紅野の姫として侮られることなく、蒼山家の正室として毅然と振舞う。
己を敵視している瑠璃には決して隙を見せぬと心に決めてこの場に臨んでいたのだが、しかしながら瑠璃が口にした内容は、蝶子を動揺させるには充分な破壊力であった。
脇に控える桔梗にそっと視線をやるもいつもと同じ表情で、侍女の耳にまでその噂が届いていたかどうかは判断できない。
けれども最近、無口な侍女の口数が不自然に増えており、それは噂を耳にした桔梗の気遣いであったのかも知れぬと思えば腑に落ちた。
「そのような根も葉もない噂を、瑠璃様ともあろうお方が信じていらっしゃるのでございますね」
一瞬言葉を失った蝶子だが、やがて薄く笑みを浮かべるとそう静かに言い放った。視線を逸らしたら負けだと、背筋を伸ばして真っ直ぐに瑠璃の目を見つめる。
「本当に噂なのでございますか? 火のないところに煙は立たぬと申しますが」
瑠璃にしてみれば、蝶子を動揺させるつもりが余裕の笑みで返されるのは予想外だったのであろう。皮肉たっぷりに反論するも、先に目を逸らしたのは瑠璃の方であった。
「確かに煙は火がなければ立ちませぬ。なれど、煙を立たせる為に敢えて火を起こすことはできましょう」
「何とまあ、蝶子様はご自身の不貞を何者かの悪意ある噂にすり換えるおつもりなのですか!?」
悪意ある噂か単に面白がっているだけの無責任な噂なのか、そのようなことは今更どうでも良い。ただ蝶子は、それが事実無根であることだけは明言しておきたかった。
恐らく瑠璃は彼女の主張を信じないだろうけれど、己の想いの先が歪められることを黙ってやり過ごすことはできない。
紅野の姫とか蒼山家の正室とかは関係なく、それはひとりの女としての矜持であった。
ふたりの間に、重く長い沈黙がおりる。やがて口を開いたのは瑠璃であった。
「間もなくわたくしは、篠田光宗の妻となるでしょう」
投げやりに言い放たれた内容は予想外で、蝶子は彼女が告げた名前の主を慌てて脳裏に浮かべた。
野分の晩、藍畑を守ることを優先しようとした家臣らと民の命を守ることを主張した蝶子が対立した際、最後まで激しく彼女に抵抗した冷たい目の男。
確か瑠璃の父親である秀久に師事していたという、あの男のもとへ瑠璃は嫁ぐというのだ。
てっきり伊織は蝶子を穂積に帰したのちに瑠璃を迎えるのだと思っていたが、違うというのだろうか。
「わたくしは蒼山家の正室になりたいわけではございませぬ。ただ、伊織様の妻になりたいだけなのです」
軽く混乱する蝶子をよそに、瑠璃の口から放たれた悲痛な言葉が胸に刺さる。己を敵視する瑠璃のことが苦手な筈なのに、伊織を想う彼女の気持ちには共感していた。
けれど、彼女にかける言葉はない。してやれることもない。親が決めた相手と結婚することは女子の定めであり、何があっても決して抗うことは許されないのだ。
「ねえ蝶子様、わたくしが伊織様のお傍にいる方がお役に立つと思われませぬか? 秀久の娘を娶れば、当主としてのお立場を確固たるものにできましょう。
長年戦が続き、もはや穂積国には我が国に攻め入る余力はないと聞き及んでおります。ならば蝶姫様が人質としてこの城に住まわずとも、同盟を結べばそれで良いではござりませぬか。
敵国の地味な姫君よりも、華のあるわたくしの方が喜ばれましょうや!?」
蝶子が正室の座にいたとて何とかなると目論んでいたものの、光宗との結婚を言い渡されて切羽詰まっているのだろうか。
瑠璃は甲高い声で、半ば叫ぶようにそう訴えた。誰に何を吹き込まれたのかその論理はあまりにも稚拙で、己の不幸にばかり目を向けている瑠璃がいっそ哀れに思えてきた。
「瑠璃様がどう思われようとも、わたくしは正室としての勤めを果たすだけにございます」
「どうしてなのですか? どうして瑠璃ではなく、蝶子様が正室なのでございますか?」
「私がそう望んだからだ」
あまりに無礼で理不尽な瑠璃の詰問に答を与えたのは、聞き慣れた低い声であった。
突然開いた襖の向こうに立つその人は、きっぱりそう言い切ると、静かに蝶子と瑠璃が対峙する部屋の中へと入って来た。
――何故この人がここにいるのだろう。この人は今、何と言ったのだろう。
困惑する蝶子をよそに、瑠璃は目の前に現れた想い人に対して甘えるように尋ねた。
