「大丈夫か、姫さん」
目の前に座る小柄な男が問いかける。
「わたくしは大丈夫です。そなたが助けてくれたので」
少し疲れたように笑うと、蝶子は静かにそう答えた。
あのあと、加勢が入り形勢を逆転した護衛は見事な手際で男ふたりを捕えた。
敵を護衛ひとりだと思っていた男たちにとって、遥か後方を歩いていた百姓風情の男が疾風のように追いついて助太刀したことは、当然予想外だったであろう。
里から離れており、尚且つ見通しの良い場所というおあつらえ向きの状況で襲ってきたのは、果たして計画的だったのか突発的だったのか。
けれどもそれを問い詰める前に、年配の男は舌を噛み切って自害してしまった。若い男も試みたようだが死ぬ覚悟が足りなかったようで、気づいた護衛が慌てて猿ぐつわを噛ませていた。
助かったという安堵を覚える前に衝撃的なことが目の前で繰り広げられ、蝶子はどこか現実味を感じられないままぼんやりと一連のなりゆきを眺めていた。
そこからの記憶は曖昧だ。何とか雪寿尼の寺まで辿り着き、気づけば用意された部屋で休んでいた。
当然すくも作りの見学などできる筈がなく、今は護衛が城に遣いを出してこちらに向かわせているという、迎えの馬を待っているところであった。
「申し訳ござらん。姫さんに恐ろしい思いをさせてしもうた」
小柄な男はそう言うと、蝶子に向かって頭を下げた。部屋の中には、蝶子と男のふたりだけだ。
護衛は外で迎えを待ちながら捕えた男を見張っており、蝶子と同じく恐ろしい思いをした桔梗は別の部屋で休んでいるらしい。
「謝らないで頂戴。そなたがいなければ、わたくしは死んでいたのかも知れないのです」
「申し訳ござらん」
「それは何に対する謝罪なの? 守之介、そなたのお陰でわたくしは助かったと申すのに」
短刀の切先が己に向けられた時、蝶子は死を覚悟した。けれども気づけば、見慣れた背中が身を呈して蝶子を守ってくれていた。
笠をかぶっていても、背を向けていても、目の前にあるその人物を間違える筈がない。
その小柄な男は、蝶子が幼い頃からもうひとりの兄として慕っていた田辺守之介であった。
「ねえ守之介、どうして貴方がここにいるの?」
最後に会った時よりも幾分痩せた男の顔を真っ直ぐに見つめると、蝶子は単刀直入にそう問うた。
多くのことが一度に起こりすぎて蝶子の頭の中は疑問しかないが、その最たるものが目の前にいる男の存在であった。
守之介の死が伝えられたのは蝶子の輿入れが決まった直後、雪柳が庭に白い花を咲かせていた頃だ。
崖から落ちたという事実は受け入れがたく、けれども死体の胸には守之介と同じ十字の刀傷があったとのことで、蝶子は実兄に続き兄のように慕っていた幼馴染の死を認めざるを得なかったのだ。
「どうやって黄泉の国から戻って来たの?」
帝が探しておられるという、不死の薬や蘇りの薬を手に入れたというのか。混乱した頭で、そんな馬鹿げたことを考えてみる。
それらの薬が存在するのは御伽草子の中だけだと分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「相変わらず姫さんは阿呆だなあ。一度黄泉の国に行ったら、戻れる筈がないだろう。万一その方法があったとしても、それを用いるのは俺ではない。
忠孝こそが、この世に蘇るべき人物なのだ」
死んだ人間は二度とこの世に戻れない。
分かりきっている筈なのにそのような質問をしたのは、もしも守之介があの世から戻って来たのならば、兄も同様に生き返るかも知れぬと馬鹿げた期待をしたからだ。
けれど、さすがに蝶子とてもう分かっている。そもそも守之介は、死んでなどいなかったのだ。
「姫さんを騙して、本当に申し訳ござらん」
「やはり阿呆は守之介です」
いつかの会話のように、蝶子はそう反論した。筆頭家老である田辺家の嫡男のくせに死んだと偽り、守之介は影になってずっと蝶子を守ってくれていたのだ。
