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の居る場所



 野分の章  捌


 初冬の夜は静かだ。
 つい先日まで美しい鳴き声を聞かせていた秋の虫たちは知らぬ間に消え去り、今はただ、白い月が闇を照らすだけであった。


「寒くはないか?」
「いえ」
 宣言どおり夜に再び蝶子の部屋を訪れた伊織であったが、向かい合って座るも口を噤んだままだ。やがて、ようやく発したのは妻を気遣う言葉であった。 夜は確かに冷えるのだが、今は緊張のせいか蝶子は一向に寒さを感じない。短く否と答えてしまえば、人払いをした室内には再び静寂だけが広がった。
 今、蝶子が伊織の為にできることは彼の言葉を待つことであり、そしてその言葉を受け入れることであった。

 ――もしも己の力が及ぶのならば、この婚姻関係をなかったことにしてあげたい。
 思いつめたような夫の表情をそっと見やると、蝶子は心の内でそう願った。 伊織が国を疲弊させる戦を望まないということは、この数カ月の染乃での暮らしの中で蝶子はよく理解していた。 そして穂積国を統べる彼女の父もまた、戦乱が繰り返されることを望んではいない。 両国の領主が求めているのだから、伊織と蝶子の関係が解消されたとしても和平は成立するのではないか。
 ――もしも彼の力が及ぶのならば、この婚姻関係をなかったことにして構わない。
 そうすれば、伊織は瑠璃を蒼山家の正室として迎え入れることができる。あのように何度も夢の中で瑠璃に詫びる必要はない。 その双肩に背負わされている家や国に煩わされることなく、愛する娘をその腕の中に囲うことができるのだ。そして万一それが叶うならば、蝶子は故郷に戻って静かに暮らしたいと願った。 美しい花々に囲まれて時を過ごせば、届かぬ想いを抱いてしまった痛みもいつかは和らぐだろう。心に刺さった棘はまだ、癒すことのできる微かなものに思えた。

 けれどもそれが、決して叶わぬ願いであることを蝶子は知っていた。 時代は混沌とした戦乱の世。ついこの間まで敵同士であった穂積と染乃の二国間で、蝶子という人質の存在なくして和平が成立する筈がないのだ。 いくら領主たちが望まぬとも、人質がいなければすぐに家臣の誰かが攻め入ることを進言するだろう。 いっそ隣国を制圧して侵略の不安を払拭すれば良いと、さも最善の策であるかのように扇動するだろう。 それがどれだけの犠牲を伴うかも顧みず、危うい思想はやがて城内で信者を増やしてゆく。それが戦乱の世の常だ。 己の存在が二国間で抑止力になっていることを、聡い蝶子はきちんと把握していた。
 それが分かっているから、蝶子はこの国で蒼山家の正室としての務めを果たす覚悟を決めた。
 それが分かっているからこそ、蝶子は苦しむ伊織に対しても離縁を言い出すことはできなかった。


「姫に渡さねばならぬものがある」
 やがて覚悟を決めたように、伊織が静かに口を開いた。しんと静まり返った部屋に低く放たれたその言葉は、けれども蝶子が予想していたものと異なった。 瑠璃を召し上げる話ではないのか。話の流れが読めずに夫を見やると、彼は懐に手をやり、半紙に包まれた何かを差し出した。
「こちらは?」
 蝶子の問いに答えるかのようにそっと広げられた半紙の中には、真っ黒な毛髪がひと房あった。とくりと、心の臓が音をたてる。 蝶子は息をするのも忘れ、目の前にある髪の束を凝視した。
「そなたの兄、忠孝殿の遺髪だ」

「ああ……!」
 言葉にならない声をあげ、蝶子は震える指先で兄の髪に触れた。
 出かけたまま幾日も戻らぬ忠孝に、城の誰もが最悪の事態が起きたのだと覚悟を決めた。やがて傷だらけの守之介だけが戻り、彼の話によって兄の死は確定した。 瀕死の守之介は山に住む猟師に助けられたが、目覚めた時には既に忠孝や他の家臣らの遺体は残っていなかったらしい。 恐らく金目の物はすべて賊に奪われ、死体はどこかに捨て置かれたのであろう。 端切れの一枚すら残されていなかった為に、蝶子は兄の死を頭では理解しながらもなかなか受け入れられずにいたのだった。
「兄上」
 そう呟いて、優しく撫でる。この世に兄はいないのだと、改めて蝶子は実感した。

