その日は急激に気温が下がり、この冬はじめて朝霜がおりていた。陽のあたらない奥の廊下は底冷えがし、城内の者たちも寒さのせいで自然と足取りが速くなっている。
「桔梗」
城主の正室付きの侍女も例に漏れず、小走りで主の部屋に向かっていると、背後から低い声で名を呼ばれた。
「お屋形様」
「すまぬが、これを姫に渡してくれ」
短くそう告げると、懐から書状のようなものを取り出した。
「……」
「穂積国からの文だ」
黙って見つめたままの侍女のことを、内容を訝しんでいると思ったのだろうか。伊織はそう付け足した。
けれども桔梗がなかなか文を受け取らないのは、そのような理由ではなかった。そもそも桔梗の主は敵国から嫁いで来た姫だ。
彼女が出す文も、受け取る文も、誰かが目を通しているであろうことは想像に難くない。だから蝶子の手元に渡る文を、そもそも侍女が訝しむ必要はないのだ。
「恐れながら、お屋形様がご自身でお渡しくだされば奥方様もお喜びになられると存じます」
静かにそう言うと、桔梗はそっと頭を下げた。
先日、桔梗が主とともに野分で荒れた庭を片付けていた折に、ふと伊織が訪れた。驚く蝶子を尻目に花の苗を奪うと、伊織は手際良くそれらを妻の庭に植えてしまった。
桔梗はふたりが手を洗う為の水を汲みにその場を離れたのだが、戸惑いながらも蝶子は喜んでいるように見受けられた。
そして同じ日の夜に大切な話があると再び蝶子の部屋を伊織が訪れ、けれどもそれ以来、夫は妻の元へやって来ることはなかったのだ。
「……そうは思えぬが、私から手渡すことにしよう」
侍女の意見を、当主はあっさりと受け入れた。
けれどもそれは、蝶子が喜ぶという桔梗の言葉に納得したわけでなく、このままでは良くないと、現状を打破しようとする覚悟のように見えた。
「ひとつ、お伺いしてもよろしゅうございますか?」
「何だ」
伊織が妻を遠ざける理由は何となく想像はついているが、ここまで己の気持ちを押し込める意味が桔梗には分からない。
傍に仕える侍女の目から見て、伊織は蝶子を愛しく思っているようにしか見えないのだ。
「奥方様付きの侍女にわたくしをご指名下さったのは、何故でございますか?」
予想しない質問だったのだろうか。伊織は微かに瞠目すると、やがて大きく息を吐いた。
「そなたなら敵国の姫という事実に拘らず、姫自身の人柄を見て仕えてくれると思うたのだ」
「え?」
「婚約者を失ったそなたに、恨み続けることをして欲しくはなかった。私も親の代から争ってきた穂積を憎んでいたが、直接穂積の人間と話をして尊敬の念を抱くようになった。
恨みが生み出すのは新たな憎しみだけ。私は負の連鎖を断ち切り、桔梗にも前を向いて欲しかったのだ」
婚儀の前に大切なお役目を果たして来る。そう告げて出かけた許婚の竜之新は、生きて帰って来ることはなかった。
詳細は分からずとも穂積国が絡んでいることは明白で、敵を討ちたいと寝ても覚めてもそればかり考えていた。憧れの人だった。
小さな頃からこの人の妻になりたいと願っていて、婚約の話が出た時は夢を見ているようだった。
当時、それまで仕えていた前当主の正室である雪寿尼が仏門に入ったのと己の婚儀が重なったことを機に、桔梗は侍女の役を辞したところであった。
本当ならば、夫に尽くす幸せな暮らしが待っている筈であったのに。桔梗は自室に引き籠もったまま、自分と竜之新を不幸に追いやった穂積国をただ恨み続けた。
そのような陰鬱な日々が一年以上も続いたある日、伊織より城へ戻るよう唐突に命が下った。よりによって、近々伊織が正室に迎える穂積の姫に仕える為だという。
夫となる人を失ったのに、これ以上何の罰を受けろというのか。激しい憤りを感じ、ひとり悔し涙を流した桔梗だが、それでも当主に抗う術はない。
己の感情を殺し、侍女として淡々と主である蝶子に仕えてきた。
けれど、それは桔梗の為だったと伊織は言う。混乱した桔梗は言葉を失い、ただ黙って立ち尽くしていた。
「今こうして桔梗は姫を気遣って私に意見してくれているのだから、私の人選は間違ってはいなかったということだな」
穂積の人間は己の手で殺してやりたいくらいに憎かった。けれども、穂積の姫は少しずつ敵国である染乃に馴染もうと努力していた。
慎ましやかな食事に文句を言うわけでなく、桔梗の妹である雲雀に愛情を注いでくれる。
そして野分の際には、家臣らの過信と慢心で多くの犠牲を払うところであったが海千山千の男共を前に己の意見を貫き通し、ついには村人たちの為に城の蔵を解放してしまったのだ。
華奢な少女が古狸のような老中らに対して凛と立ち向かい、己の兄の敵である染乃の民を守ろうとしてくれる。その姿に、心を動かされぬ筈がない。