染乃の城にやって来た当初、蝶子はどうしようもなく孤独であった。穂積側の人間の帯同はひとりとして許されず、父や夫への不信感を募らせていた。
けれども、今ようやく蝶子は気づいたのだ。これまで度々感じてきた視線は己を見守るものであったと。
なぜなら、蝶子がその視線に気づいたのは積極的に部屋から出るようになった野分以降であり、それは彼女に危険が及ばないようにずっと守之介が見張ってくれていたことを意味するだ。
「誰が企てたの? 誰が関わっているの? いつから計画していたの? これからどうするつもりなの?」
矢継早にそう質問する。死んだと偽ることも、敵国の城に入り込むことも、どれも守之介ひとりでは成し得ないことだ。
一体どれだけの人たちが関わっているのか、蝶子にはまったく見当がつかなかった。
「死んだと思っていた人間が突然現れて、疑問だらけになるのはもっともにござる。なれど、今俺に答えられることは限られており、すべてを話すには長くなりすぎる」
蝶子はすべての疑問を解消したくてたまらなかったのだが、守之介はそう言って答をはぐらかした。確かにそうかも知れないが、けれども蝶子には知る権利があるだろう。
そう反論しようとすると、守之介が更に言葉を繋いだ。
「姫さんは、何を一番俺に聞きたいか?」
真っ直ぐに蝶子を見据えると、守之介は静かにそう問うた。己の正体を偽る為に野良着を纏ってはいるものの、見透かすような鋭い眼光は武士のそれであった。
「兄上の最期について、知りとうございます」
聞きたいことは山のようにあるが、一番聞きたいことは決まっている。蝶子は澄んだ瞳で見つめ返すと、迷いなくそう答えた。
「伊織様から聞かれたであろう?」
「お聞きしました」
「では、俺が話す必要はない」
そう突き放した守之介に対し、蝶子は小さく首を振った。
「お屋形様からは詳細をお聞きしました。なれどそれはお屋形様の視点によるもので、後悔の念が入りすぎておりまする。
わたくしは紅野家の姫として、蒼山家の正室として、穂積側と染乃側と双方の話を聞いておかねばならぬと思うのです」
守之介が語る内容は当然ながら守之介の主観に基づいており、聞き手となる蝶子は忠孝と血を分けた妹だ。
だから兄の死を中立の立場で受け止めることはそもそも不可能なのだが、それでも夫からだけでなく双方の話を聞くことで、より真実に近づくことができるのではないかと蝶子は考えていた。
「やはり姫さんは、曇りのない目を持っておられたな……」
ひとりごとのように、守之介がそう呟く。その声には、微かに喜びが滲んでいた。
「忠孝はいつも、戦を終わらせることを考えておった」
守之介が静かに語り始める。飄々として相手をはぐらかすのが彼の常であるが、その声音はいつになく真面目なものであった。
「戦のそもそもの発端は、鏡泉山の泉の治水権にあることは姫さんも知っておられるであろう?」
「ええ」
穂積と染乃の国境にある鏡泉山の中腹には、豊かな水を湛える泉があった。そこから流れ出た水は川となり、やがて二手に分かれて穂積の田畑と染乃の藍畑を潤していた。
昔から泉はどちらの国にも属さないとされていたのだが、日照りが続いて水不足に陥った際に、両国がそれを我がものにしてより多くの水を己の領地へ引き込もうとしたのが戦の始まりであった。
「一番最初に攻め入ったのがどちらの国か、真実はもはやよう分からぬ。俺たちが子供の頃にはもう戦は始まっており、穂積は染乃が、染乃は穂積が仕掛けてきたと信じていた」
それは蝶子も同様であった。周りの大人たちの会話を聞きかじり、戦は染乃が仕掛けてきたものだと蝶子は幼い頃から疑うことなく信じていたのだ。
「決着がつかぬまま年月だけが過ぎ、疲弊した民を見かねたお屋形様と忠孝は田畑に必要な水さえあればそれで良いと思うておられた。