「忠孝殿とは、二度会うた」
 妻が実兄の遺髪に触れる様子を黙って眺めていた伊織だが、やがておもむろに口を開いた。
「休戦中に突然、忠孝殿がひとりだけ供を連れて現れた」
「え?」
 伊織と忠孝が二度も会っていたことに驚いたが、何よりも自ら敵地に乗り込む無鉄砲さに蝶子は我が兄ながら呆れてしまった。
「私は戦の被害がひどかった村を訪れていたのだが、間者によってその行動を把握していたのだろう。突然現れた忠孝殿は自分の身分を明かすと、私に和解を持ちかけてきたのだ」
 どのように蝶子に告げようかずっと考えていたのだろう。淡々と語る伊織の言葉に淀みはなかった。 けれども夫の目が湛える色は複雑すぎて、そこに映っているものが後悔なのか哀しみなのか、それとも別の感情であるのか。蝶子には推し量ることすらできなかった。
「私もずっと和解案を模索していた。もとは鏡泉山にある泉の治水権によるいざこざから起こったこと。 藍を育て、藍を染めるに必要な水を確保できるのならば、それ以上は何も望むつもりはない。 しかしながら当時父が急逝して半人前のまま当主の座に就いたばかりで、和解を望んではいたものの、家臣らの意見をまとめるだけの統率力を私は持ち合わせていなかったのだ」
 これ以上、無駄な争いによって民を苦しめたくはない。それだけを願って危険を顧みず敵国の領主に会いに来た忠孝に、伊織は敵わないと悟ったのだという。そうぽつりと呟いた。
「己は口先だけの男だと、自己嫌悪に陥った。 目の前にいるこの人物は、不可能だと決めつける前に行動に起こしているというのに、私は頭の固い家臣たちのせいにして本気で民を幸せにすることを考えていなかったのだ」

 国を統べることが、どれだけ大変なことか。民の生活を担うことに、どれだけの重圧を感じるのか。
 穂積を住み良い国にするのだと熱く語っていた兄の覚悟と、海千山千の家臣たちの前に思うようにゆかなかった夫の自責の念と。 双方の想いに触れた蝶子は、容易に言葉を発することができなかった。
「僅かな時間であったが腹を割って話をし、私はこの男を信じようと決めた。忠孝殿の提案を受け入れる為に、力の限りを尽くそうと決意したのだ」
「兄の、提案とは……?」
 それまで黙って夫の告白に耳を傾けていた蝶子だが、はじめて質問を口にする。伊織はじっと蝶子を見つめると、低く告げた。
「姫、そなたを貰い受けることだ」

 やはり。伊織の答に、蝶子は心の内でそう呟いた。
 ――国を守る為ならば、蝶子、おまえのことも容赦なく利用するぞ。
 かつて戦で困窮した村が反乱を起こし、それを制圧したあとで兄は妹にそう宣言した。きっとあの時、兄は村人たちが追い詰められていると感じたのだろう。 平穏な暮らしを取り戻す為、染乃と手を組まねばならぬと心に誓ったのだろう。そしてその証として、伊織に蝶子を嫁がせることを提案したのだ。

 対座するふたりの間に沈黙が流れる。やがて、搾り出すように伊織が声を発した。
「姫には、申し訳ないと思っている」
「おやめくださいまし」
 夫の謝罪の言葉に、蝶子はきっぱりとそう言い放った。確かに、蝶子にとって不本意な結婚であった。兄に告げられた時には了承したくせに、いざ嫁ぐとなれば決断した父を随分と恨んだ。 けれども不本意であったのは伊織とて同じだ。瑠璃という存在がいながら、蝶子を正室として迎えねばならなかったのだから。
「確かに、敵国であった染乃へ嫁ぐことに不安を感じておりました。わたくしは未熟な人間にございます。 穂積の為だと理解はしておりましても、お屋形様や兄のように己の人生を賭する覚悟はなかなかつきませんでした」
 誰も何も言わないのを良いことに、蝶子は正室の務めを果たそうとはしなかった。 嫁いで来た当初は瑠璃の存在を知らなかったが、伊織には心に決めた人がいることは察せられて、だから側室になるかも知れないその女性に遠慮していたというのは確かにある。 けれども、最初からきちんと務めを果たしていれば、あの野分の際にもう少し役に立ったのではないかという後悔もあった。
「なれど、今は違います。桔梗をはじめ侍女らは良くしてくれておりますし、雪寿尼様には本当に親切にしていただいております。 何よりも、お屋形様がどれだけ民の為に尽力されておられるかを垣間見ることができ、この国に嫁いで来られて良かったと今は感謝しているのでございます」
 結婚当初は色々と思うところはあったけれど、最近はようやく己の居場所を見つけられたような気がする。それがどれだけ嬉しいことか、蝶子は夫に伝えたかった。 伊織への気持ちを自覚したせいで辛くはあるが、それは蝶子自身の問題だ。 嫁いだ相手が尊敬できる男性であることがどれだけ女子にとって重要であるか、それを夫に分かって欲しかった。
「だから二度と、そのように謝らないで下さいませ」

