あのお方が幸せになられることを、ずっと密かに願ってきた。
あのお方が何を望み、何を願っているのかを、この世で一番分かっているのはこの私。
だから私は、あのお方の幸せを阻む者を消し去ろう。
あの方が幸せになられるのであれば、私は何も厭わない……。
* * * * * * * * *
「このような所で、誠に申し訳ございません」
「いえ。染乃の大切な財産を、一度この目で見ておきたかったのです」
煩わせてすまないわねと蝶子が詫びると、平身低頭であった男がますます深く頭を下げた。
染乃国に嫁いで来て以来ずっと自室に籠もりがちだった蝶子だが、今日ははじめて自らの意思で外出をしていた。
以前、姑である雪寿尼からすくもを作っている小屋を案内すると言われていたのだが、約束どおり見学に訪ねて来たのだ。
「蝶子さん、匂いは大丈夫かしら?」
「はい」
夏に刈り取って乾燥させた藍葉を積み上げて水を打ち、発酵したものがすくもになる。
寝かせられているすくもは熱をもち、刺激臭を発しながら藍の成分だけを残して分解してゆくのだという。
嗅ぎ慣れぬ匂いが鼻をついたがじきに慣れるだろうと、蝶子は気遣ってくれる姑に対して小さく頷き返した。
「すくもは手のかかる赤子と同じです。熱や匂いを確認しながら、水打ちや切り返しを調整するのでございます」
「そう。手がかかっているからこそ、あのような美しい藍色が生まれるのですね」
藍師の説明に、蝶子は納得したように頷く。隣でそれを聞いていた雪寿尼は微笑すると、ふと思い出したように蝶子に尋ねた。
「そういえば蝶子さん、あの反物はどうするおつもり?」
先日、村人から渡された藍染の反物は、蝶子の部屋の行李の中で眠っている。
この藍師が作ったすくもで染めたものだと聞いていたので、彼の方をちらりと見やりながら蝶子は遠慮がちに白状した。
「受け取ったものの、あのような美しい反物をわたくしが頂いても良いのかと未だに躊躇しておりまする」
「遠慮することはないわ。皆、蝶子さんに差し上げたいと思ったから、わたくしに託してきたのです」
「その通りにございます」
当主の正室である蝶子の訪問に緊張しているのか、終始落ち着きのない藍師であったが、雪寿尼の言葉にはきっぱりと強く同調してきた。
「あれは、私の自信作のすくもを紺屋が見事に染め上げてくれたもの。
穂積国から嫁いで来られた奥方様には馴染みがない色やも知れませぬが、あれが染乃の色故、どうかお受け取り下さいませ」
「そのような立派なもの、売りに出せば高値がつくでしょう。やはりわたくしには勿体ないわ」
戦で村人たちは困窮し、更には先の嵐で被害を受けている。決して楽ではない暮らしに、いくらか足しになるだろう。
藍師たちの心遣いは嬉しいが、彼らの状況を慮ると蝶子はますます躊躇した。
「我らが、どうしても奥方様に差し上げたかったのでございます」
藍師がきっぱりと言い切る。あまりに力強い言葉に、蝶子は驚いて目を瞬いた。
「恐れながら、我々はお屋形様が敵国から奥方様をお迎えになられると聞き、複雑な思いでおりました。
なれど、此度の野分で奥方様が我らをお守り下さったと知り、何とかして感謝の気持ちをお伝えしたいと考えたのでございます」
「わたくしは何もしておりません」
「いいえ、藍畑やすくもよりも我らの命を優先して下さいました」
戸惑う蝶子に、藍師が熱を込めて語りかける。隅の方で黙々と作業をしていた彼の弟子たちも、いつのまにか手を止めて師匠の言葉に耳を傾けていた。
「先程、すくもは赤子と同じだと申しました。我らにとってすくもは、己の命よりも大切なものにございます。なれど、本物の赤子も命より大事なもの。
己の命を落としても、我が子だけは守りたいと思うのが親の心情にございます。あの激しい嵐の日、我らには守りたいものがふたつございました。
けれども両方を守るには、あまりにも雨風が激しすぎたのでございます」
狂ったように唸りをあげていた風の音を思い出しながら、蝶子は藍師の言葉に相槌をうった。
「無慈悲な雨風の前に立ち竦んでいた我らに、救いの手を差し伸べて下さったのが奥方様なのでございます。
川が氾濫しても及ぶ恐れのないお城に我が子を避難させることができるならば、我らは気兼ねなく藍を守る為に野分に立ち向かうことができる。
結局すべての藍畑を守り切ることはできませんでしたが、あの未曾有の大嵐の前にあの程度の被害で済んだのは、奥方様がお城を開放して下さったからなのでございます」
あの日のことは雪寿尼が労ってくれてはいたが、民より直接かけられる言葉はより深い喜びをもたらした。