なれど染乃側は強欲にも泉を占拠しようと、穂積へ流れ込む川を塞き止めてしもうたのだ」
「まさか……」
藍を育て、藍を染めるに必要な水を確保できるのならば、それ以上は何も望むつもりはない。伊織は確かにそう言っていた。
強硬派の家臣と意見が割れていたとは聞いていたが、本当にそのようなことを許していたのだろうか。守之介の説明に、蝶子はぎゅっと唇を噛んだ。
「その後、染乃のやり口は徐々に激化していった。水を守る為に交代で番をしていた村人らを襲ったのだ」
「それは真ですか?」
冷徹な鬼である蒼山伊織ならば、そのような卑怯なことをしても不思議でない。穂積にいた頃の蝶子なら、疑うことなくそう信じたであろう。
けれども今の蝶子には、守之介の説明をにわかに信じることはできなかった。
伊織の何を知っているのかと問われても、数えるほどしか言葉を交わしたことのない形ばかりの妻である蝶子には答えることはできない。
けれどもその数少ない会話の中に、誰の命も大切にする伊織の人となりが垣間見えていた気がしてならないのだ。
「真にござる」
けれど、あっさりと守之介は肯定した。
「何人かの村人は、染乃の矢に射られて死んだ。染乃の者が用いる矢じりは特徴的で、見ればすぐにそれと分かるのだ。
そして逃げ切った者は、敵が藍染の着物を着ていたと証言していた。我らは皆、染乃の卑怯なやり口に憤っておった」
嫁ぐ前に想像していた冷酷な鬼と、嫁いだあとに接した穏やかな夫の姿。どちらが本当の伊織なのだろうか。守之介の話を聞きながら、蝶子は激しく混乱していた。
確かに伊織はその手で兄を殺したと、そう蝶子に告白した。今は血生臭い戦国の世。伊織が穂積の民のたくさんの命を奪っていても、別に不思議ではないのかも知れぬ。
そう思い至った瞬間に、けれども蝶子は小さく首を横に振った。
「姫さん?」
「わたくしとお屋形様の婚姻関係は、戦を終わらせる為の政略婚にございます。形ばかりの夫婦ゆえ、お屋形様のことは殆ど何も知りませぬ。
なれどお屋形様がお話下さった民への想いや藍染めへの想いは、真摯なものであると蝶には感じられました。
兄上と同じ信念を抱いておられると、蝶には感じられたのです」
だから、たとえ敵であっても伊織が村人の命をそのような卑怯な方法で奪うとは思えない。
そして、そうした誠実な人柄が透けて見えたからこそ、蝶子は兄の敵と恨んでいたその人に魅かれてしまったのだ。
背筋を伸ばし、まっすぐに守之介を見つめる。けれども彼は否定も肯定もしないまま、更に衝撃的な事実を口にした。
「同時に染乃もまた、穂積側の攻撃に憤っていた」
「え?」
「穂積の者たちが染乃の領地に攻め入り、水を堰き止め、村人を殺めていったのだ」
「まさか戦場以外で、村人相手にそのような卑怯なこと。父上や兄上がお許しになる筈がございませぬ」
殺さねば殺されるという命を賭した戦場で兵相手ならいざ知らず、武器を持たぬ村人を標的にするなど本当に実行したのだろうか。
蝶子の眉間には、知らず知らずのうちに皺が寄っていた。もしや過激な意見を唱える一部の家臣が暴走したのだろうか。
確かに優柔不断な父のことを、頼りないとみなしている家臣はいたようだ。しかし、そこまでの勝手を許すほどには父の権力は弱くはない筈であったが……。
「穂積の村人は染乃の矢で射られた。染乃を襲った者は、穂積の赤い甲冑をつけていたそうだ」
戦から最も遠い安全な城に暮らしていた蝶子はやはり世間知らずの姫で、現実には綺麗事は一切まかり通らないということか。
兄や伊織らが多くの民を殺めた血の上に、己の安穏な生活が成り立っていたというのか。追い討ちをかけるような守之介の言葉に、蝶子は黙って俯いた。
「なあ姫さん、穂積国の兵と同じ格好をした者が染乃を襲い、染乃国の者と同じ矢を持った者が穂積を射たのだ」