「それは戦を終わらせる為、すべては染乃の為にございましょう? 敵国の姫君との結婚を決断なされた伊織様はご立派だと存じます。
なれど、国の為にそこまでご自身を犠牲になさらないで下さいませ」
「己の為だ」
穏やかな声が、けれどもきっぱりと否定した。
「私が蝶子を妻にしたいと欲した。父君である和孝殿に結婚の許しを請い、蝶子の意思を無視して蒼山家へ迎え入れたのは国の為ではない。すべて己の為だ」
「ご冗談を。会うたこともない相手にそのような……」
目の前で繰り広げられる会話は確かに耳に入っている筈なのに、あまりにも現実離れしたその内容を蝶子は理解できずにいた。
ふたりの会話から置き去りのまま呆けていると、視界いっぱいに夫の顔が入ってくる。一気に鼓動が早まり我に返れば、伊織が気遣わしげに己の顔を覗き込んでいた。
「おいで」
手をとられるままに立ち上がる。
「お待ちくださりませ。城内では河合殿と蝶子様の噂で持ちきりだと聞き及んでおります。恐れながら、そのような方が伊織様の正妻に相応しいとは思えませぬ」
容赦のない瑠璃の言葉に、蝶子の体がびくりと強張った。やましいことなどひとつもないが、そのような噂を夫に知られることが何よりも哀しく惨めだった。
「お屋形さま、わたくしは……」
「庭の紅葉が美しいと聞いて眺めていたら、たまたま虎之新と居合わせ言葉を交わした。違うか?」
どうやら噂を知らなかったのは当人だけで、夫の耳にも既に入っていたようだ。蝶子は落ち込みながら小さく頷いた
「私がこのことを知ったのは、噂を聞いて虎を尋問したからではない。その日に虎が話しておったのだ。まだ暑い時分に話の流れで口にしたことをきちんと覚えていて、秋になってから実際に確かめていたことに驚いたと。本人が忘れているような些細なことを心に留めている細やかさが、正室に相応しいとそう申しておったのだ」
思いもよらぬ夫の優しい言葉を遮ったのは、瑠璃の尖った声であった。
「わたくしの方が相応しい筈でございます。わたくしは幼き頃よりずっと、伊織様の妻になることを望んでおりました。光宗のもとへ嫁ぐのは嫌でございます!」
まるで駄々をこねる子供のように懇願する。そんな従妹を一瞥すると、伊織は冷たく言い放った。
「昨晩、光宗を罪人として捕えた。望みどおり光宗との婚儀はなしだ」
「え……?」
さらりと告げられた衝撃の事実に、蝶子は思わず夫の顔を見上げた。昨晩、虎之新が伊織に知らせに来た内容は恐らくこのことだったのだろう。
やがて、こちらに向き直った夫と視線が交錯する。そのまま伊織に手を引かれた蝶子は、呆然としている瑠璃を残したまま部屋から連れ出されてしまった。
「お、お屋形様……」
強く手首を掴まれたまま、まるで連行されるように廊下を歩く。長身の夫とは歩幅が違う為に半ば小走りになる蝶子を、すれ違う侍女たちが驚いたように見送っていた。
ずんずんと進む先は蝶子の部屋のようで、伊織は襖を開けると黙って蝶子を引き込んだ。
「すまない」
低く掠れた声が、耳元で響く。呼吸が止まるかと思うくらいの強さで、強く抱き締められた。
「それは、何に対する謝罪でございますか?」
まるで閉じ込めるかのように囲われた腕の中で、蝶子は戸惑いながらそう尋ねた。
「瑠璃の非礼な言葉の数々に。私は瑠璃を従妹としか見ていなかったが、私の態度が彼女を勘違いさせていたらしい」
「瑠璃様の言葉の責任は、瑠璃様にございます。お屋形様に謝罪していただく必要はござりませぬ」
きっぱりとそう言い放つと、少し驚いたように腕が緩んだ。そこで蝶子はほっと小さく息を吐いた。
「それから、そなたの意思を無視して婚儀を進めたことに」
「確かに最初は、意に沿わぬ結婚でございました。なれど戦国のこの時代、政略結婚として敵国に嫁ぐことなど珍しくはございませぬ。
戦を終わらせることができ、今は良かったと心から思うておりまする」
「政略結婚ではない!」
鋭い声でそう否定される。思わず蝶子の肩がびくりと跳ね、そんな妻の様子にすまぬと小さく詫びながら顔を覗き込んできた。
「先程、国の為ではないと申したではござらぬか」
「なれど……」
ひどく傷ついたような声音に驚いて顔を上げると、切れ長の目がこちらをじっと見つめていた。
その瞳はいつも穏やかで優しくて、けれどもそこには決して夫婦の情愛は存在していない筈であった。