 どう説明すれば伝わるだろうか。兄の敵だと憎んでいた人を、穂積の敵だと恐れていたその人を、もはや恨んではいないことを。 蝶子は頭を垂れる夫を前に、必死で言葉を探した。
 穂積側からすれば伊織は加害者であるが、染乃からすれば蝶子たちが加害者になる。そんな当たり前のことに気づいたのは、染乃に嫁いで来てからだ。 穂積の人間に兄を殺された虎之新は、憎み続けるというような気力のいることはできないと言った。その許嫁であった桔梗は、最近は色々と蝶子のことを気遣ってくれている。 敵国での暮らしの中で、負の感情を抱き続けるのではなく前向きに生きねばならぬと、それが残された者の使命であると、少しずつ蝶子は気づき始めたのだ。
「姫、私にそのような優しい言葉をかけないでくれ」
 けれども返ってきたのは、伊織の苦しげな懇願だった。
「わたくしは本当のことを……」
「私にそのような資格はない。そなたの兄を、忠孝殿を斬ったのは私なのだから」


 衝撃のあまり、呼吸を忘れる。目を見開いて伊織を凝視すれば、彼は真っ直ぐに蝶子を見つめ返してきた。
 忠孝は染乃国との交渉に赴き、そこで裏切られて殺された。誰が兄に手をかけたのかは分からぬが、交渉を覆して穂積国の次期領主を亡き者にするなど家臣の一存ではできぬこと。 だからずっと、蝶子は染乃国の領主である伊織を憎み、恐れてきたのだ。
 けれども、家臣が伊織の意に背いて暴走したのかも知れない。そもそも、染乃の人間ではなかったのかも知れない。伊織のことを知るにつれ、いつしか蝶子はそう思うようになっていた。 誰よりも和平を望んでいるその人が、交渉を覆して忠孝を殺すとは思えない。穂積で抱いていた人物像と実際の伊織との乖離が大きすぎて、もはや蝶子は違和感しか感じられずにいた。
 それなのに、伊織自身が兄を殺したと言う。だから許される資格はないのだと、苦痛に満ちた表情でそう告白するのだ。
「真実を、教えて下さいませ」
 震える声で、蝶子は乞うた。噂や想像ではなく、事実だけを知りたい。蝶子は兄の死を受け止める覚悟を決めると、居住まいを正して伊織を真っ直ぐに見つめた。

「忠孝殿が交渉の場に指定したのは、鏡泉山の中腹にある廃寺であった」
 蝶子の求めに黙って頷くと、やがて伊織は当時の状況を語り始めた。
「その場所に最初に到着したのは、我らであった。先に遣っていた家臣らによると穂積の一行はまだ到着しておらず、我らは目立たぬようにして忠孝殿の到着を待つことにした」
 もしも交渉が決裂すれば、状況は更に悪化する。万一に備えて和平交渉は極秘裏に行われ、荒れた寺を指定したのも人目を避ける為であったらしい。けれども和解を提案した張本人である忠孝は、一向にその場に姿を現さない。伊織は焦れる気持ちを抑えながら、周辺を見回っている家臣の報告を待っていた。
「約束の日を間違えたか、場所を勘違いしているか。忠孝殿を待つ間、様々な考えが脳裏をよぎった」
 淡々と語る伊織はそこで言葉を区切ると、小さくひとつ息を吐いた。
「もしや、我らは謀られたのではないかと……」