守之介がゆっくりと繰り返す。常ならぬその低い声に、蝶子は思わず顔を上げた。
「……もしや」
「俺たちは村人を襲ってなどいない。俺たちの相手は、武器を手にし、甲冑を身につけた兵だけだ」
陰りのない守之介の目を見返すと、蝶子はほっと小さく息を吐いた。兄の言動が生涯一貫していたことに何よりも安堵した。
忠孝は、妹が知っている兄以外の顔を持たなかったということだ。
けれども同時にそれは、話をより複雑にさせるということでもあった。
「単刀直入に聞くわ。黒幕は分かっているの?」
「姫さん、それは単刀直入すぎやしませんか」
蝶子の言葉に苦笑いを浮かべると、守之介は顎鬚に手をやった。その反応に、にわかに浮かんだ己の予想は外れていないのだと蝶子は確信した。
穂積は染乃の村を襲ってはいない。けれども穂積の格好をした男たちの目撃証言がある。ならば、導き出される答はひとつしかなかった。
何者かが穂積の人間を装って、敵国である染乃の民を襲っていたのだ。
「染乃を襲った者と穂積を襲った者たちは同じなのか、という問いには答えられる?」
染乃も水を堰き止めたり村人を襲ったりはしていない。穂積国と染乃国の双方に敵を装って争いを仕掛け、その関係をより悪化させようと謀った者がいたのだ。
「恐らく同じだと、我らはみています」
今回の問いには答えてくれた。それならばと、蝶子は尚も質問を重ねた。
「もしや、竜之新殿を殺めたのも?」
「間違いないでしょう」
思わずこくりと唾を飲む。どくどくと鼓動が早まり、蝶子はぎゅっと両の掌を握り締めた。
「ならば、兄上を斬ったのは……?」
両国の敵対関係が続くことを望んでいる者たちが、戦の終結を黙って見ている筈がない。
穂積国の次期当主が染乃国の当主に持ちかけた和解の話を誰かがどこかで聞きつけて、決裂させようとしたのではないかということは容易に予想がついた。
伊織の話では忠孝らが約束の場所へ現れなかったということだが、それもすべて敵の襲撃のせいだったのだろう。
兄が謀ったのではなく、夫が裏切ったのでもなく、ふたりとも終始戦を終わらせることに腐心していたということだ。そこまで思い至った蝶子は、微かな期待を込めて守之介に問うた。
「いえ。忠孝を切ったのは蒼山伊織、その人にござる」
けれども守之介は、あっさりそれを否定した。
「そう……」
その答に、蝶子は力なく頷いた。
「約束の場所である廃寺へと向かう道中で、最初に受けた攻撃は弓矢によるものであった」
蝶子の兄を殺したのは、蝶子の夫で間違いない。その事実を肯定した守之介はそこで言葉を切り、彼女の表情が変わらぬことを確認すると再び言葉を繋いだ。
「染乃で用いられている矢じりと穂積のものとでは、その仕様が異なる。こちらに向けて射られた矢が染乃のものであることを確認し、蒼山伊織に裏切られたのだと俺たちは怒りに震えた。
あの時同行していたのは忠孝の志に共感した腹心らであったが、染乃を信じたことは愚かなことであったと絶望し、やはり血を流さねば平和を得られないのだとそう思い始めていた」
「放たれた矢は、染乃の攻撃だと思わせる為のものだったの?」
「恐らく。不意打ちでひとりの腕を掠めはしたものの、それ以上は狙ってこなかった。今考えると、俺たちに染乃が裏切ったと思わせられればそれで充分だったのだろう」
これで戦が終わると、これから平和な世になると兄は思っていただろう。それなのに思いを叶えるその直前で覆されて、一体どう感じただろうか。
和解を目前に残酷な現実を知った兄の心情を思うと、蝶子は言葉を失った。
「いくら染乃の当主が道理の分かる男に見えたとて、所詮は長年争った敵。我らも当然、掌を返される可能性を考え備えてはおった。なれど敵の攻撃は姑息で、執拗だった」
廃寺へと向かう山道には罠が仕掛けられ、それにかかった瞬間に敵が斬りかかって来る。既に何人かが命を落とし、忠孝を庇った守之介自身もその胸に大きな刀傷を受けていた。
