「栄進の婚儀が終わったら、わしは隠居しようと思う」
穂積国の当主である紅野和孝がまるでひとりごとのようにそう呟いたのは、木枯らしが吹き始めた頃であった。
「お屋形様、やはりお加減がよろしくないのでございますか?」
手のつけられていない膳を片づけてようとしていた女は手を止め、気遣わしげに声をかけた。娘である蝶子を嫁がせて以来、和孝は目に見えて弱っていた。
医者の見立てでは心労とのことであったが、季節が巡っても一向に回復せず、床に臥せっている時間は増すばかりである。
女が食事と一緒に用意する薬湯も殆ど口にせず、最近では養子の栄進に政務を任せきりだ。
口さがのない者は、心の弱い当主は不要だから早く栄進に家督を譲ってしまえと言い出し始め、自室に籠ってばかりの和孝への批判は今やごまかしきれないくらいに高まっていた。
男が女を夜這うには、新月の頃が良い。
以前は頻繁に女の部屋を訪れていた男だが、今は容易に姿を隠せる新月の頃にだけ女の元を訪れていた。
女はそれを薄情だとは思わない。むしろ切り捨てられて当然なのに、今も己を求めてくれることに密やかな喜びを感じていた。本当は、自分の方から離れなければならない。
男の立場を考えるとそうすべきであることは痛いほどよく分かっているのだが、その肌の温もりを知ってしまった今、もはや女の方から今の状況を手放すことはできなかった。
日蔭の女で良い。求めてくれるうちは抱かれたいと、女は夜ごと月を眺めながら新月を待ちわびていた。
「ほう、お屋形様がそのようなことを……」
闇夜に紛れて久方ぶりに女の部屋を訪れた男は、出された茶をすするとそう呟いた。
「戦が終わり、ご自身のお役目を終えられたと感じておられるのやも知れませぬが、お心が弱られたようで心配にございます」
昼間の和孝とのやりとりを説明した女に対し、男は眉を寄せるとそのまま押し黙ってしまった。
常に当主のことを第一に考えている男がその言葉を聞いて、どれほど憂いているだろうか。女はそっと想い人の手に触れた。
「お心をお慰めすることができる何かがあれば、再び活力を取り戻して下さると思うのだが……」
女の気遣いが通じたのだろうか。男は添えられた手を優しく握り返すと、そう思案を始めた。
「蝶姫様にお見舞いにお越しいただくのはいかがでしょう?」
当主が喜ぶことは何か。色々と考えを巡らせていると、女ははたと思いついた。愛娘を敵国に嫁がせたことが、そもそも塞ぎ込むことになったきっかけだ。
ならば蝶子を里帰りさせて元気な姿を見せれば、和孝の気持ちは少しは晴れるのではないだろうか。
「それは良い。年明けの婚儀に招くという名目ならば、蒼山殿の許しも得られやすいだろう」
紅野家の養子である栄進と武藤家の薫子との婚儀は年が明けてすぐに執り行われることが決まっており、蒼山家からも既に婚約に際しての祝いの品が届いている。
男の口から婚儀という言葉を聞いて、女の表情に一瞬だけ寂しげな影が走った。
「鬼である蒼山伊織がおいそれと許すかは分かりませぬが、蝶姫様からお願いして下されば叶うやも知れませぬ。早速、姫様に文を差し上げようと存じます」
「助かる。だがくれぐれも、不用意に姫の不安を煽ってはならぬぞ」
「承知しております。万一お里帰りが叶わなかった時、ひとり敵国で心を痛めることになる姫様がお気の毒でございます故」
女がそう答えると男は満足げに頷いて、握った手と反対の手で髪を撫ぜた。
はじめて出会った時から魅かれていた。美しい顔も、刀や弓を持つとは思えないほど繊細な指も、優しい声音も、男のすべてが瞬く間に女を虜にしたのだ。
だからと言って、己を見て欲しいなど願ったことは一度もない。自分は一介の侍女。容姿も身分も釣り合わないことは、誰に言われるまでもなく重々承知していた。
それなのに何故か男が気にかけてくれて、言葉を交わす機会が増え、いつしか愛し合うようになっていた。