 この男ならば信用できる。敵国の次期当主である男の熱意に動かされ、伊織は不毛な戦いに終止符を打つ決意をした。これまでその判断を下せなかった要因である反対派の家臣たちの反発は必至で、だから彼らに感づかれないように自らが動き、全責任を負う覚悟でこの場所へ赴いた。
 けれども当の忠孝が姿を現さない。微かな不安が、じわじわと焦燥を呼び起こした。もしも穂積側が伊織を騙しているとしたら、その目的は何か。何度考えても答はひとつしか浮かばなかった。
 ――和平交渉という言葉で誘い、染乃国の領主である伊織を亡き者にする。
 戦で苦しむ村を訪れた帰りの道中に現れたのも、紅野家の次期当主が自らやって来たのも。伊織を信用させてこの場所へおびき寄せる為だとすれば、すべては符号する。そう思った瞬間、周辺の捜索に出ていた家臣のひとりが駆け込んで来た。

「敵襲!!!」
 そう短く叫ぶと、その家臣はがくりと膝をついた。見れば腿に矢傷を負い、赤い血が滴り落ちている。廃寺に残っていた家臣らが一瞬で殺気立った。
「待て!」
 今まさに外へ飛び出そうとしている家臣たちを、伊織の鋭い声が制した。状況が分からぬまま飛び出して、これ以上怪我人を増やすわけにはゆかない。 仲間に止血されている男の傍に寄ると、伊織は膝を折って低く尋ねた。
「忠孝の姿は?」
「森の奥より突然矢を放たれた故、敵の姿は確認できませんでした」
 見極めろ。冷静になれ。伊織は心の中で何度も自分に言い聞かせる。今回の交渉に関しては秘密裏に動いている為、今連れているのは腹心ばかりだ。 これ以上、怪我人を出すわけにはゆかなかった。

 虎之新が正面から出た隙に、伊織は床板を破って外に出た。戸の隙間から伺った様子では敵の姿は見えなかったが、囲まれていても不思議はない。 一気に飛び出して一網打尽にされては話にならないので、虎之新や伊織が別の場所から外に出たあとも、ひとりを屋根裏に留まらせていた。 けれども、伊織たちの警戒とは裏腹に寺の外に人影はない。異様な静けさの中で全神経を集中させて周囲をうかがっていたその時、一本の矢が空気を裂くように飛んできた。 刹那、目の前に立ち塞がった人物が流れるような動作でその矢を薙ぎ払った。
「矢じりを」
 伊織が短く命じると、虎之新は己が地面に払い落した矢を広い、黙って主に差し出した。
「どうする?」
「とりあえず、忠孝と話がしたい」
 尋ねてきた家臣に、伊織はそう低く答えた。
 親兄弟も信用できぬと言われるこの時代、伊織とてまったく忠孝の言葉を疑わなかったわけではない。 けれども調べさせた紅野忠孝の特徴は、あの日伊織に熱く平和を語った男の特徴と合致し、何よりもその目に宿る光の強さに彼の言葉を信じようと決めた。なのに本人は一向に姿を現さず、それどころか味方は矢傷を負っている。伊織の脳裏には一瞬撤退も頭をよぎったが、様子を見に行っている家臣がひとり戻らぬこともあり、このまま森の奥へ進むことを決めた。
 あの目の光は偽りだったのか、伊織は何よりもそれが知りたかった。