一旦引くべきか。そう思案をしていた忠孝らの耳に、先を行く者の上ずった声が届いた。
「染乃軍だという味方の声に、俺たちは一斉に殺気立った。もはや和解は成立しない。
忠孝の願いを打ち砕き、仲間の尊い命を奪う、そんな愚かな染乃の人間から穂積を守るには蒼山伊織の息の根を止めるしかない。
けれど、刀を構えた俺たちは既に味方の多くを失いすぎていたのだ。忠孝を守る筈が目の前の敵に手こずり、俺の方が危ない状況に陥った。
既に負っていた傷のせいで追い詰められ、心の内で忠孝に詫びた瞬間、伊織様の刀を受ける忠孝と目が合うた。そしてそこで、俺の意識は途切れたのだ」
里のはずれにあるこの寺は静かだ。もともと雪寿尼が静かに暮らす寺ではあるが、今は人の気配すら感じられない。いつしか傾き始めた太陽が、畳の上にふたりの影を作っていた。
「気づけば俺は、染乃の城で手当てを受けていた。主を守れず、敵に助けられるなど武士の恥。腹を斬って死のうと思った俺に、伊織様が驚くべき仮説を告げたのだ。
なれど、忠孝を殺した敵将の言うことなど信じることができようか。
動くこともできず寝たきりの状態で考えるのはあの時のことで、一連のことを冷静に思い起こせば、何者かが穂積と染乃の和解を阻んでいるという伊織様の言葉が真実味を帯びるばかりであった」
そこまで一気に喋ると、守之介は息を吐いた。そして、ぽつりと小さく呟いた。
「遺体を弔って下さったのだ」
「え?」
「伊織様は、仲間たちの遺体をすべて弔って下さっていたのだ」
本来は捨て置かれる敵兵の死体をすべて供養し、墓を建ててくれたというのだ。
「あの時、俺たちは皆冷静さを失っていた。その結果、大きな犠牲を払うことになってしまった。今ここできちんと考えねば、もっと多くのものを失ってしまうのではないだろうか。
もう一度、蒼山伊織という人を見極める。そして忠孝が求めた平和な国を築くにはどうすれば良いのか、必死で考えた」
守之介の表情には、後悔の色が滲んでいた。ただひとり生き残り、主を守れなかった無能と謗られ、その胸に受けた十字の傷は今もまだ疼くのであろうか。
「考えに考えた末、俺は決めたのだ。蒼山伊織を信じると」
気づけばいつしか日は傾き、部屋の中は薄暗くなりつつあった。
「大丈夫か、姫さん」
気遣わしげな守之介の言葉で、蝶子は己の頬が濡れていたことに気づいた。
「俺の話せることはここまでだ。あとは、時が来れば伊織様がすべて話して下さるだろう」
「ありがとう」
そう告げる守之介に対して小さく頷くと、蝶子は静かに頭を下げた。何に対する礼なのかはかりかねるという表情で、守之介が蝶子を見つめ返してくる。
「兄上の最期を教えてくれてありがとう。兄上に忠誠を尽くしてくれてありがとう。わたくしのことをずっと守ってくれてありがとう」
「蝶姫……」
嗚咽ばかりが漏れて、上手く言葉にならない。忠孝の無念、守之介の後悔、伊織の悔恨。
予想を遥かに上回る残酷な現実に様々な感情が渦巻き、蝶子は自分が何に対して泣いているのかさえよく分からなかった。
「……生きていてくれて、ありがとう」
あとからあとから溢れ出す涙を拭いながら、ようやく蝶子は守之介に一番伝えたかった言葉を口にした。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。何とか気持ちが落ち着き嗚咽が治まりかけた頃、蝶子の耳に馬の蹄の音が届いた。
「どうやら到着されたようだな」
守之介がひとりごちる。先程まで静まり返っていた寺の中が、にわかに騒がしくなっていた。蝶子が何事かと訝しんでいると、やがて荒々しい足音が近づいて来て目の前の襖が開いた。
「姫!」
「お屋形様……?」
目の前には、不在にしていた筈の夫の姿があった。