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の居る場所



 東風の章  壱


 年の瀬は常に何かに追い立てられているかのようで、城内もどこか気ぜわしい。正月を迎える準備の他に、主の故郷である穂積国を訪れる支度もあって、桔梗は忙しく働いていた。

「桔梗様」
「どうしたのですか?」
 背後から遠慮がちかけられた声に振り返ると、年若い侍女が心配げな表情を浮かべて立っていた。 いつかと同じ情景に、桔梗は何となく彼女の質問の内容が予想できたが、とりあえずは用件を尋ねてみる。
「年が明ければ奥方様は穂積国へ帰られると伺ったのですが、それは真にございますか?」
「ええ、そのご予定です」
「さようでございますか……」
 桔梗が肯定すると、目の前の少女はあからさまに肩を落とす。やはりと思って苦笑いを浮かべると、桔梗は彼女を安心させる為に言葉を繋いだ。
「奥方様は義兄上の婚儀の為、お屋形様と共に穂積へいらっしゃいます」
「え?」
「もちろん婚儀が終われば、この城へお戻りになられますよ」
 桔梗の言葉に、少女はほっと安堵の溜息を漏らす。 前回もそうであったが、少し離れた所で片付けをしている者たちも蝶子付きである桔梗の言葉を意識しているのは明白で。だからこそ、彼らの誤解を解く為にもきっぱりとそう宣言した。
「親方様のご正室であらせられるのですから、当然でしょう?」
 少女の目をじっと見つめてそう問えば、こくりと深く頷く。続いて周囲を見渡すと、年若い者も年かさの者も皆、働く手を止めて桔梗の言葉に力強く頷いた。

 侍女や下男たちにとって、当主と正室の関係や思惑など知る由もない。 当主が敵国から嫁いで来た妻のもとにあまり通っていないらしいという俗言が流れた時も、政略結婚ならばさもありなんと納得するだけであった。
 そんな噂の対象でしかない正室が、ただのお飾りとしか思われていなかった敵国の姫君が、染乃の民たちを救ったのだ。 村や畑など守るべきものがたくさんあった中で、彼女が迷わず選んだのは民の命であった。 その事実を伝え聞き、言葉を交わすことも叶わない雲の上のその人が、城で働く者たちの憧れとなり誇りとなる。
 だから彼女に家臣との噂が流れた時も、当主の従妹姫が側室の座を狙っているという噂が出回った時も、城で働く者たちはこれまでのように簡単に聞き流すことができなくなっていた。 本来ならば、正室付きの侍女に事の真偽を尋ねることさえ許される立場ではない。けれど、そうまでしても真相を知りたいくらいに、正室の今後の立場を皆が案じていたのだ。 城に詰めている者は誰しも当主のことを尊敬しており、その人の隣には相応しい女性に立って欲しいと望んでいる。 そして今は、それが穂積から嫁いで来た年若い姫君であると誰もが信じているのであった。

「お屋形様は奥方様を大切にされていらっしゃいますし、奥方様はお屋形様を尊敬していらっしゃいます」
 傍から見れば互いを想い合っているのは明白なのに、互いの国が敵対していたという過去の状況や立場、更には瑠璃という横槍が入って不器用な夫婦の関係はもどかしいくらいに進展していなかった。けれどもようやくふたりは素直な気持ちを吐露し、伊織と蝶子は真の夫婦になったのだ。
 蝶子が虎之新を想っているという根拠のない噂が流れた時に、おずおずと真偽を尋ねてきた目の前の少女は、きっと野分の頃から蝶子に憧れていたのだろう。 当然、彼女自身にもそのようなことを桔梗に尋ねてはならぬという自覚はあり、それでも聞かずにおれなかったということがその表情から伝わってくる。 そこまで思われている主の人柄を侍女として誇らしく思いながら、二度と不愉快な噂が流れぬようにふたりの関係が揺るがないことを宣言した。

「なれど先日、お屋形様が奥方様にご立腹なされたとの噂が……」
 安堵の表情を見せる少女の背後から、そう口を挟んだのは桔梗よりひとつ年下の侍女だ。 瑠璃が突然尋ねて来た際に取り次いだ者で、伊織が蝶子を連れて部屋へ向かったところを見ていたらしい。 いつも冷静な当主が妻の手を強引に引いてゆく姿は、事の顛末を知らない者が見ると、蝶子に対して立腹しているのだと誤解しても仕方がない。
「お屋形様は、奥方様を傷つける根拠のない噂話に対して立腹されていらっしゃいました。 そのような噂が出てしまったことに対して責任を感じていらっしゃった奥方様を気遣い、連れ出そうとなされていたのです」
 城内では様々な思惑が働いており、蝶子の存在を快く思っていない者もいるだろう。 今後も彼女を貶めようとする悪意が働くかも知れないが、夫婦の絆を深めたふたりの前にはそれも無駄に終わるだろうと桔梗は確信していた。



