「年が明ければ、いよいよ蝶姫様のご帰還にございますね」
新月の夜、いつものように闇に紛れて部屋に訪れた男に肩をあずけながら、女はそう呟いた。
現当主の養子である栄進の婚儀に際し、染乃国より蒼山伊織と彼に嫁いだ蝶子が祝いに訪れるというのだ。
「姫様がお見舞いに来て下されば、お屋形様もお元気になられるやもと文を差し上げましたが、正直に申し上げますと実現は難しいと思うておりました」
「お屋形様は喜んでおいでか?」
「相変わらず臥せっておいでですが、心なしかお顔の色が良いように思われます」
「そうか」
女がそう答えると、男は短く頷いて押し黙った。
新しい年は、穂積国にとって変革の年となるだろう。間もなく栄進の元へ、筆頭家老である武藤家の娘が嫁いで来る。
彼女が正室として城に入れば徐々に色んなことが変わってゆくだろうと、侍女たちの最近の話題はもっぱらそのことについてだ。
そしてまだ公にはされていないが、婚儀が終わって落ち着けば、現当主の和孝が隠居して栄進に家督を譲ると宣言していた。
「実は、姫が蒼山伊織に離縁されるのではないかという噂を入手した」
「離縁?」
この城は、そして自分はこの先どうなってゆくのだろう。そう思案していると、男が不穏な言葉を口にした。薄闇の中の沈黙は、告げようか告げまいかを逡巡していた為らしい。
その内容は衝撃的で、女は驚きのあまり二の句が継げずにいた。
「どうやら蒼山伊織は従妹姫を正室に迎えたいらしく、お屋形様の見舞いを口実に姫を実家に連れ帰り、そのまま穂積に残そうとしている節があるのだ」
「何と不実な。いくら政略婚とは言え、一国の姫君を正室に迎えながらそのような扱いとは無礼にも程があります」
「その従妹姫というのが、叔父である蒼山秀久の長女で、たいそうな美人らしい。先代が急逝した折、後継者として弟である秀久の名も挙がっていたが、結局は息子の伊織が家督を継いだ。
そのあたりの経緯もあって、伊織は叔父を取り込んで体勢を磐石にする為にその娘を娶ろうとしているようだ」
和平の為にと蝶子はその身ひとつで敵国へ嫁いで行ったというのに、何という無慈悲な仕打ちだろう。
一方自分は、闇に隠れての逢瀬しか許されないとは言え、愛しい人に大切にされている。
優しく肩を抱かれたこの状況に何となく罪悪感を感じてしまい、女は男の胸に手をついてそっと体を離した。
「最近、染乃の城内について明るい者から情報を得る機会があったのだが、どうやら蒼山伊織は姫のもとに殆ど通うこともなく蔑ろにしてきたらしい」
「紅野の姫君が正室としてはるばる嫁いで来たと申すのに、蒼山伊織とは一体どのような了見をしているのでございましょう?」
そう憤ると、男は皮肉な笑みを浮かべて低く言い放った。
「昨秋の野分の折、当主不在の中で姫が民を避難させる為に城を開放することを決断なされたらしい。もしかすると、そのことが気に食わぬのやも知れぬ」
「何とまあ、器の狭い。妻が聡明であることを喜びこそすれ蔑ろにするとは、まったく理解いたしかねまする。聡明な姫を小賢しいと思うのは、無能な男の嫉妬でございましょうや」
「城内でもふたりの不仲は周知の事実であったらしい。先程そなたも申しておったが、私もさすがに輿入れして一年足らずでの里帰りは叶わぬと思うておった。
冷酷な男と言われる蒼山伊織が不仲な妻を気遣うとも思えず、離縁を考えておるという噂を聞いてようやくそれで合点がいったのだ」
確かに男の言う通り、そう考えれば辻褄は合う。けれども人質である蝶子を、そのようにあっさり帰すだろうか。女は眉間に皺を寄せると、そう疑問を口にした。
「なれど、不仲であろうとも穂積の姫君を手元に置いておく方が、染乃にとっては有益でございましょう。
その従妹姫とやらを娶りたいのであれば、側室として寵愛すればよろしいのではないでしょうか?」
「さすがにそなたは鋭いな。普通はそう考えるだろうが、冷酷な鬼は違うらしい。
染乃の城内では姫が家臣のひとりと不貞を働いたという噂が囁かれているらしく、奴はそれを理由に蒼山家に優位に離縁を進めようとしているのだ」
「まさか!」
「従妹姫を正室に迎えることで叔父が謀反を起こす可能性は消え、蒼山伊織の足元は盤石となる。さすれば奴は、心おきなくこの穂積国を攻め入ることができようぞ」
抑揚のない男の言葉に背筋がぞくりと冷える。思わず縋るように見上げると、怒りを湛えた瞳が静かにこちらを見つめていた。
「そのようなこと、決して許してはなりませぬ」
掠れた声で女が呟く。口の中がひどく乾いていた。
欲深い鬼は和平などはなから望んでおらず、己の当主としての足場を固めたら、さっさと蝶子を切り捨てて穂積を攻撃する算段だったようだ。