人間とは欲深いもので、一度幸せを知ってしまうとより深く、より多くを求めてしまう。
最初は姿を見かけただけで満足だったのに、ずっと傍にいたいと身の程知らずな願いを抱いてしまうのだ。
あと何度、口づけを交わせるだろう。あと何度、肌を重ねることができるだろう。今宵が最後の逢瀬だと、女はいつも覚悟をしながら男を迎えていた。
そう遠くない未来、この関係は終わるだろう。聡い女は揺るぎない現実を理解していたが、己の気持ちを終わらせることは決してできないだろうということもまた知っていた。
だから、男が望むことは何でもしよう。男の幸せの為ならば何も厭わないと、女は固く心に誓っていた。
「そなたを私のものにしたい……」
女の覚悟を知ってか知らずか、不意に男が呟いた。叶わぬ願いを口にした男の囁きは残酷で、そして強烈に甘美であった。
「茜子は、ずっと鬼灯様のものにございます」
そう告げた刹那、女の唇は激しく男に奪われた。
* * * * * * * * *
「よう姫さん、このようなところで寒くはござらぬか?」
蝶子がすっかり紅葉が散ってしまった庭園を眺めていると、大きな足音とともにそう背後から声をかけられた。
「河合殿」
「すっかり葉が落ちてしまったなあ……」
いつも忙しそうにしている虎之新だが、今日は時間があるのだろうか。そう呟くと、どかりと蝶子の隣に腰を下ろした。
「いつぞやに河合殿が美しいと申しておられたので、紅葉を眺めておりました」
「へ、俺が?」
「ええ。秋になれば、この庭園の紅葉は燃えるように紅く染まるので見るようにと。でも、さすがにもう今年は見おさめですね」
夏の暑さで蝶子が体調を崩した折に、秋の染乃は美しいのだと教えてくれたのは夫の右腕である虎之新であった。
言った本人は覚えていないのか驚いた表情をしているが、密かに楽しみにしていた蝶子はもう何度かこの場所で秋の景色を楽しんでいた。
もはやすべての葉は落ちてしまい、庭園に敷き詰められた砂利の上には真っ赤な紅葉の葉が散らばっている。
露に濡れた葉の真紅は少しずつ濃淡が異なり、さながら錦のようであった。
けれど、鮮やかに色づいた葉もやがて土に還る。今日が秋の見おさめだと、蝶子は庭に散った紅葉の葉を眺めていたのだった。
「寒くはござらぬか?」
「はい」
少し肌寒いが、むしろひんやりとした空気が心地良い。
「伊織が回復して、次に姫さんが倒れるというのはなしでござるぞ」
顎鬚を撫でながら虎之新が口にしたその名に、蝶子の肩が微かに跳ねた。
――蝶子の兄である忠孝を殺したのは自分だ。
あの夜、夫からそう告白された蝶子は結局何も言えなかった。最後まで許しを請わなかった伊織は、兄の遺髪を蝶子に託した。
ずっと渡したかったけれどなかなか切り出す勇気が持てなかったと、頭を下げてそう詫びた。
そんな夫に対し、蝶子はかける言葉を見つけることができず、ただ黙って兄の遺髪を受け取った。
敵国だったのだから仕方がない。戦乱の世なので仕方がない。そんな薄っぺらい言葉をかける気にはなれなかった。
仕方がないといって奪われても良い命などひとつも存在しないということは、誰よりも伊織が知っている。
一方で、責める言葉も浮かばなかった。穂積にいた頃は兄の命を奪った鬼だと恨み続け、父に対して何故討たぬのかと問うたこともあった。
けれども言い訳もせず罪を背負っている姿に、詰る言葉を投げかけることなどできようもない。
そして何よりも恐ろしいことに、伊織の話を最後まで聞いた蝶子が抱いた感想は、良かったということなのである。
話の流れの中で、もしや兄が染乃国を謀ったのかと不安に感じながら耳を傾けていたのだが、どうやらそうではなかったことを知って蝶子は心底安堵した。
もしも穂積国が裏切っていたとすれば、染乃での己の立場がない。
一気に様々なことを知らされて衝撃を受けながらも、己の保身について頭をかすめ、そんな自分の身勝手さに蝶子は愕然とした。
