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の居る場所



 寒昴の章  肆


 人の噂とは無責任なものだ。真偽のほどは二の次で、面白ければそれで良い。
 話の内容に意外性があるほど広まるのは早く、そのせいで傷つく人がいるという想像は働かないらしい。
 染乃城内では今、とある噂が静かに広がっていた。


「虎之新様」
 己の名を呼ぶ声の鋭さに、彼女の耳にまで届いたかと虎之新は思った。
「虎之新様、少しよろしゅうございますか?」
「何だ桔梗、俺を口説くつもりでござるか」
 いつものように軽口で返すも、口を真一文字に結んだ幼馴染の反応はない。ただ黙って、すたすたと足早に蔵の方へと向かって行った。 幼い頃からあまり感情が表に出ない桔梗だが、付き合いの長い虎之新には彼女がどれほど傷ついているのかが伝わってきて、やりきれない気持ちになった。

「城内に流れる噂について、お聞き及びにございましょう?」
 蔵の前までやって来ると、静かに桔梗は口を開いた。以前は飢饉に備えて米などを備蓄していたその場所は、長く続いた戦のせいで現在は殆どが空の状態である。 だから今ここを訪れる者はおらず、桔梗が虎之新をこの場所へ連れ出したのは誰にも聞かれたくない話をしたいのだと容易に想像がついた。
「お聞き及びにございましょうや!」
「……ああ、耳に入っておる」
 問うというよりも詰問に近い桔梗の口調に、ごまかしても仕方がないと観念した虎之新は溜息まじりに肯定した。
「誰があのようなこと」
「分からぬ」
 そう短く答えると、切れ長の目がまるで見透かすように見つめてきた。 桔梗は虎之新が何か隠しているのではないかと疑っているようだが、そのような目で見られても既に噂は下働きの者にまで知れ渡っており、今更出所を調べるのは不可能であった。
「……愚かだわ」
 桔梗が低く呟く。少し震えたその声には、怒りと哀しみが入り混じっていた。

「今日はこれから雪寿尼様の元へ参られると聞いておるが?」
「ええ。すくもが完成するということで、藍師の元へ参る予定でございます」
 伊織の実母である雪寿尼の住まう寺の隣には、藍畑と藍葉からすくもを作る為の作業場がある。 染乃の主産業である藍染について学びたいと、蝶子は野分のあとから何度かすくも作りを見学しているらしい。 夏に刈り取った藍葉を寝かせて作ったすくもがいよいよ完成するということで、今日もこれから藍師の元を訪れる予定であると小耳に挟んでいた。
「城外にまでは噂は広がっていないと思うが、念の為に気をつけておけ」
「承知しております」
 悪意のある噂は広がりが早い。万一、善悪の判断がつかぬ子供が耳にして、無邪気に本人に尋ねるようなことがあれば最悪だ。 桔梗もそれは警戒しているようで、虎之新の忠告に固い表情で頷いた。

「虎之新様は穂積国より届いた文については、お聞き及びでございますか?」
 僅かに沈黙が続いたのち、やがて桔梗がそう尋ねてきた。
「ああ」
 桔梗の問いは虎之新が知っていると確信した上でなされており、もはや隠したところで意味がない。虎之新は正直に頷いた。
「奥方様は、お父上の体調が思わしくないという知らせにお心を痛めておりまする。お屋形様のことにも、お心を痛めておりまする。 わたくしはもうこれ以上、奥方様にお心を痛めて欲しくはございませぬ」
「……」
「あの夜、お屋形様と奥方様がどのようなお話をなされたのかわたくしは存じ上げません。なれど、何も仰いませんが奥方様が思い悩んでおられるのは、お傍に仕えておりますれば分かること。一介の侍女であるわたくしには何もできませぬが、染乃のことを真剣に考えて下さる奥方様には、染乃の城で辛い思いをしていただきたくはないのでございます」
「桔梗」
「本来ならば外出を控えていただいた方が良いのかも知れませぬが、そのようなことをして奥方様の心配の種を増やしたくはございません。 故に、予定は変えず普段どおりの生活をするつもりにございます」
「ああ、それで良い」
 虎之新が力強く同意すると、桔梗はほっとしたような表情を見せた。
「伊織が姫さんの外出の際につけている護衛は、腕の立つ者ばかりだから安心しろ。 本当は‘蒼い虎’の異名を持つ俺が供についてやるのが一番安全だが、今それをやると悪目立ちするだろうからな」
「それだけはご勘弁下さいまし」
 にやりと笑ってそう軽口を叩く。それを聞いた桔梗が心底嫌そうな声を出すので虎之新が笑うと、じろりと睨まれてしまった。

