闇に包まれた山道を、ひとりの男が息を切らして駆けて行く。月が夜道を照らしているもののその明かりは充分でなく、何度も男は木の根に躓いて転んだ。
やがて粗末な小屋に辿り着くと、男はどんどんと戸を叩く。その音は、夜の静寂の中で思いのほか大きく響いた。
男は荒い息を整えながら思わず周囲を見回したが、けれどもそこには相変わらず漆黒の闇だけが広がっていた。
「何しに来た?」
やがて細く開いた戸の隙間から、しわがれた声が聞こえてきた。
「じじいが死んだ。あいつら無警戒なふりをして、護衛以外にも腕のたつ男をつけていやがった」
「何故おまえは死ななんだ? 使命を果たせなかったくせに、どの面さげておめおめと姿を現しているのだ」
感情のこもっていない冷徹な声に、男はごくりと唾を飲む。
「待ってくれ。確かに護衛がひとりだと思い込んだのは俺たちが軽率だった。だが、次は必ず殺る」
「怪我をしたその腕でどうやって斬るというのだ。そもそもおまえがへまをしたせいで、紅野の姫は当分城外に出ることはなかろう」
「いざとなれば城に入れば良い。奴が手引きしてくれれば造作のないことだ。見張りの隙をついてここまで逃げおおせたのは、俺につきがあるということだろう?
こんな大金が手に入る好機を逃してたまるものか」
血走った目でそう語る男を、戸の向こう側で冷ややかに見下ろしている。
「好きにしろ」
結局、戸は一寸より開くことはなく、ぴしゃりと音をたてて閉められた。
その瞬間に漏れた愚か者めという蔑みの言葉は、褒美の金に目がくらんでいる欲深い男の耳には届いていなかった。
* * * * * * * * *
雪寿尼の寺で一夜を過ごした桔梗は、迎えに来た伊織らと共に翌朝城に戻った。城内の者たちを動揺させない為なのだろう。
当主の正室が何者かに襲われたということは、伊織の側近を除いて一切が伏せられていた。桔梗らが帰城しなかったのも、蝶子が体調を崩した為ということになっているそうだ。
「姫の様子はいかがか?」
城に戻った翌日、朝餉の片づけを終えてひと息ついた桔梗は当主である伊織に呼び出されていた。
「いつもどおり落ち着いていらっしゃいます。朝餉もきちんと召し上がられました」
「そうか。なれど姫は我慢する性質に見受けられる故、くれぐれも気をつけてやってくれ」
「承知しております」
桔梗はそう言って頭を下げると、ちらりと脇に控えている小柄な男に視線をやった。無精髭を伸ばしたその男こそが、二日前に蝶子を助けてくれたその人であった。
「こちらは代々紅野家の筆頭家老を務めている田辺家の嫡男、守之介殿だ」
「え?」
男の存在を訝しく思う桔梗の気持ちを察したのだろう。伊織はあっさりと彼の素性を明かしたが、その正体は予想を超えていた。
一昨日は桔梗も動揺しており助けてくれた礼を伝えるのが精一杯であったが、蝶子と面識があるようなので穂積の人間であることは予想がついていた。
けれどもまさか、ゆくゆくは穂積で家老職に就こうという人が染乃国に忍んでいるとは思いもよらなかった。
「お屋形様や河合殿には十の字と呼ばれておりまする」
「十の字、様?」
「さよう。穂積では死んだことになっておる故、名を伏せる為にそう呼んでもらうようお願いしてござる」
飄々と語る男の口から虎之新の名前があがり、彼は知らされていたのだと納得する。伊織とその腹心である虎之新と、他にはどれくらいの人物が十の字の存在を知っていたのだろうか。
そしていつから十の字は染乃城に入り、蝶子を影から守っていたのだろう。
筆頭家老を務める家柄の、しかも嫡男にも関わらず、死んだと偽って伊織に仕えている男の存在には何か深い事情がありそうだ。桔梗は無精髭のはえたその顔を、そっと窺った。