それまで自室に籠もりがちで単なる人質だと思われていた穂積の姫が、多くの侍女や小姓らに蒼山家の正室として認められた瞬間であった。
蝶子自身にも思うところがあったのだろう。野分が去ったあとは積極的に被害にあった村を訪れ、染乃の主産業である藍染に関しても学ぼうと何度も職人の元に通っていた。
そんな穂積の姫の傍で仕えながら、憎しみの念を抱き続けることができようか。いつしか桔梗の心に渦巻いていたどす黒い憎悪の念は、静かな哀しみに変わっていった。
愛しい人を亡くした傷は癒えることはないが、憎しみから解放されてただ純粋に竜之新を想うことができた。
そんな気持ちにさせてくれた主に対し、桔梗は一生尽くそうと密かに心に決めたところであった。
「もったいないお言葉にございます」
何故己がこのような仕打ちを受けねばならぬのかと、心の内で密かに当主を恨んだことは数知れない。
けれども伊織は、桔梗が憎しみの呪縛から解き放たれることを願っていたという。確かに蝶子に仕えなければ、今も桔梗は憎しみの念だけを抱いて生きた屍のようになっていただろう。
己の思慮の浅さを恥じ入り、桔梗は当主に対して深く頭を垂れた。
「桔梗には酷なことをしたと思っておる。なれどその身ひとつで敵国へ嫁いで参られる姫に、私が最も信用できる侍女をつけてやりたかったのだ」
――伊織は生まれながら人の上に立つ気質を持っている。
ここぞという時に俺らをその気にさせる言葉を吐いて、こいつの為ならついて行こうと思わせるずるい男なのさ。
不意に桔梗は、亡き許婚の言葉を思い出した。幼い頃から城に詰めていた桔梗は、身分は違えど伊織や竜之新と虎之新の兄弟らと幼馴染のようなものであった。
いつ頃、どのような状況で語られた言葉であったかは覚えていない。その時はそうなのかと軽く頷いただけの言葉に、今は心から深く同意することができた。
きっと竜之新は伊織に魅せられて、彼が導くであろう平和な国を夢見て命を賭したのだろう。
「これからも精一杯、奥方様にお仕えさせていただきます」
道半ばにして手折られた竜之新の想い。それは婚約者であった己が引き継ごうと、桔梗はそう心に誓った。伊織と蝶子ならばきっとこの国を良くしてくれる。
女子である桔梗では竜之新のように当主の右腕にはなることは不可能だが、伊織が大切に想っている蝶子を守ることならばできる。
そう思い至った瞬間、桔梗は久しぶりに気持ちが晴れやかになるのを感じていた。
* * * * * * * * *
「へえ、姫さんの侍女が穂積から文を?」
「ああ。和孝殿が寂しがっておられる故、栄進殿の婚儀の際に里帰りされてはいかがかと。姫を心配させぬ為か言葉を濁していたが、和孝殿の体調が思わしくないことを匂わせておった」
虎之新の問いに対し、伊織は先日穂積国から蝶子宛てに届いた文の内容をかいつまんで説明した。
中身を確認することに対して後ろめたい気持ちがないわけではないが、害がないと断定できないこの状況では致し方ないと心の内で言い訳をする。
蝶子も送り主も、伊織に目を通されているということは織り込み済みだろう。
「して、いかがなされるのですか?」
「参ろうと思う。姫と共に」
小柄な男の問いに対し、伊織はそう短く答えた。
伊織が密談をする際に訪れる丘には、太陽が弱い光を放っていた。空には薄氷のような淡い青が広がり、空気はきんと冷えている。
黙り込んだ男三人の口からは、ただ白い息だけが吐き出された。
「いよいよか」
「機は熟した。そろそろ決着をつけようと思う」
沈黙ののち、いつになく真面目な口調で問いかける虎之新に対して伊織は深く頷いた。そんなふたりの様子を、小柄な男が黙って見つめていた。
「姫さんも連れて行かれるのですか?」
やがて、小柄な男が真っ直ぐに伊織を見つめて尋ねてきた。
「ああ。真実を知れば傷つくであろうが、姫にはそれを受け止められる強さがある」
「その通りにございます。なれど私が聞きたいのは、すべてが決着したのちに伊織様がどうされたいのかということ」
三人の男たちの間を、冷たい風が吹き抜けてゆく。少し先で大人しく休んでいた馬が、ぶるりと鼻を鳴らした。
「姫の望むままに」
伊織は射抜くような男の目を見つめ返すと、穏やかに告げた。
「卑怯な!」
「十の字殿」
思わず気色ばんだ男の肩を虎之新が掴んで低く諌めるも、そのあとに続いたのは煮え切らぬ主を叱責する言葉であった。
「伊織よ、綺麗事を吐くのはいい加減やめろ。姫さんのことが欲しいのだろう? 他人の意見に左右されることなく人物の本質を見ることのできる蝶姫が欲しくて、嫁にまでしたのだろう?