「大丈夫だ。伊織は姫さんのことを大事に思うておる。もう少しだけ待ってやってくれ」
「そのようなこと、言われずとも分かっておりまする」
 むくれたように桔梗が言い返すが、けれどもその語尾は滲んでしまっていた。
「おふたりともお心の深いところで互いに想い合っておられるのが分かります故、傍で見ているのが辛いのです」
 暫く躊躇したのち、虎之新は俯く幼馴染の肩をぐいっと引き寄せた。そして幼い頃、ぐずる桔梗をあやしてやった時のように、ぽんぽんとその背中を優しく叩いた。



* * *   * * *   * * *



「あらまあ、これは立派な出来栄えにございますね」
 当主の身の回りの世話をしている藤が、藍染の着物を手にしながら驚嘆したようにそう声をあげた。
「寸法など、問題はございませぬか?」
「大丈夫、寸分の違いもございませぬ」
 不安げに蝶子が尋ねると、藤は目尻に皺を寄せて優しげに微笑みながら深く頷いた。 つい先日、頼みごとがあって藤を呼び出した際に彼女が裁縫を得意としていることを知り、蝶子は昨晩縫い上げた着物の出来栄えを確認してもらっていた。 寸法が合っているかが不安であったが問題ないと太鼓判をもらい、ほっと安堵の溜息を吐く。
「丁寧な縫い目にございます。さぞや奥方様の母君のご指導が素晴らしかったのでしょう」
「ありがとうございます」
 褒められるのは面映いが、心を込めて仕上げたので嬉しくもある。何より己だけでなく母が褒められたことが嬉しくて、蝶子ははにかむような笑みを浮かべた。
「それにしても、お呼びくだされば藤が奥方様の元へ参りましたのに」
「いえ、これから城内を回るつもりなので、その際に藤殿をお見かけしたら助言をいただこうと思っていたのです。忙しいのに呼び止めてしまってごめんなさい」
 朝餉のあとから桔梗の姿が見えぬ為に藤を呼び出すことができず、そもそも呼び出すほどのことでもないと思っていた。 すべてを偶然に任せていたのだが、拍子抜けするくらい簡単に藤の姿を見かけて蝶子は目的を果たすことができたのだった。

「奥方様は城内の見回りをされていらっしゃるのでございますね」
「そのような大層なものではございませぬ。城内について知らぬことが多い故、時間がある時に見て回っているだけでございます」
 野分の時のような無力感を二度と味わいたくはない蝶子は、たまにこうして城の中を用もなくふらりと回っている。 人質でもお飾りでも、一国を治める当主の正室である以上、いざという時の為に必要なことは把握しておかねばならぬと蝶子は心に決めていた。 そしてそれは、正室の威厳ばかりにこだわる瑠璃への意地でもあった。
「何か分からないことがあれば、藤殿にも伺ってよろしいでしょうか?」
「もちろんにございます。藤は長年この染乃城に仕える古狐にございます故、何なりとお聞き下さいませ」
 藤の芝居がかった口調が可笑しくて蝶子が笑うと、藤も朗らかに声をあげて笑う。桔梗や藤など、少しずつ城内に心を許せる相手ができてきたことが嬉しかった。