 いつどこから敵に襲われるか分からない極限の緊張感の中で、一歩ずつ慎重に森へ分け入る。どれ程歩みを進めたか。もはや敵襲はないのではという空気が漂い始めた頃、目の前に生い茂る背丈ほどもある草の向こうから人の気配がした。全員が瞬時に身構えると、がさがさと音を立てて草むらの向こうから人影が現れた。
「大丈夫か!?」
 草をかき分けるようにして倒れ込んできたのは、様子を見に行ったまま戻って来ていない家臣であった。
「いお……り」
 頑丈な体躯を受け止めた掌に、ぬるりとした血の感触が伝わる。傷を負った家臣は全身血まみれであった。
「喋るな!」
 ひと言でも言葉を発すれば息が途絶えてしまうのではないかと思われて、伊織は必死で言葉を遮った。 染乃で随一とも言われる剣の腕を持つ男が、伊織が右腕として頼りにしていた男が、幼い頃から兄と慕った従兄が血みどろになって己の腕の中にいる。
 何故このようなことになった? 混乱する頭の中で自問した。
「ほづ……み……ない」
 伊織の制止を無視し、家臣は荒い呼吸の合間に言葉を絞り出した。最期にそれを告げたかったのだろうか。 意識を失いかけて虚ろな目で必死に焦点を合わせるように伊織を見つめると、やがて静かに瞼を閉じた。
「おい、しっかりしろ!」
 逝くなと必死でその名を叫ぶと、血まみれの体からは力が抜けてずしりと重くなった。穂積はやはり味方にはなりえなかったのだ。 そう結論づけた瞬間、草むらががさりと大きく揺れて野太い声が響いた。
「いたぞ、染乃軍だ!!」
 その声を合図に、刀を構えた男が三人飛び出して来る。けれども、伊織にはその先に佇む男しか見ていなかった。三人の男は家臣らに任せ、伊織は忠孝と対峙する。
「そなたの言葉を信じたのに、残念だ」
「残念に思われる筋合いはない」
 伊織がそう言いながら刀を振り下ろすと、忠孝はそれをいなしながら答えた。勝手に信じたこちらが愚かということか。伊織は間合いをとりながら忠孝を睨みつけた。 戦は民を苦しめるだけだと和平を望む伊織に対し、甘いとか腰ぬけだとか揶揄していた城の者たちの方が正しかったのだろうか。 現に伊織は確証もない敵の言葉を信じ、大切な者の命を失ってしまった。だが……。
「私は死ねぬ!」
 伊織は強く踏み込むと、素早い動きで刀を振り下ろした。たとえ当主の器でなくとも、己が穂積国から染乃の民らを守らねばならぬのだ。 握った刀の柄から、肉を斬り骨を砕く感触が伝わってくる。伊織の眼前に向けられていた切先がゆっくりと落ち、次の瞬間真っ赤な血しぶきが飛んできた。 返り血をそのままに伊織が振り返ると、他の三人も家臣らに斬られ地面に倒れていた。


「私がそなたの兄を斬った。この手で殺めたのだ」
 ゆっくりと右の掌を広げると、伊織は悔いるように視線を落とした。夫の右手が血に濡れているような錯覚を起こし、蝶子はぎゅっと目を瞑る。沈黙ののちにそっと息を吐いて瞼を開けば、そこに見えるのは血に染まった手ではなく、土を掘って水仙を植えてくれた大きな手であった。
「なれどそれは、穂積の者が竜之新殿を斬ったからでございましょう?」
 やがて静かに蝶子は口を開いた。まるで確信しているかのような妻の問いに、伊織は驚いたように目を見開いた。
「竜のことを、知っておられたのか……」
「はい。桔梗の許嫁でいらっしゃったと」
 そうかと小さく呟くと、伊織は黙り込んだ。蝶子にその事実を告げた人物には気づいているのだろう。誰に聞いたのかと質すことはなかった。

「そのような言葉をかけてくれるとは、やはり姫は優しい方だ。けれどもそれは、私が無意識に己を正当化しようとして説明したかであろう。 姫にはきちんと事実を伝えようと決めた筈なのに、我ながら小賢しい……」
 そうひとりごちると、伊織は自嘲気味に笑った。
「竜は私を止めようとしていた。私はそれに気づかず、敵の策略にかかって忠孝殿を斬ったのだ」
「穂積が、兄がお屋形様を謀ったわけではなかったのでございますね!?」
 妹である蝶子には忠孝が誰かを謀るとは到底思えなかったが、伊織の話を聞くうちに不安な気持ちで心はざわついていた。 だからこそ夫の言葉に対して反射的に、まるで兄の無実を念押しするかのように問い返してしまった。
「私は竜の言葉を、‘穂積は味方ではない’と解釈した。けれどもそうではなかったのだ。竜が私に告げたかったのは、‘穂積は敵ではない’ということであった。 私にその事実を教えてくれたのは、事切れた忠孝殿の懐にあった血に濡れた書状だ」
「書状とは……?」
 苦しげに言葉を切った伊織に、蝶子は遠慮がちに尋ねた。
「穂積と染乃が盟約を結ぶという契状だ。細かい内容は読み取れなかったが、忠孝殿の署名と血判はしかと確認できた」
 静まりかえった部屋に伊織の声が低く響く。夫の衝撃的な告白に、蝶子は何も言葉を発することができなかった。

 


2015/08/09 


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