「なれど、わたくしのことを離縁なされるのでございましょう?」
「離縁?」
「父のもとに返すと、そう仰られたではございませぬか」
名前を呼んでくれたことも、蝶子を望んで妻に迎えてくれたという言葉も、心が震えるほどに嬉しかった。
けれど、それらの言葉も抱擁も、蝶子にとっては夢のようで現実味がないのだ。
「それは」
「決して故意ではございませんが、立ち聞きなどというはしたない真似をしてしまい申し訳ござりませぬ。
あの時、お屋形様がわたくしを紅野の家に返そうとなされていることを、この耳で確かに聞いてしまったのでございます」
なかなか戻らない桔梗を探していた折に、偶然耳にした伊織と桔梗の会話。
ずっと伊織と瑠璃が恋仲であると思っていたのでいよいよ瑠璃を娶るのかと思ったが、先程の様子からすると瑠璃の一方通行だったようだ。
けれど伊織が蝶子と離縁しようとしているのは事実で、彼女を妻にと望んでいるのならそれはまったく辻褄が合わないのだ。
「離したくなど、あるものか!」
伊織は唸るように低く呟くと、その言葉とは裏腹に、蝶子を抱き締めていた腕を解いた。
「愛おしくて、触れたくて。ずっと傍にいて欲しいとそう願っておる。なれど私は、そなたの兄を殺した男。
政略結婚とあらば割り切れたとて、実は心底惚れておるのだと言えば嫌悪の情をもよおすであろう。抱かれるのはきっと、堪えられぬであろう」
思いもよらぬ告白を、けれども淡々と口にする。ひとつ息を吐くと、伊織は薄く笑みを浮かべながら言葉を繋いだ。
「そなたを妻として傍に置いておきながら触れずにいるのは、もはや不可能なのだ。私が当主である限り、決して染乃が穂積に攻め入ることはないと誓う。
だからそなたが穂積に戻りたいならば、そのまま父君のもとに戻られよ」
離れてしまった温もりを心許なく思いながら、蝶子は混乱する頭でこれまで夫に触れられた時のことを思い起こしていた。その回数はあまりにも少なく、思い出すことは容易であった。
星を眺めながら手を握られた昨晩。人斬りに襲われた際の安心させる為の抱擁と、野分の時の熱にうかされた衝動での抱擁。そして、ひと房の髪にだけ触れられた初夜。
(ああ……!)
そこまで思い返すと、蝶子は伊織の顔をまっすぐ見上げた。
「蝶は、伊織様の妻でおりとうございます」
夫婦ではじめて迎えた夜、妻に触れようと手を伸ばした伊織を拒絶したのは蝶子の方だ。
兄を殺した国に嫁がねばならぬことを恨み、残酷な鬼だと噂されていた伊織のことが恐ろしくて仕方がなくて。
思わず身を引いた妻の怯えを察知した夫は、以来決して妻を抱こうとはしなかった。
けれど蝶子は、噂ではない蒼山伊織その人を知り、少しずつ心魅かれていった。
自分たち夫婦は政略結婚だと己に言い聞かせながらも、夫の優しさに触れるたびに想いがつのっていった。夫からの愛情は得られなくとも、民に愛される正妻になろう。
そう誓いを立てたものの、瑠璃の存在に何度も心が乱され、正室でありながら清い身であることを哀しんだ。
自分たちの関係は、夫が亡き兄と交わした約束による国の為の政略結婚であるのだと、何度も己に言い聞かせてその想いを抑え続けてきたけれど。
本当は、抑え込んではならなかったのだ。一度は触れられることを拒んでしまったけれど、今は違うと、そう伝えなければならなかったのだ。
「愛おしくて、触れて欲しくて。ずっとお傍にいたいと、わたくしもそう願っておりまする」
「蝶子!」
骨が砕けてしまうのではないかと思うくらいに強く、強く抱きしめられる。決して離れないと誓いを立てるかのように、渾身の力で抱き締め返した。
「ずっと、名前を呼んで欲しゅうござりました」
姫という他人行儀な呼び方でなく、己の名を呼んで欲しかった。
「蝶子、蝶……」
「ずっと、伊織様に触れて欲しゅうござりました」
土を掘り、水仙を植えてくれたその大きな手で触れて欲しかった。妻として、夫に抱き締めて欲しかった。
抑えていた想いを吐露すると、まるでその言葉を飲み込むかのように激しく口づけられた。その広い背に回した細い手が、藍色の着物をぎゅっと掴む。
息ができずに苦しくて、感情が追いつかずに苦しくて。けれど愛しい人の熱を感じていることが夢のように幸せで、蝶子の閉じた目からぽろりと雫が零れ落ちた。