* * *   * * *   * * *



「奥方様、竹筒をお持ちいたしました」
「ちょうど良い大きさだわ。ありがとう」
 侍女が持って来てくれた青竹を受け取ると、蝶子は満足げに微笑んだ。そしていそいそと庭に下りると、凛と咲く白い花を丁寧に手折った。

 二日ほど雨が続いて庭に出られなかった間、すらりと伸びた茎の先に白い花が咲いていた。 なかなか蕾をつけないのでうまく育っていないのかと案じていたが、どうやら杞憂に終わったらしい。蝶子は清廉な芳香を放つ花を手に、部屋の中へと戻って行った。
「あら、素敵でございますね」
 花を飾った竹筒を文机の上に置くと、茶の用意をしていた桔梗がそう言って頬を緩めた。
「青竹に活けると、より花の白さが際立って綺麗ね」
「はい。一輪だけ咲く姿は風情がありますが、庭に群れて咲く姿もまた美しゅうございます」
 桔梗の言葉に、蝶子は何度も小さく頷き返す。あまり庭に興味がなさそうに見えた侍女から、庭に咲く花が美しいと言われたことは何よりも嬉しかった。

「そう言えば、先程茶の準備をしておりましたら、他の侍女らに奥方様はこの城に戻られるかと問われました」
 侍女が淹れてくれた熱い茶に口をつけると、ふと思い出したように桔梗が口を開いた。
「奥方様が戻られないのではと、皆が案じていたようでございます」
 虎之新との噂があったのだ。当事者である蝶子でさえ離縁されると思い込んでいたのだから、他の者たちがそうなると信じていても不思議はない。 けれど、案じていたとはどういうことだろうか。蝶子は意味が分からず、問い返すように侍女の目を見つめた。
「今申した言葉の意味そのままにございます。奥方様が穂積に戻られたまま、この城に帰って来られないのではないかと不安に思うておったのでございます」
 不安だったのは蝶子の方で、侍女らは別に蝶子が戻らなくても関係ないのではないか。訝しげにそう問うと、桔梗は呆れたように溜息をついた。
「侍女や下男らは皆、お屋形様の正室には奥方様が相応しいと思うておるのです。奥方様が穂積に帰られてしまうと困ると、そう思っておるのでございます」
「まさか……」
「先程わたくしに尋ねてきた年若い侍女は、以前にも虎之新様との噂は真かと尋ねてきました。奥方様がそのような不義をなされる方とは、どうしても信じられなかったのでしょう。 確かに無責任な噂が城内に流れていたのは事実でございます。なれど皆が皆、あのような根も葉もない俗言を信じたわけではございません」
 きっぱりと言い切った桔梗の言葉に、蝶子は胸のつかえが取れたような気がした。伊織は噂に関してまったく取り合わず、蝶子のことを信じてくれていた。 それだけで充分の筈なのだが、自分に向けられる悪意への恐れや無責任な好奇の目に対する嫌悪の気持ちが、ずっと胸の中でわだかまっていたのだ。 正室の座に就くにはそれらをいなす強さを必要とすることは分かっているが、己に関する噂をさらりと受け流すには蝶子はまだ若すぎた。 だから、噂に左右されない人たちがいたという事実は、蝶子に何よりも勇気を与えてくれたのだった。
「その侍女は川沿いの村の出身で、幼い弟がいるそうです。野分の際、両親は村人たちと共に川の決壊を防ぐ為に奔走し、弟はこの城に避難していたとのこと。 家族の安否を心配していた彼女は、のちに弟から、奥方様がずっと蔵で避難して来た子供たちについてくれていたことを聞いたそうでございます」

 まるで言い聞かせるように語る侍女の顔を見つめれば、優しい眼差しがこちらに向けられていた。 気づけばさりげなく己の気持ちを掬い上げてくれる桔梗の気遣いは姉のようで、蝶子は胸の中が温かい気持ちで満たされる気がした。
「わたくしは幸せ者ね」
「え?」
 蝶子の唐突な言葉に、桔梗が不思議そうに問い返す。だからゆっくりと噛み締めるように、蝶子はもう一度繰り返した。
「染乃の人たちにこんなにも良くしてもらって、わたくしは幸せ者だわ」
 半年前は自分が誰よりも不幸だと思っていたくせに、調子の良いことを言っている自覚はある。 けれど、桔梗の思いやりや雪寿尼の慈愛、虎之新の大らかさに触れて、染乃に嫁いで来られて良かったと思った。 そして今、城の者たちが蝶子のことを気にかけてくれていると知り、この城に正室としていられることに心から喜びを感じていた。
「わたくしたちも皆、常に民のことを思って下さる奥方様にお仕えできて幸せに思っております」
 戦で互いに大切な人を失ったが故に、複雑な感情を抱いていた蝶子と桔梗であるが、もはやふたりの間に壁は感じられない。 相変わらず彼女の表情の変化はさほど大きくないし口数も多くないが、蝶子に誠心誠意仕えてくれているという信頼が揺るぎなく存在しているのだ。
「それに」
 嬉しい言葉をかけられて面映ゆい気持ちになっている蝶子に対し、桔梗が珍しくにこりと笑いながら言葉を繋いだ。
「お屋形様と奥方様の気持ちがついに通じて、そのことが何より嬉しゅうございます」

