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の居る場所



 寒昴の章  参


「どうしておまえが、わたくしの夫になるというの?」
「申し訳ございませぬ」
 香が強く匂う部屋で、不機嫌を隠すことなく瑠璃はそう言い放った。鍛えた体をふたつに折ると、目の前の男は深く頭を垂れた。


 瑠璃が父である秀久から、今目の前にいる篠田光宗の元へ嫁ぐようにと命じられたのはつい先程だ。 いつ結婚の話が出てもおかしくない年齢ではあるが、自分は幼い頃より伊織の妻になるのだと信じてきた。誰に言ったわけでも、誰に言われたわけでもない。 けれど、先代が亡くなった折に後継者として名前が挙がった秀久の娘である自分を妻として迎えることは、伊織の立場をより強固なものにする為に何よりも有益だと信じていた。 それなのに、父は瑠璃に対して別の男の元へ嫁げと命じたのだ。
 瑠璃は赤く紅を引いた唇をぎりっと噛んだ。結婚が己の意思だけで成り立たないことは理解している。戦を終わらせる為に、穂積の姫と政略結婚しなければならなかったことも致し方ない。 それを受け入れられるくらいに瑠璃は大人なのに、けれども秀久は娘が伊織の為に側室になる覚悟があることを理解していなかったようだ。 父には以前にも己の考えを主張したのに、全く伝わっていないことが瑠璃は悔しかった。

「恐れながら、お屋形様には瑠璃姫が相応しいと思われます」
「え?」
 苛々とした沈黙の中で、ずっと頭を垂れていた男がおもむろに口を開いた。
「私はかねてより、秀久殿の血を引いた瑠璃姫こそがお屋形様のご正室になるべきだと思うておりました」
「そうなのか?」
「はい。幼少の頃より秀久殿の元で弓の稽古を積んで参ったこの光宗、まだ幼子であらせられた瑠璃姫がお屋形様をどれだけ慕っておられたかは誰よりも存じ上げておるつもりです」
 篠田家の嫡男である光宗は、弓の名手として戦場で名を馳せた秀久に心酔している。 瑠璃より五歳年上の彼は、彼女が物心ついた頃にはもう弓の稽古の為に屋敷に出入りしており、少年だった光宗と幼い瑠璃はたびたび顔を合わせていた。
「おまえだけね、そう言ってくれるのは……」
「紅野の姫がいる以上、お屋形様に嫁ぐとすれば側室として。瑠璃姫ほど美しい姫が正室になれぬのはもったいないと、父君はそう思っておられるのでしょう」
「伊織様は優しいお方だから、ご自身を犠牲にして国の為に穂積の姫を娶られたのでしょう。 きっとわたくしを正室にとお考えだった筈なのに、こうなった以上、側室としては迎えられないと気遣って下さったに違いないわ。 わたくしは一向に構わないし、正室の座など穂積の田舎姫にくれてやるというのに」

 もう、どうしようもないというのか。瑠璃は絶望的な気持ちになった。
 光宗のことは嫌いではない。それどころか、むしろ信頼している。彼は幼い頃から瑠璃を姫として敬い、女性として扱ってくれた。 鍛え上げた肉体と整った顔立ちは女性の人気の的で、瑠璃の家よりも格下にはなるが家柄も悪くない。 他の女性なら喜んで嫁入りする相手であるだろうが、けれども瑠璃は伊織以外の男の元へ嫁ぐことは考えられなかった。
「ご心配なさらないで下さい。瑠璃姫の願いはきっと叶います」
「簡単に言わないで頂戴!」
 美しい笑みを浮かべると、光秀はそう宣言した。根拠のない無責任な慰めは余計に苛立つ。この絶体絶命の状況で何を言うかと、瑠璃は思わず尖った声を発した。
「瑠璃姫が幸せになられるのであれば、私は何も厭いませぬ。だから姫はご自身の幸せを信じて下さい」
「光宗、おまえはどうしてそこまで……?」
 瑠璃自身が諦めかけているのに、光宗の勝算はあるのだろうか。瑠璃の不機嫌にも動じることがないその男は、彼女の問いに口角を上げた。

「今、城内で噂が流れております」
 そう言うと、光宗はついと膝を寄せて瑠璃に近づいた。
「このあとお屋形様は火急の用向きにて城を空けられ、私も供として付き従います。三日ほどで戻りますが、貴女の願いはきっと叶いましょう。 どうぞ、今しばらくお待ち下さいませ」