 やがて藤と別れた蝶子は、台所へと向かう。長い廊下を右に折れると、不意に蝶子は視線を感じた。
 はじめてその視線に気づいたのは、野分のせいで城内が混乱している時だったか。 雪寿尼の元を訪れた際にも感じたことがあり、場所に関わらず時折こうして誰かの視線を受けている気がするのだ。 姿が見えるわけでも物音が聞こえるわけでもないが、穂積の姫として身を守る為に周囲の気配に敏感になるようにと幼い頃から教え込まれていた蝶子は、己に向けられている視線を確かに感じていた。 狙っているのか見張っているのかその目的は分からないが、そもそも自分は敵国から嫁いで来た人質だ。 にも関わらず野分の際には出しゃばった真似をしてしまい、自分の存在を面白くないと思っている連中がたくさん存在するであろうことは蝶子自身も自覚している。 雲雀に託してしまった堕胎の薬の件も結局うやむやのままで、だから時折、この大きな城の中で己の命を狙っている者が潜んでいるのではないかという恐怖が蝶子の頭をもたげてくるのだ。
 そこまで考えると、蝶子はふるふると頭を振った。つい今しがた、桔梗や藤の存在がありがたいと思ったばかりではないかと思い返す。 虎之新もいるし、雪寿尼や雲雀も蝶子のことを気にかけてくれている。 茜子の帯同すら叶わずたったひとりで嫁いで来たけれど、この半年で随分と信頼できる相手が増えたのだ。
 気持ちを落ち着かせる為にひとつ息を吐き、その手にある深い藍に視線を落とす。 蝶子は己が仕立てた着物をぎゅっと抱きしめると、やがて背筋を伸ばし再び真っ直ぐに廊下を歩き出した。



 冬の空は、灰色の雲が薄く覆っていた。風は冷たく乾き、かさかさと地面の枯れ草を揺らす。
「奥方様、寒くはございませんか?」
「大丈夫です」
 城を出る頃は確かに少し寒かったが、高台にある染乃城を下りて城下町を抜ける頃には既に体が温まっていた。
「先日美しく咲いておりました竜胆も、もう散ってしまいましたね」
「いよいよ冬ですね。まだ見られるかと思っていたけれど、残念だわ」
 桔梗に声をかけられた蝶子は、沿道に視線をやりながらそう答えた。 雪寿尼が住まう寺に通じるこの道を前回通った時には、濃い紫色の花が茂みの奥にひっそりと咲いていたのだが、今はもうその姿はない。 蝶子が冬の到来を実感していると、前方を指差しながら桔梗が弾んだ声をあげた。
「奥方様、あちらの山茶花が見頃にございます」
 確かに侍女が言うとおり、老木の向こう側に山茶花が鮮やかな紅色の花をつけている。綺麗ねと相槌を打ちながら、けれども蝶子は侍女の様子に違和感を感じていた。 最近は少しずつ心を開いてくれて会話が増えたとはいえ、もともと桔梗は無口な性質だ。それなのに今日は、野花を見つけるたびに蝶子に話しかけてくるのだ。
「いかがなさいましたか?」
「いえ、何でもないわ」
 何かあったのかと思案していると無意識のうちに横顔を眺めすぎていたようで、桔梗に不思議そうな顔を向けられてしまった。 いっそ尋ねてみようかと思ったけれど、せっかくたくさん話しかけてくれているのに水を差すのもどうかと思い、結局蝶子は曖昧な笑顔でごまかした。

「この先は風が強くなります故、お気をつけくださいませ」
 やがて桔梗は、そう声をかけてきた。道は急に開け、遮るものが何もなくなってしまう。見通しは良いので安全なのだが、その代わりに冷たい風を一身に受けることになる。 風上に立ってくれる桔梗に感謝しながら、蝶子は黙々と雪寿尼が住まう寺へ歩みを進めた。すると不意に、蝶子は背後から視線を感じた。 そっと振り返ると、護衛から少し離れた後方を、百姓と思しき小柄な男が歩いていた。
「いかがなされましたか?」
 護衛が蝶子に尋ねてくる。
「いえ、何でもございません」
 笠をかぶっているので人相は見えないが、何の変哲もない野良着姿だ。少し神経質になっているのかも知れないな。そう思い直すと、蝶子は再び前を向いて雪寿尼の元を目指した。

