日が暮れてすっかり暗くなった部屋の中に大股で入って来ると、伊織は何も言わず、ただ大きく息を吐いた。
本日帰城する予定だと聞いてはいたが、まさか夫が自ら迎えに来るとは思っておらず、蝶子は少なからず驚いた。
きっと疲れているだろうに申し訳ない。夫に気づかれぬよう睫に残る涙を拭うと、蝶子は畳に手をつき静かに頭を下げた。
「俺がついていながらこのようなことになり、申し訳ござりませぬ」
暗がりの中で、沈黙を破ったのは守之介であった。伊織に対してそう詫びると、深々と頭を垂れる。
「詳細は聞いた。あのような状況で姫を守ってくれたこと、礼を言う」
そう謝すると、伊織は守之介に面を上げさせた。そんなふたりのやりとりを、蝶子はどこか不思議な気持ちで黙って聞いていた。
「伊織様、ご覧のとおり蝶姫には正体がばれてしまいました」
「いずれ伝えねばならぬこと。姫の命を守る為にはやむを得ぬ」
「それから、蝶姫には忠孝の最期について説明いたしました」
飄々と告げる守之介に一瞬頷きかけた伊織だが、すぐに驚いたように蝶子を見やった。
「……そうか」
言葉を探しあぐねている様子の伊織であったが、結局呟いたのはそのひとことだけであった。
「では、失礼いたします。外で見張りをしております故、何かあればお呼び下さい」
そんな当主に対して守之介は一方的にそう告げると、きびきびとした動作で一礼し素早く退室した。薄闇に包まれた部屋の中には、蝶子と伊織のふたりだけが残された。
夫婦が顔を合わせるのは、伊織が蝶子の兄を斬ったと告白したあの夜以来のことであった。何から話せば良いのだろうか。
話さねばならぬことがたくさんあるのは分かっているが、なかなか最初の言葉が出てこない。
「暗いな。火を持って来よう」
やがて口を開いたのは、伊織の方であった。
部屋の中は互いの表情が分からぬほどに闇が濃くなっており、伊織は静かに立ち上がると、少し待つようにと言い残して出て行ってしまった。
(……)
ひとり部屋に残された蝶子は、膝の上で組んだ手にぐっと力を込めた。このような暗がりは別に珍しいものでもない筈なのに、今日は無性に恐ろしく感じられた。
穂積と染乃を陥れようとしているのは一体誰なのか。今考えるべきことではないのに、その疑問で蝶子の頭の中は支配されてしまう。
その人物からすれば、戦を終わらせる為に重要な駒となった蝶子の存在は邪魔で仕方ないに違いない。
どう考えてみても、先程の男ふたりは物盗りなどではなく、蝶子の命を狙ったことは明白であった。
伊織は火が灯った油皿を手にし、すぐに妻のもとへ戻って来た。恐らく、桔梗あたりが既に火の用意をしていたのだろう。
暗がりの中に照らされる夫の姿に、蝶子は気づかれぬようそっと安堵の息を漏らした。
「顔色が悪い。大丈夫か?」
気遣わしげに、伊織がそう声をかけてくる。薄闇に紛れさせていた己の怯えが明かりの前に露呈したことに狼狽し、蝶子は慌てて凛と背筋を伸ばして取り繕った。
「大丈夫でございます。ご心配をおかけして申し訳ございませぬ」
「……」
本当は恐ろしかったけれど、伊織が来てくれたのでもう不安に思う必要はない。蝶子はそう己に言い聞かせると、心配してくれる夫を安心させるように微笑んだ。
そんな蝶子を伊織は何も言わずじっと見つめると、やがて小さく溜息をついた。
「無理をされるな」
「別に無理など」
何故か寂しげにそう言われ、余計な心配をかけてしまったと蝶子は慌てて夫の言葉を打ち消した。けれども言い終わらないうちに、温かいものが遠慮がちに蝶子の手を覆う。
「恐ろしければ恐ろしいと言いなさい。泣きはらした目で、何でもない風を装って背筋を無理に伸ばす必要はない。青白い顔で、その手に爪をたてて震えを隠す必要はないのだ」
諭すようにそう言うと、伊織はその大きな掌でぎゅっと蝶子の手を包み込んだ。