* * *   * * *   * * *



 生まれ育った穂積国に比べ、染乃の冬の到来は早い。
 穂積では霜月とは名ばかりでこの時期にはあまり霜がおりることはなかったが、この地では色づいた木々がその葉を落とす頃にはもう朝霜が見られるようだ。 最近は寒さのせいで庭に出る時間も減ってはいるが、その代わりに蝶子は裁縫に精を出していた。

「奥方様、少し休憩されてはいかがでございますか?」
 桔梗の声にはたと手を止めると、目の前に熱い茶を用意してくれていた。縫い物を始めてどれくらい経ったのだろうか。 はじめは雑念を払うかのように針を運んでいたのが、いつしか集中していたようだ。針山に針を刺すと、蝶子は湯呑みに手を伸ばした。
「美味しい……」
 湯気を立てている茶を口にすると、蝶子はほっと息を吐く。戸を閉めているとはいえ部屋の中は冷えていたのだが、熱い茶で胃の中からじんわりと温まってきた。
「奥方様は本当に裁縫がお得意でございますね」
「え?」
 肩を手で揉みながら裁縫で固まったこりをほぐしていると、縫いかけの着物に目をやりながら桔梗がそう呟いた。
「恥ずかしながらわたくしは昔から裁縫が苦手でございまして、このような速さでこのように美しく仕上げることはできませぬ」
「上手いとは思わないけれど、昔から裁縫は好きなのです。母が体の弱い人だったので、よく枕元で裁縫をして出来栄えを見てもらっておりました」
 母は横になったまま蝶子の手元を眺めていて、縫い目が綺麗だと褒められた時はとても嬉しかったものだ。母の形見の裁縫箱を見やりながら、懐かしい気持ちで蝶子はそう語った。
「わたくしはどうも裁縫は苦手にございまして、母からも匙を投げられてしまいました。どうやらわたくしは細かい作業よりも体を動かす方が得意なようでございます」
「あら、意外だわ。桔梗は何でもそつなくこなすものだとばかり思っておりましたのに」
 いつも冷静に淡々と仕事をこなす侍女に、苦手なものがあるというのは想像がつきにくい。蝶子が思ったままそう口にすると、桔梗は苦笑いを浮かべた。 彼女はもともと感情を表に出すのが苦手なようでその変化は微かだが、意識して見ていると最近は時折口元が緩んで優しい目を蝶子に向けてくれるのだ。
「体を動かすので、掃除や洗濯は得意にございます。なれど一番得意なのは、木登りや馬に乗ることでございます」

 これまで抱いていた桔梗の印象とあまりにかけ離れた告白に、蝶子はまじまじと侍女の顔を見つめた。そんな蝶子の様子が面白かったのだろうか。珍しく桔梗がくすりと笑った。
「幼い頃からお屋形様や虎之新様たちとお会いする機会が多かったのでございますが、気づけば年少のわたくしは放って行かれておりまして。 皆様について行く為に必死で追いかけておりましたら、いつのまにやらお転婆な女子になっておりました」
「わたくしも兄やその従者を追いかけておりましたが、動きが鈍くていつも置いてけぼりでしたわ」
 彼女は虎之新たちと言ったが、そこには許婚であった竜之新も含まれているのだろう。だから自然と、蝶子も兄との思い出を口にしていた。 いつも茜子とふたりで兄と守之介について回っていたが、年の離れた男子は幼い女子と遊ぶのは物足りないようですぐにふたりを置いて行ってしまう。 そして木の上や川の向こうなど、蝶子には到底行くことのできない場所から得意気に手を振ってくるのだ。 己が見ることのできない景色を眺めている兄たちを羨望の眼差しで見つめていると、たまに抱き上げて同じ景色を見せてくれるのだった。

 蝶子はそこで、兄がこの世を去ってからはじめて穏やかな気持ちで兄のことを振り返ることができたことに気づく。そしてそのことに、蝶子は微かな驚きを感じていた。
「桔梗とは、幼少の頃の思い出が少し似ているのやも知れませぬ……」
 やがて蝶子は、誰にともなくそう呟いた。身内と許婚という違いはあれど、大切な人を戦のせいで亡くしたことに変わりない。 ふたりとも似たような幼少期を過ごし、唐突な別れを体験した。 たくさん悲しんで憎んできたけれど、最近は少しずつ前を向けるようになった。だから桔梗もそうであって欲しいと、蝶子は切にそう願った。
 侍女は表情を変えることなく、ただ黙って空になった主の湯呑みに茶を注ぎ足してくれた。