おまえが踏み出せない理由は痛いほど分かるが、姫さんを信じて乗り越える気概を見せろよ」
容赦のない虎之新の物言いに、思わず伊織が苦笑を漏らす。言いたいことをすべて持っていかれたのか、小柄な男は隣で気勢を削がれたような表情を見せていた。
「誤解をするな。私の気持ちは伝える」
そうきっぱりと言い放つ。これまで己の気持ちを押し殺してきた当主の言葉に、やきもきしていた男たちは驚愕の表情を見せた。
「竜を亡くした時、虎は弱さを一切見せなかった。桔梗は哀しみを乗り越え、姫も染乃の為に尽くしてくれている。私もいい加減、覚悟を決めねばならぬだろう」
嫁いで来た頃の蝶子は伊織のことを恐れていた。傍に寄れば強張る体に触れることはできず、恐れさせないようにあまり頻繁には妻の部屋を訪れないようにした。
けれど、時が経つにつれ彼女は怯えた表情を見せることはなくなり、伊織に対する気遣いの言葉をかけてくれるようになる。
微かな喜びを感じていた伊織であったが、同時に、抱き続けている贖罪の念は増していった。
蝶子は兄の命を奪ったのが誰であるかを知らない。
敵国の当主ということで伊織に対して憎しみや恐怖の念を抱いているようであったが、忠孝を斬ったのが伊織本人と知ればどうなるだろうか。
いつか紅野家に返そうと保管していた忠孝の遺髪を渡して詫びなければと思いつつ、少しずつ表情を和らげてくれる蝶子に再び拒絶されることが恐ろしくてなかなか告げられずにいた。
けれども、いつまでも真実を告げないわけにはゆかない。ずっと懸念していた案件が片付けば、洗いざらい彼女に告げよう。
そう覚悟を決めて赴いた浅葱の村から戻った伊織は、蝶子の本当の強さを知ることになる。
野分の被害を受けた領地の復興に奔走しながらも、早く蝶子に真実を告げねばと伊織は焦っていた。染乃の民を守ってくれた蝶子を欺くことは、もはやできなかった。
兄を殺したのが誰であるか、真実を知った蝶子は冷静であった。泣くことも罵ることもなく、じっと伊織の言葉に耳を傾けている。
包み隠さず事実を述べて謝罪をした伊織は、本当はそのあとに蝶子に対して許しを乞いたかった。そして、ずっと押し殺してきた己の想いを彼女に告げたかった。
けれど、それがあまりにも虫が良い話であるということは、伊織自身が痛いほど分かっていた。
魅かれた相手は己が命を奪った男の妹で。互いに苦しむだけだと分かっていながらも彼女が欲しくて、和平の為だと政略結婚にかこつけて妻にした。
案の定苦しくて、けれども手放せなくて。蝶子に辛い思いをさせているのは分かっていながら、中途半端な扱いしかできなかった。
けれども、いい加減けじめをつけよう。許嫁を失い悲しみにくれていた桔梗はいつの間にか生気を取り戻し、自室に籠りがちだった蝶子は積極的に染乃のことを知ろうとしてくれている。
皆変わろうとしているのに、自分だけがいつまでも同じ場所でうじうじと踏みとどまってはいられない。
二日前にひとり鏡泉山に赴いた伊織は、忠孝を斬った場所で、蝶子に己の想いを告げると心に決めた。
兄の敵に想われていると知れば、蝶子は更に苦しむことになるだろう。それを承知の上で己の気持ちを告げ、彼女が穂積に戻ることを望めば潔く引く覚悟を決めている。
蝶子との政略結婚が解消されたとて両国の和平を保てるくらいには、伊織は既に様々な根回しを済ませていたのだった。