「せめてこのような時くらい、夫らしいことをさせてくれ」
指先が冷たく震えていた両の手が、優しい温もりに溶かされてゆく。
「お屋形様……」
蝶子は遠慮がちに、けれどもすがるようにその骨ばった指先を握った。夫はそれに応えるかのように、その親指の腹で優しく妻の手の甲を撫ぜた。
「ふっ……う……」
先程守之介の前で散々泣いた筈なのに、再び涙が溢れてくる。
本当はずっと、蝶子は心の奥底に恐怖を押し込めていた。持参していた薬が堕胎薬にすり替わっていたことも、時折誰かの視線を感じることも。
蝶子の存在を面白く思っていない人物がいることは明白で、深く考えないように努めてはいたものの、たまにどうしようもなく不安に駆られることがあったのだ。
「すまぬ」
やがて冷えた指先に血が通い始めた頃、伊織は悔恨に満ちた声でそう詫びた。
「此度のことは、お屋形様のせいではござりませぬ。それなのにお疲れのところ迎えに来て下さり、誠にありがとうございます」
「いや、違うのだ」
何もかも自分が悪いと背負い込まないで欲しい。蝶子は涙に震える声で、自分が感謝しているということを懸命に言葉にした。
心配をかけて申し訳ない気持ちがある一方、夫が自分の為にわざわざ来てくれたことが蝶子は何よりも嬉しかった。
けれども伊織は妻の言葉を遮ると、まるで彼女の心の内を見透かすように顔を覗き込んできた。
「私は姫を怯えさせぬよう何も伝えてこなかった。なれど姫は、薄々何かを感じておられたのであろう? 不安は敢えて口にせず、我らに心配をかけぬように振舞っていたのだろう?」
どうやら先程まで張っていた虚勢は、すべて見抜かれたようだ。
己が狙われていると直接言われてもそれはそれで恐ろしく、夫が伝えなかったのは妻を怯えさせぬ為ということはよく分かる。
だから蝶子は、自身を責める夫を見つめ返して微笑んだ。表情が強張っていた先程とは違い、今度は自然に笑みが零れた。
「わたくしが外出する折には、いつも城内で最も腕のたつ者を護衛につけて下さっていたと聞いております。それに、守之介にもずっと見守られていたのでございましょう?
確かにそこはかとない恐怖を感じることはございましたが、お屋形様がわたくしの身を案じて下さっていたことが分かり、今は感謝の気持ちでいっぱいにございます」
「そなたという人は……」
そんな呟きが聞こえたと同時に、蝶子の視界に藍色が広がった。妻は藍染の着物を着た夫に、その肩を引き寄せられていた。
「お、お屋形様っ!」
「血に穢された手で貴女に触れることは許されぬと思っていた。なれど、今だけは許してくれ」
夫に抱き締められたのは、これで二度目だ。
夫婦とはいえ契りは未だ交わしておらず、触れるどころか言葉を交わしたことさえ数えるほどだ。だから突然の抱擁に蝶子は激しく動揺し、夫の声は耳に入ってきたもののその言葉を上手く咀嚼することができない。
「……お屋形様」
とくとくと早鐘を打つ鼓動は、耳を寄せている夫の胸元から聞こえてくるものか、それとも己の心の臓が鳴らしているものなのか。
どうして良いのか分からずにただ黙って抱き締められていると、その規則正しい音に少しだけ心が落ち着いてくる。
やがて動揺が安らぎに代わり、頬の火照りも徐々に引いてきた。まるでそんな蝶子の状態を見透かすように、おもむろに伊織が口を開いた。
「私は血なまぐさい危険から姫を遠ざけたかった。なれど、それは間違っていたようだ」
蝶子の腕を掴んでそっと体を引き離すと、伊織は穏やかな口調でそう言った。
あれだけ抱き締められたことに動揺していたくせに、その腕が解かれてしまったことが蝶子には寂しく感じられた。
「すべてを知っている方が危険を回避しやすいのに、何も知らせぬまま恐ろしい目に遭わせてしもうた。貴女は曇りのない目で判断できる人なのに、私の独善で真実から遠ざけていたのだ」