 冬の午後は穏やかな時間が流れている。時折庭に吹く風が、かさかさと地面に落ちた葉を舞い上げて乾いた音をたてていた。
「ねえ桔梗」
 染乃では口にしたことのない家族の話をすれば、急激に望郷の念が湧き起こる。 針を運ぶことで忘れようとしていた怖れが再び蝶子の胸を占拠しつつあり、ついに蝶子は侍女に不安を打ち明けた。
「穂積の侍女から文が届いたの」
「文?」
「父上が臥せっているので、義兄の婚儀の折に里帰りできないかと」
 病などではなく疲れが出ているだけなので、蝶子の顔を見れば元気を取り戻すのではないかと茜子の文にはそう書かれていた。 隣国であるので穂積までさほど日数はかからないが、一度嫁いだならばそう安易には里に帰ることはない。 茜子とてそれは分かっている筈なのに、敢えてそのような文を寄越すのは父の容態が余程深刻なのだろうか。 それとも何か政治的な思惑が働いて人質である蝶子を呼び戻そうとしているのだろうか。 どちらにせよあまり良い事態とは言えず、蝶子は文を読んだ昨晩からずっと不安を感じているのであった。

「本当にご容態が悪ければ、逆にご心配をかけぬよう奥方様の耳にお入れしないようになされるのではございませんか?  次期当主であらせられる栄進様のご婚儀がございますので、お里帰りに良い機会だとお考えになられたのでございましょう」
 穂積からの文と聞いて一瞬眉を寄せた桔梗だったが、すぐに冷静にそう分析をした。確かにそれは一理あるので、蝶子はその考えにすがる思いで小さく頷いた。
「お屋形様にお願いをされてみてはいかがでございましょう? もしかすると、既に手筈を整えておられるやも知れませぬ」
「明日の晩にお戻りになられるそうなので、機会がございましたらお伺いしてみます」
 きっと既に文の内容は把握している筈で、桔梗の言うとおりであれば良いなと願いながら蝶子はようやく笑みを浮かべた。
「機会がなくとも、お時間をいただきましょう。奥方様の願いならば、お屋形様もきっと聞き届けて下さいます」
「でも、お忙しいようですからお時間をいただくのは……」
「明日にお戻りになると告げて行かれたのは、明日に会いに来られるということにございましょう」
 桔梗の言葉に及び腰になった蝶子の笑みは、いつしか困惑が混ざり始めていた。

「明日のお戻りに関しては、直接伺ったわけではないのです」
「では、文はどなたからお受け取りになられたのでございますか?」
「露乃が持って来てくれました」
 桔梗が蝶子付きの侍女として身の回りの世話をしてくれているが、他にも何人か補佐的な役割で顔を合わせることがある。 露乃もそのひとりで、蝶子が堕胎の薬を雲雀に持たせて騒動になった時に、一時的に桔梗に代わって付いてくれていたのも彼女であった。 だから露乃が文を預かって来た際もさして何も思わなかったのだが、桔梗はどこか不機嫌そうな表情を見せていた。
「火急の用で出かけられたそうですが、その際たまたま近くに控えていた露乃にこの文を託されたとのこと。用向きは存じませぬが、余程お急ぎだったのでございましょう」
 桔梗の表情の変化に戸惑いながら、蝶子はそう補足した。伊織も露乃も、別に何も悪くない。 夫とどう向き合えば良いのか混乱している蝶子としては、むしろ伊織に会えない時間があるのは気持ちを整理するのに好都合であった。
「さて、もう少し頑張ろうかしら」
 物言いたげな桔梗の様子に気づかぬふりをして、蝶子は再び針を手にした。 静かに針を運びながら己の心と向き合い、この着物が仕上がった時には夫と向き合って話をしたいとそう思っていた。



 冬の日暮れは早い。つい先日までは日が高かったこの時間も、今は夕暮れが迫っている。 裁縫をしている主の為に早めに火を灯してやらねばと、桔梗は下げてきた湯飲みや急須を手早く片づけていた。
「桔梗様」
 不意に背後から遠慮がちに声をかけられる。振り返ると、まだ年若い侍女のひとりが救いを求めるように桔梗を見上げていた。
「どうしたのですか?」
 何か大きな失敗でもしでかしたのだろうか。動揺を見せる少女を落ち着かせる為、桔梗は努めて優しい声で問いかけた。
「あの、奥方様は……」
「奥方様がどうされたのですか?」
 主がどうしたというのだろう。訝しげに小首を傾けた桔梗は、そこでこの場に居る者たちが皆こちらに注視しているということに気がついた。 あからさまではないものの、明らかに桔梗と少女の会話を意識している。一体何があったのだろうか。不審に思いながら目の前の少女が言葉を発するのを根気強く待った。
 やがて消え入るような声で真偽を問われたその内容に、桔梗は衝撃を受けた。

 


2015/10/17 


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