受け入れることも許すことも責めることもできず、ただ蝶子は残酷な現実と己の醜さだけを突きつけられて、呆然と立ち竦むしかなかったのだ。
「姫さんがこの城へ参られたのは、夏前でござったなあ。季節が巡るのは早いことよ」
梅雨が明けると同時に嫁いで来たので、年を越せば半年が過ぎたことになる。虎之新の呟きに、蝶子は黙って頷いた。
「この半年で、わたくしは己が世間知らずの姫であったことを知りました」
国を治めることの大変さや、自然の恐ろしさ。両親や兄に守られて花の中で生きてきた蝶子は、頭では分かっているつもりでも、本当のところで全然理解していなかった。
染乃に来て以来、何よりも蝶子はそのことを痛感していた。
「そりゃあ姫さんはまだお若いので、知らぬことが多いのは仕方のないこと。なれど既に、多くのことを学ばれたであろう?」
「そうですね。染乃で多くのことを教えてもらいました」
染乃の主産業である藍染については藍師や紺屋から学んでいる最中で、城内のことも少しずつ侍女頭に尋ねるようにしている。
何よりも、これまでは穂積国の立場でしか物事を見ることができていなかったが、染乃にも考えがあり、己の考えが偏ったものであることを少しずつ気づくことができたのだ。
「なれど、わたくしにはまだ知るべきことがあると思うのでございます」
そう言うと、蝶子は日に焼けた虎之新の顔をじっと見つめた。
伊織から告白を受けて以来、蝶子は真実を知りたいと思っていた。忠孝の妹として、伊織の妻として。真実を知らねばならぬと感じていた。
けれども伊織の説明は当然ながら彼の視点であり、不明な点が多すぎた。
最も良いのは穂積側の話を聞くことだが、あの時生き残ったのは守之介だけであり、当人は不慮の事故で既にこの世を去っている。
守之介から兄の最期に関してきちんと聞いておけば良かった。あの時は染乃憎しの感情だけで真実を知ろうともしなかったのだが、今更後悔しても遅い。
だから今はもう、伊織と行動を共にしていた染乃の人間に尋ねるしかないのだ。
「姫さん?」
黙り込んでしまった蝶子を気遣うように、虎之新がそっと顔を覗き込んできた。
「あ、あの……、お屋形様が一晩で回復なされてようございました」
やはり聞けない。蝶子は咄嗟に話題を変えた。虎之新と顔を合わせる機会があれば尋ねてみようと思っていたのだが、いざ本人を前にすると口にすることはできなかった。
いくら戦場の苛酷な状況に慣れているとはいえ、実兄が殺された状況を説明しろなどとは、同じく兄を亡くした蝶子には決して言えなかった。
「それは姫さんが懸命に看病されたからであろう」
そう言うと、虎之新は垂れ目を細めて笑った。蝶子が不自然に話題を逸らしたことにきっと気づいている筈だが、何もなかったように振る舞ってくれる優しさがありがたかった。
「わたくしは何も……」
蝶子はただ傍にいただけで、別に大したことはしていない。
回復が早かったのは伊織が日頃から鍛えているせいであって、あまり大袈裟にして欲しくない蝶子は困ったような笑みを浮かべたまま黙っていた。
「あやつは回復したらもう、己が倒れたことを忘れておる。ここはやはり、姫さんの看病があってこそというのを知らしめて、無理をするのをやめさせねばならぬな」
「河合殿、それは」
虎之新の言葉に、蝶子は慌てて口を挟んだ。伊織に無理はして欲しくないが、蝶子が勝手に世話をしていたことは知られたくない。
心の内で瑠璃を求めていた夫に、傍にいたのが蝶子だと知って落胆されたくはなかった。
「実はあの時、藤殿が姫さんについてもらおうと申されておったのだ」
「え?」
相変わらずのんびりと話す虎之新に、蝶子は思わず問い返した。あの日、伊織が倒れたことは正室である蝶子の耳には入っていなかった。
それを蝶子に知らせたのは、他でもない瑠璃である。
「俺も名案だと賛成したのだが、当の伊織に反対されてなあ」
「……」