「十の字、いや守之介殿は、蝶姫の実兄である忠孝殿の右腕であった」
やがて伊織が静かに口を開いた。忠孝と伊織が和解に向けて動いていたこと。
秘密裏に進めていた交渉の場に、伊織は竜之新や虎之新らを、忠孝は守之介をはじめとする忠臣を同行させていたこと。
けれども何者かがそれを決裂させようと企て、双方から多くの命が奪われたこと。それらを伊織が淡々と語り、守之介は黙って聞いていた。
「それでは、竜之新様の命を奪ったのは……」
桔梗の許婚であった竜之新を殺したのは穂積の人間であると疑いもせず、ずっと恨み続けていた。
けれども自分から大切な人を奪った敵は別に存在し、そしてそれは、染乃と穂積の和平交渉を決裂させる為であったというのだ。
「敵の思惑どおり、我らはその攻撃を染乃の裏切りだと決めつけた。やはり戦うしか道はないのだと刀を抜いた」
「それは染乃側も同様で、染乃も穂積も敵の掌の上でまんまと踊らされておったのだ」
敵同士として戦った生々しい告白に、桔梗は言葉も出なかった。染乃と穂積に和解して欲しくない何者かによって、竜之新は殺された。
そのあまりにも非情な理由に、もはや涙すら出なかった。
「そのような愚かな企みに気づいたのが竜之新だったのだ」
桔梗の目を真っ直ぐに見据えると、やがて伊織はきっぱりとそう言い放った。
「偵察の為に先を行っていた竜は、真実を知ってしまった。
何が起こったのかはもはや知る手だてはないが、瀕死の状態ながらも何とか敵から逃れ、必死で染乃と穂積の衝突を阻止しようとした。しかしながら、私は竜の真意を違えてしまった」
「我らは共に冷静さを失い、最悪の結果となった。なれど竜之新殿が命と引き換えに伝えたかった真実に気づかれたお屋形様は、俺の命を助けて下さったのだ。
以来お屋形様は染乃と穂積を守る為に奔走されており、俺もその手伝いをしているのでござる」
桔梗はただ黙って伊織を見つめ、次いで守之介に視線を移した。昨日は野良着を着ていたが、もともと着物を崩して着る癖があるようで胸元が少しだらしなく開いている。
そこでふと桔梗の視線がとまった。着物の合わせからちらりと見えるのはふたつの刀傷で、桔梗はそこではじめて十の字という名の意味を理解した。
「わたくしのような一介の侍女にそのような重大な内容をお話し下さり、誠にありがとうございます」
そう言うと、桔梗は深々と頭を下げた。大切な人を失ったのは彼らとて同じであったのに、桔梗が敵を恨んで引き籠っている間に男たちは人知れず事を進めていたのだ。
ずっと後ろ向きであった己を恥じると同時に、竜之新の最期について真実を教えてくれたことを彼女は心の底から感謝した。
「竜之新様の許嫁であったことを、わたくしは誇りに思いまする」
それはいつも感情を表に出さない桔梗が見せた、控えめな笑みであった。
本音を言えば竜之新を死に追いやった相手を知りたいが、それを桔梗が尋ねるのは出過ぎたことだ。
告げないということは今は告げるべきでないと判断したからであって、いつか時がくればきっと伊織や虎之新や守之介が明らかにしてくれるだろう。
「何があっても、わたくしが奥方様をお守りいたします」
だから桔梗は竜之新への想いを胸にしまい、これからは己の務めを果たすことに専念しようと心に誓った。
「いや、そう気張られるな。お守りするのは我ら男衆の務め故、そなたはこれまでどおり姫のお心の支えとなって下され」
「なれど、あの者はまだ見つからないのでございましょう?」
守之介の言葉に対し、桔梗は不安げに眉を寄せながらそう質問で返した。
