積と染乃の関係を悪化させようと画策してきたのでございませぬか?」
 もうずっと蝶子の意識の中に、ある人物の存在が巣くっていて消えてくれないのだ。証拠などない。 けれど、伊織から穂積国と染乃国が和平を結ばぬようにと何者かが画策していたと聞いた時、蝶子の脳裏にはその人物の顔が浮かんでしまったのだ。 はじめはぼんやりとしていた疑念が今は鮮明になり、もはや拭い去ることができなくなっていた。
「その人物は……」
「蝶子」
 思わずそう詰め寄れば、穏やかな声で遮られた。妻を見つめる目は苦しげで、蝶子は己の予想が当たっていたことを悟った。
「わたくしは何を知っても揺るぎませぬ」
 まるで己に暗示をかけるようにそう告げると、伊織は強いなと小さく漏らして眩しそうに妻を見つめた。そして言葉とは裏腹に強張った細い体を、優しくその胸に抱き寄せる。 やがて耳元に唇を寄せると、低くその名を告げた。果たしてそれは、蝶子が思い描いていた人物と同一であった。



* * *   * * *   * * *



 少しずつ日が長くなってきているとはいえ、まだまだ日暮れは早い。いつしか薄闇に染まった部屋の中で、訪れてきた男が声を落として報告した。
「蒼山伊織と蝶姫様が、染乃城を発たれたとのことにございます」
「そうか」
 開け放した板戸の外には、茶色く枯れた鬼灯が寂しげに揺れている。庭の様子を眺めながら短く応えた部屋の主は、そのまま男を見やることなく言葉を繋いだ。
「して、準備の程はいかがか?」
「南側にも北側にも、どちらにも配備しておりまする」
 男の返事に対し、部屋の主は満足げに頷いた。
「蝶姫には北側の道を行くようにと文を送っておる。蒼山伊織がそれを読み、そのまま信じて北を行くか、はたまた疑いを向けて南を行くか。さて、おまえはどう思う?」
「其には何とも。なれど、どちらを行こうとも結果は同じにございまする」
「ああ、そのとおりだ」
 男の言葉に頷くと、くっと笑い声を漏らした。

「武藤、決してしくじるな。蝶姫が離縁されて穂積城へ戻って参れば、そなたの妹の正室の座は姫にとって代わられるであろう」
「重々承知しております、鬼灯様」
 そう言うと、武藤長吉郎は恭しく頭を垂れた。やがてそっと庭へと目をやると、枯れ草に僅かに残った赤い実が、まるで悪事を見張る目のようにこちらに向いていた。

 


2016/04/10 


目次