 一瞬言葉の意味が分からずに、頭の中でもう一度侍女の言葉を反芻する。ようやく内容を理解して、初心な蝶子は思い切り狼狽した。
「なっ、一体何を申すのですか?」
「おふたりとも相手のお気持ちを思いやるあまり、すれ違ってしまわれた時は本当に心配いたしました。 あの時、お屋形様がきっぱりと奥方様へのお気持ちを明らかにして下さって、桔梗は心から安堵いたしました」
「桔梗!」
 すました顔で淡々と述べる侍女の言葉に、蝶子の顔がみるみる赤く染まってゆく。 己の気持ちは隠していたつもりであったのに、まるで桔梗は彼女の気持ちに気づいていたかのような口ぶりだ。 恥ずかしさのあまり涙目になって年上の侍女を見やると、意外にも真面目な表情でこちらを見つめていた。
「奥方様が思い悩んでおられた時に、お力になれず申し訳ございませんでした」
 桔梗が謝る必要など微塵もない。侍女の立場で勝手に立ち回ることなどできようもないし、そもそも蝶子は己の気持ちを抱え込んで誰にも打ち明けてはいなかったのだ。 小さく首を振る蝶子に対し、桔梗はきっぱりと宣言した。
「これからは、いつでも奥方様のお力になりとうございます。お屋形様には到底及びませぬが、桔梗も奥方様の味方であることをお心のどこかに留めておいていただければと存じます」
 ありがとうと、滲んだ声で小さく告げる。蝶子は桔梗との間に生まれた絆に、心の底から喜びを感じていた。



「良い香りがするな」
 日が暮れて妻の部屋を訪れた夫は、鼻をすんと鳴らすとそう呟いた。
「お屋形様に植えていただいた水仙が、ようやく花をつけました」
「ほう、美しいな」
 竹筒に挿した一輪の花に気づいた伊織は、表情を和らげながらそう感想を漏らした。
「なれど、良いのか?」
「え?」
 何を確認されたのか分からずに、思わず問い返す。
「手折ってしまって良かったのか?」

 蝶子が育った穂積では、花は庭で楽しむものとされている。様々な種類の草花が、華やかに季節を彩るのだ。
 一方、簡素なものに美を見出す染乃では、そもそも庭に花を植える習慣が殆どない。花を愛でる際も、一輪だけ活けるというような楽しみ方をする。 嫁いで来た当初はそんな染乃の文化をつまらないと見下していたが、それがいかに偏った考え方であったかということに蝶子は気づかされていた。
「庭に咲く凛とした姿も美しいですが、室内に華を添える姿もまた美しいと思います。 それに、お屋形様は昼間お忙しくされていらっしゃいますので、こうして竹筒に活けてあればお時間ができた際に共に愛でることができまする」
 夫婦ふたりで植えた花を、夫婦ふたりで楽しみたい。そんなささやかなわがままと、そして夫の育った国の文化に敬意を示す意味がそこにあった。
「蝶子」
 優しい声で名を呼ばれる。まだ呼ばれ慣れていなくて、夫が己の名を口にする度に気恥ずかしくて頬が熱くなる。 そっと視線を合わせると、声と同じくその瞳も優しくて心の臓がとくりと音をたてた。
「伊織様……」
 夫を想う気持ちは上手く言葉にできなくて、けれども黙っているのも苦しくて、ただ名前を呼ぶ。 己の気持ちをのせるかのようにふたり名前を呼び合うと、夫がゆっくりと手を伸ばして妻の頬に触れた。

 信じられないことであるが、桔梗が昼間語ったことは事実であるらしい。蝶子が伊織を想うように、夫もまた彼女のことを想ってくれていたというのだ。 最初は信じられなくて、同情だとか贖罪だという言葉が浮かんできたが、やがてそう考えることが失礼であると思えるくらいに夫は真摯な愛情を注いでくれていた。 想像さえしなかった展開は夢のように幸せで、けれども甘い時間に身を委ねるには解決していない事柄が多すぎた。
 あと数日すれば、蝶子は穂積へ向けて発つことになる。 隣国へ嫁いでしまえば二度と故郷の地を踏むことは叶わぬだろうと覚悟を決めていたものの、まさか一年足らずで帰省することになるとは思わなかった。 それは義兄の婚儀に加え、父が臥せっていることを夫が配慮してくれたのだろうが、きっとそれだけでないということは何となく察しがつく。
「そなたに伝えねばならぬことがある」
 微かに触れた唇をそっと離すと、伊織は妻の耳元で声を落としてそう告げた。
「はい」
 覚悟はとうにできている。どんな真実が待っていようと、伊織が己のことを想ってくれているという事実があれば耐えられると、蝶子は腹を括っていた。

 


2016/03/26 


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