昨日蝶子を襲ったふたり組のうち、年輩の男は計画が失敗したことを悟ると即座に自害した。
若年の方は守之介が捕えて見張っていたのだが、隙をついて逃げられてしまったのだ。
「俺の手落ちで心配をかけて申し訳ござらぬ。なれど即座に人相書きを配っております故、あやつは身動きとれますまい。
このあと再び城下へ捜査に出かけますので、必ずや捕えて参りまする」
その自信の根拠はどこにあるというのか。けれどもその飄々とした雰囲気の根底にある揺るぎのない何かには、不思議な説得力がある。
この守之介という人物は、少しだけ虎之新に似ているな。桔梗はそう思いながら、小柄な男の言葉に黙って頷いた。
結局、桔梗がこの部屋に呼び出された前後では何も状況は変わっていなかった。
蝶子が何者かに襲われ、その犯人は逃走中である。けれども一昨日からずっと感じていた恐怖は、今は少しだけ薄らいでいた。
「忙しいところ呼び出してすまなかったな。桔梗にも恐ろしい思いをさせたが、二度とあのようなことは起こさせぬ故、これまでどおり姫を支えて欲しい」
当主の言葉に、桔梗は深く頭を下げた。蒼山家の正室付きとして蝶子を守ることが彼女の使命であるのだが、伊織に言われずとも、桔梗自身が誠心誠意仕えたいと思っていた。
本気で染乃の民のことを考えてくれている蝶子には、誰よりも幸せになって欲しいと心からそう願っているのだ。
だから桔梗は、己がそろそろ退室せねばならぬことは分かっていたが、どうしても伊織に伝えたいことがあってその場を辞することができなかった。
侍女としての立場をわきまえるべきだということは、百も承知している。けれども暫し逡巡したのち、結局そのささやかな願いを口にした。
「恐れながら、お屋形様にはできるだけ奥方様のもとへお越しいただきたく存じます」
怯えていた桔梗を安堵させたのは、守之介が影で守ってくれていたという事実である。
恐らく蝶子も同じように感じているだろうが、何よりも伊織が傍にいてやることが彼女の心に安らぎを与えるに違いないのだ。
「ああ。あとで参る」
「ありがとうございます。奥方様もさぞお喜びになられると存じます」
「……」
これまで蝶子に対して一歩引いた立場をとっていた伊織であったが、今日は彼女を訪れることにあっさりと承諾した。
少し距離が縮まったのかと心の内で密かに喜んだのも束の間、当主の表情が微かに翳ったように見えたことが気にかかる。
気のせいかと思いながら守之介を見やると、彼もいささか困惑した表情を見せていた。
侍女の目から見ても蝶子を大切に想っているのは明白なのに、何故夫は妻の傍に居ることをそれほどまでに躊躇うのだろうか。
あまりに不器用な夫婦関係をじれったく思いながらも、これ以上はさすがに首を突っ込むことはできない。
一礼をして辞そうとしたその瞬間、ふと思い出したように伊織が声をかけてきた。
「のちほど姫にも直接伝えるつもりだが、姫の義兄にあらせられる栄進殿の婚儀の前に姫と共に一度穂積へ参ろうと思う。桔梗もその心づもりにしておいてくれ」
つい先日、父である和孝の体調が思わしくないという趣旨の手紙が蝶子のもとへ届いていたらしい。
蝶子は不安そうにしていたから、伊織と共に里帰りができるとあらばさぞや喜ぶだろう。
やはり彼は妻のことを大切に考えてくれていると嬉しく思いながら主に代わって深く頭を下げると、伊織は更に言葉を繋いだ。
「もしも姫が穂積に戻ることを望むなら、そのまま父君のもとにお返ししようと思う」
「お屋形様!?」
予想もしない当主の言葉に、桔梗の声が裏返った。部屋の外でかたりと音がする。急に風が強くなったようで、戸を叩く音はまるで伊織を非難しているかのようであった。