庭に風が吹き抜け、色づいた草木がかさかさと乾いた音をたてた。
「姫さんに伝染したくないんだと」
そう言うと、虎之新は呆れを滲ませながら笑った。
「わたくし、に?」
「優しく看病してもらえと、藤殿とふたりで散々説得したのだが、病人のくせに頑なでなあ。
恐らく姫さんに情けない姿を見せたくないのだと俺は踏んでいるのだが、伝染したくないと正論を吐かれてはこちらが折れねばならぬ。
俺たちは渋々、姫さんに知らせることを諦めたのだ」
きっとそれだけが理由ではないと思うけれど、優しい夫が蝶子に伝染したくないと思ったのは嘘ではないだろう。
桔梗からも、蝶子に心配をかけぬ為に知らされなかったと聞いてはいたが、ただの慰めだろうと少し卑屈になっていた。
けれど、藤も虎之新も蝶子に知らせようとしてくれていたと知り、正室としてないがしろにされたわけではないのだと少し心が軽くなった。
「おかげで俺は、とんだとばっちりをくらったものよ」
瑠璃の刺々しい言葉で傷ついた心が癒えてくるのを感じていた蝶子の隣で、虎之新は溜息を吐く。何のことかと見つめる蝶子に対して、大袈裟に顔をしかめながら言った。
「正室である姫さんに何故知らせなかったのかと、鬼の形相で桔梗が詰め寄って来たのだ」
予想もしない虎之新の言葉に目を丸くすると、蝶子はくっと声を漏らした。はしたないと思いながらも堪え切れず、とうとう肩を揺らしながら笑い始めた。
「笑いごとではござらぬぞ。俺も戦場では何度か死線をくぐって参ったが、あの時ほど恐ろしい思いをしたことはござらぬ」
「‘蒼い虎’の異名を持つ虎之新様に恐怖を感じていただけたとすれば、光栄にございます」
くつくつと笑う蝶子の背後で、ひんやりとした声が響く。初冬の空気よりも冷たい気配が周囲を支配した。
「おお、これはこれは桔梗殿」
振り返ると、侍女である桔梗が立っていた。その冷やかな表情に動じることなく、虎之新がにこやかに話しかける。
けれども桔梗は彼の存在を無視して蝶子に近づくと、手にしていたものを差し出した。
「上掛けにございます。冷えて参りましたので、お召しになってくださいませ」
「あ、ありがとう」
言葉を失っていた蝶子だが、差し出された上掛けを羽織って何とか礼を言う。その隙に、そそくさと虎之新が立ち上がった。
「では姫さん、俺はこれで失礼いたす」
呆気にとられている蝶子を残し、虎之新は颯爽と立ち去って行った。
「何と逃げ足の速い……」
蝶子の隣でぶつぶつとこぼしている侍女に、再び蝶子は吹き出した。
「染乃の人たちは優しいわね」
「え?」
蝶子がしみじみ呟くと、不思議そうな表情で桔梗が見つめてきた。相変わらず無表情ではあるが、桔梗が変わったのか蝶子が見慣れたのか、最近は表情の変化が分かるようになってきた。
以前はあまり蝶子に関わろうとしなかった桔梗だが、このように世話を焼くことが増えてきている。
伊織が倒れたと瑠璃から知らされて即座に虎之新の元へ行ったのは聞いていたが、まさか蝶子の為に怒ってくれていたとは知らなかった。
その優しさが、故郷で幼い頃から付いてくれていた茜子を彷彿とさせて蝶子の胸に温かいものが広がった。
「奥方様が染乃を褒めてくださるのは嬉しいですが、虎之新様は違いますので」
どうやら虎之新の物言いが余程気に入らなかったのだろう。年頃の娘を鬼の形相と評すれば、怒って当然ではあるのだが。
「桔梗も河合殿も、皆優しいです」
きっと虎之新は、蝶子の様子から深刻な何かを察知したのだろう。だからあのように、わざと茶化して蝶子の気持ちを和ませてくれたのだ。
まだ納得がゆかぬ顔をしている桔梗に対してくすりと笑うと、蝶子は侍女の名を呼んだ。
「ねえ桔梗、優しいそなたにお願いがあるのです」
「どのようなことでございましょう?」
これまで何かを頼むということをしなかった主に、侍女は戸惑いながら問い返した。
「藤殿と、もう一度お会いしとうございます」