国を荒廃させるだけで何の益ももたらさなかった戦いが、再び繰り返されるというのだろうか。長い争いの中で田畑は荒れ、米や野菜の収穫量は減り、そして多くの人たちが傷つき命を失った。
その不毛な時代に終止符を打つ為に、蝶子の兄である忠孝は命を失い、妹は兄の仇である国の当主のもとへ嫁いだというのに。
そのような犠牲を払ってようやく手にした安寧を、再び奪われるというのか。女は悔しさのあまり、ぎりりと唇を噛んだ。
「私がひとつ予言をしよう」
やがて男は、夜の静寂の中で声を落としてそう告げた。
「蒼山伊織は穂積に向かう道中で落石に遭い、命を落としてしまうだろう」
その低い声音に、女は息を止めて男の顔を凝視した。整った顔には何の感情も見えず、だからこそその言葉が冗談などではないと物語っていた。
「既のところで助かった姫だが、目の前で夫を失った衝撃から穂積の城で静養し、そのまま染乃には戻ることはなかった。
不運な事故で政略結婚は終わりを告げるが、世継がおらぬ伊織の突然の死により後継争いが勃発し、もはや穂積に攻め入ろうなどと考える輩はいなかった」
「その予言は、当たりますか?」
長い長い沈黙のあと、微かに声を震わせながら女が問うた。
「穂積と染乃を結ぶ道は国境で二手に分かれている。彼らが南の方を通れば、私の予言は当たるだろう」
「南の方を……」
「北側の道には倒木があって、今は通ることができぬ。
つい先日、老木が倒れて道を塞いでおるという報告を受けたのだが、なかなか大きな木のようでどのように撤去するかを思案している最中なのだ」
淡々と説明する男の言葉にじっと耳を傾けると、やがて女は口を開いた。その声は、もはや震えてはいなかった。
「どちらの道を選ばれるのか存じませぬが、万一北側の道を行かれると立ち往生してしまわれます。取り急ぎ蝶姫様には、南側の道を行かれますようお知らせいたします」
不意に風が吹き抜け、板戸をがたがたと鳴らした。
「茜子、そなたは聡い人だ」
その整った顔に満足気な笑みを浮かべると、男は熱い吐息と共にそう告げた。
「私は聡い女が好きだ」
女の耳元で囁くと、鬼灯はその柔らかい耳朶をそっと食んだ。
* * * * * * * * *
年越しを境に少しずつ日が長くなってゆき、寒い日と交互に暖かい日が訪れる。
もちろんまだ風は冷たいが、山道を歩いていれば体も温まってくるので、出立前に案じていた程には蝶子は寒さを感じていなかった。
「足に痛みはござらぬか?」
山の中腹の少し開けた場所に到着すると、伊織は大きな石に蝶子を座らせ、その前に屈んで妻の草履の具合を確認した。
「お屋形様がわたくしの歩く速さに合わせて下さいます故、大丈夫でございます」
「寒くはないか?」
「はい。ご心配には及びませぬ」
伊織の気遣いを嬉しく思いながら、蝶子は安心させるように微笑んだ。
染乃城でのはじめての正月を迎えた蝶子だが、新年の祝賀もそこそこに、生まれ故郷である穂積国に向けて出立したのは昨日のことだ。
輿入れの際は馬や籠に乗せられていたが、今回はその道程の大半が徒歩である。
夫や従者たちに迷惑をかけてはならぬと気張っていた蝶子だが、幸い天気にも恵まれ、ここまでの行程はすこぶる順調であった。
「ただいま戻りましてござる」
がさりと落ち葉を踏みしめる音と同時に、そう言って伊織の前に膝をついたのは守之介であった。
「ご苦労であったな、十の字。して、道の状態はいかがであったか?」
この先の道は大きく二手に分かれている。沢に沿って進む南側の道と、森を突っ切る北側の道だ。
どちらを選んでも距離的には大差がないのだが、つい先日蝶子のもとに届いた一通の文には南を行くようにと記されてあった。
北側の道は倒れた老木が道を塞いで通れなくなっているとあったが、どの程度の大きさの木であるのかを調べる為、蝶子や桔梗が足を休めている間に守之介が先を行って確認していたのだ。
「確かに北側の道には、この先十町程の所で倒木がございました。我らだけならば越えて行くことは造作もござりませぬが、姫さんと桔梗殿には少し無理を強いることになりましょう」
「なるほど」
「さて、どちらの道を進みましょうや?」
いつものように飄々とした口調で、守之介が伊織に尋ねた。
「ならば、こちらの道を行くとするか」
一瞬の迷いもなく、伊織が目の前の道を指す。その答に男衆は短く頷くと、一旦下ろしていた荷物を再び背負い直した。
「この先は足場が悪くなる。女子の足ではきついと思うが、我らが手を貸す故、何とかついて来て欲しい」
そう言って、蝶子の目の前に大きな手が差し出される。その手をとって立ち上がると、妻は夫の目を見つめながら小さく頷いた。