「先程、守之介より兄の最期について聞きました。兄やお屋形様の想いも苦しみも知らず、わたくしはずっと勝手なことばかり考えておりました。
父や兄や多くの家臣らに守られている城の中で、本当の戦の恐ろしさも知らずに軽率なことを申していたのでございます。
わたくしには何もできませぬが、そのような思慮浅い女子には戻りたくはございません。
だからお屋形様、いつか時期が参りましたら、わたくしにもお屋形様が抱えていらっしゃる苦しみをお分けくださいませ」
ゆらゆらと小さく揺れる炎に照らされる夫の顔を見上げながら、蝶子はそう懇願した。真実は残酷で、もしかすると深く蝶子を傷つけるかも知れない。
そんな予感はずっと打ち消せずにいるけれど、もう何も知らないまま安穏と暮らすことはできなかった。
「姫は強いな」
そう言うと、伊織は優しく微笑んだ。
「いえ、本当にお強いのはお屋形様にございます」
「私が?」
「はい。お屋形様は染乃と穂積、両国の平和の為にずっと尽力してこられたのでございましょう?」
本来ならば、兄の忠孝と伊織のもとでもう少し早く戦を終わらせることができた筈なのに、何者かの謀略により阻止されてしまった。
大きすぎる犠牲を払いながらも、己の意思と共に忠孝の意思を継ぐべく奔走しているのは、蒼山伊織その人なのだ。
「先程お屋形様は、ご自身の手を血に穢されていると仰いました。なれどわたくしはそうは思いませぬ」
抱き締められて混乱していたものの、その言葉だけは蝶子の耳に届いていた。
己を責める夫の言葉を哀しく思いながら、蝶子は先程冷えた指先に温もりを与えてくれた大きな手にそっと触れた。
「わたくしにとってこの手は、兄や家臣らを弔ってくれた手にございます。守之介の命を助けて下さり、志半ばで命を失った兄たちの意思を継いでくれた手にございます。
そしてわたくしの庭の土を掘り、水仙の苗を植えて下さる温かい手にございます」
その手は大きすぎて蝶子の掌の中には収まりきらなかったが、蝶子は慈しむように両の手で包み込んだ。
「……ありがとう」
感謝を述べるその低い声は、けれども少しだけ震えていた。
――紅野の姫で良かった。今、蝶子は心の底からそう思っていた。
穂積国当主の娘であるが故に政略結婚の駒となったが、仕方がないと理解しつつも、本音のところ兄の仇である伊織のもとへ嫁ぐことは蝶子にとって耐え難いことであった。
幼い頃からついてくれていた侍女の茜子すら帯同は許されず、敵国にひとりで暮らすことに不満と不安しかなかったのだ。けれども今は、父の決断に心の底から納得している。
多くの犠牲の上に成り立っている穂積と染乃の平和を守る為に、伊織の願いを叶える為に、己の存在が一助となるのならばこれほど幸せなことはないのだ。
「確かに穂積と染乃の間には血塗られた歴史があり、それを否定することはできませぬ。なれど血を流す争いは、もはや終わっておりまする。
大切なことは、両国の民が二度と血を流すことのない国をつくることにございましょう?」
「姫……」
「その為に、わたくしとお屋形様は夫婦になったのでございましょう?」
蝶子の言葉に対して伊織が何かを言いかけたその瞬間、大きな物音と男たちの怒声が聞こえた。何事かと不安になり、触れていた伊織の手を思わず強く握る。
その瞬間、ばたばたと足音が聞こえて襖の向こうから呼びかけられた。
「失礼いたします。お屋形様、少しよろしいでしょうか?」
声の主は、蝶子についてくれていた護衛であった。その声音は強張っており、何か良くないことが起こったのだと予感させた。
「すぐに参る」
夫はぎゅっと力強く妻の手を握り返すと、安心させるように大丈夫だと囁いて立ち上がった。頼りなげに揺れる小さな炎が、伊織のうしろ姿をぼんやりと照らしていた。