 里までの道中は頻繁に村人の姿を見かけたが、雪寿尼が住まう寺は里のはずれに位置する。 村を抜けると人通りがぱたりと途絶えてしまったが、この道の先が海原国へ通じている為に、時折行商人と思しき者とすれ違うことがあった。 寺まであと少しというところで、旅装束の男がふたり前方から歩いて来るのが見えた。親子なのだろうか。 年の離れた男たちの着物は土埃で汚れており、長い距離を歩いて来たことが窺えた。 やがて彼らは立ち止まり、深く頭を下げて蝶子たちが通り過ぎるのを待つ。 蒼山家の正室とまでは分からずとも、身なりや護衛をつけていることから高貴な身分であることは容易に察することができるだろう。
 蝶子たちは黙って彼らの横を通り過ぎようとしたが、すれ違いざまに若い男の方がふと顔をあげた。笠の下からぎろりと覗く目とぶつかる。刹那、きんと鋭利な音が耳を掠めた。

「何奴っ!?」
 即座に反応したのは護衛であった。蝶子と桔梗を庇うように立ち、素早く抜刀する。けれども護衛が構えるより先に、年配の男が杖で護衛の腕を払った。 何とか刀を取り落とすことはなかったが、それでもふたりの男に不意を突かれ、蝶子たちが圧倒的に劣勢なのは明白であった。
「桔梗殿、奥方様を寺へ」
「はい」
 背を向けたまま、護衛が短く桔梗に命じる。けれども睨み合っている男たちの均衡は、蝶子が一歩足を踏み出せば崩れてしまいそうで動くことができない。 行商人の格好をした男たちは刀を手にしていないとはいえ、相手はふたりでこちらはひとり。更に蝶子と桔梗という枷までついている。 何よりも、すれ違いざまの攻撃は明らかに彼らがただの行商人ではないことを物語っており、迂闊に動くことができなかった。

 襲われた理由は己が紅野の姫であるせいか、あるいは蒼山家の正室であるからか。それとも、ただ単に身なりが良かった為なのだろうか。 今そのようなことを考えても仕方がないのに、蝶子は混乱した頭の中でぐるぐると思い巡らせていた。
(死にたくない)
 理由も分からず、正体も分からない者たちに殺されたくはない。年配の男は護衛と対峙しており、年若い男の方は鈍い光を宿した双眸でこちらを見据えていた。 ぞくりと、足許から恐怖が這い上がる。蝶子は己の懐にそっと手をやった。震える指先に、短刀の硬い感触が触れる。 護身用に身に着けているそれは、けれどもこの状況で鞘から抜くことができるとは思えなかった。
 怖い、怖い、怖い。沈黙の中、いつ攻撃を仕掛けてくるのかも分からないまま睨み合っている状況は気が狂いそうになるくらい恐ろしく、蝶子は唇を噛んで必死で叫びそうになるのを堪えた。
 不意に、風が強く吹き抜けた。落ち葉が宙に舞い上がったのを合図に、ふたりの男は同時に足を踏み込んでくる。 護衛の刀が年配の男の杖を叩き斬ったその脇から、年若い男が短刀を蝶子に向かって突きつけてきた。
(伊織様……!!)
 殺される。そう思った瞬間、蝶子は夫に助けを求めていた。

「蝶姫!!」
 次の瞬間、聞き慣れた声と共に蝶子の前に陰が落ちた。いつの間にか目の前に背中があり、蝶子を守る盾となってくれている。 顔が見えずとも、蝶子はその背を確かに知っていた。
 けれどもそれは絶対にここにいる筈のない人で、蝶子の心の臓は先程までの恐怖とは異なる音をたて始めていた。

 


2015/10/24 


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