無我夢中でやったことだけれど、決してひとりよがりな決断ではなかったのだとようやく蝶子は自信を持つことができた。
「ありがとう。皆の気持ち、大切に使わせていただきます」
村人たちが思いを込めて贈ってくれたものを、変に遠慮して悪かったと蝶子は心の内で省みる。改めて丁寧に礼を言うと、藍師は恐縮したように深く頭を垂れた。
「簡素な意匠だけれど、逆にそれが藍の深い色合いを引きたてるの。老若男女、誰からも好まれるのが染乃藍。
蝶子さんは裁縫が得意なのでしょう? 自分で好きに仕立てなさいな」
傍らで黙って聞いていた雪寿尼であったが、やがて朗らかにそう提案した。
「裁縫は好きですが、得意というほどでは……」
「あら、繕いものは全部自分でしてしまうと聞いていますよ」
またしても雪寿尼に蝶子の情報が漏れている。そこではたと、蝶子は思い至った。
「ところで、どうして村人たちはわたくしが城を開放したと思っているのでしょう?」
「それは、わたくしが皆に伝えたからよ」
「雪寿尼様!」
しれっと言い放った姑に、蝶子の声は裏返りそうになった。
「あらあら、本当のことだから別に構わないでしょう。
それに、仮にわたくしが言わなくても、自分たちが寝つくまで蝶子さんが傍にいてくれたと子供たちから聞けば、おのずと誰が尽力してくれたのか分かることでしょう」
悪びれもせずに言う雪寿尼に、ついに蝶子はくすくすと笑い声を漏らした。
「雪寿尼様には敵いませぬ」
「ええ、そうでしょう。わたくしには間者がついておりますので、蝶子さんのことは筒抜けなのですよ」
「間者とは、あんまりでございます」
恨めしそうに口を挟んだのは、ずっと黙って控えていた侍女であった。
「あら失礼。あなたは主がいかに素晴らしいかを、わたしに報告してくれただけでしたね」
「雪寿尼様!」
今度は桔梗の声が裏返る番だ。ふだん顔色を変えない侍女の頬が赤く染まるさまに、蝶子は目をまるくした。
「家臣たちの情報をすぐに覚えてしまったとか、身の回りのことは全部自分でしてしまうとか、あの秀久殿にたてついたとかね」
「わたくしはお屋形様の母君であらせられる雪寿尼様に、奥方様のご様子を嘘偽りなくご報告差し上げたまでにございます」
桔梗につられるように、蝶子の頬も朱に染まる。てっきり姑に己の行動を逐一報告されているとばかり思っていたのだが、随分と良いように伝えてくれていたようだ。
相変わらず感情を見せないが、以前は感じられた壁のようなものを最近はまったく感じない。何だか嬉しくなって侍女を見やると、気まずそうにふいと視線を逸らされた。
そんな何となくこそばゆい空気を打ち破ったのは、舌の回り切らぬ幼子の言葉であった。
「ひめしゃまは、おてだまもしゅごいのです!」
「雲雀?」
今日は姿が見えなくて内心落胆していたのだが、何故かお手玉を片手に自慢げに登場した雲雀に自然と蝶子の頬が緩んだ。
「あら雲雀、もう掃除は終わったの?」
「はい」
「本当に? 蝶子さんとお手玉遊びがしたくて、早く終わらせたりしていないでしょうね」
以前から薄々感じていたが、どうやら姑は人をからかうのが好きらしい。
雲雀が蝶子と作ったお手玉を見せびらかしたくて仕方がないことを知りながら、わざと意地悪な質問をして焦らせている。
だんだんと雲雀の口がへの字になってゆくのを愛らしく思いながら、蝶子は諭すように声をかけた。
「あとで一緒にお手玉をして遊びましょう。なれどわたくしは今、すくもの作り方を教わっているのです。雲雀はもう暫く、良い子で待っていて下さいな」
「はい! ひばりはよいこにしています」
子供たちのお手本になるような返事に、思わず雪寿尼と桔梗が顔を見合わせる。そんな大人たちの様子を不思議そうに見つめながら、雲雀が雪寿尼の袖を引いた。
「せつじゅにさま、ひめしゃまはおてだまづくりもしゅごいのですよ」
どうやら雲雀は先程の会話を聞いていたらしい。余程お手玉を作ってもらったのが印象深かったのか、それをどうしても主張したかったようだ。
「褒めてくれてありがとう。でもそれは、雲雀が手伝ってくれたからですよ」
「あらあら、蝶子さんのことが大好きな似たもの姉妹ね」
蝶子と雲雀の楽しげなやりとりを眺めながら、雪寿尼が笑い声をあげる。桔梗は一瞬反論しようと試みたが、敵わないと思ったのかすぐに諦めたように溜息をついた。
女たちのかしましいやりとりを黙って眺めていた藍師だが、やがてすくも作りの説明に戻った。
穂積にいた頃は兄にねだって何度か領内の視察について回ったことがあり、稲や野菜が育つ様子は蝶子にとって身近なものであったが、藍葉を発酵させて染料にするというのは未知の領域だ。
はじめて雪寿尼のもとを訪れた時に、彼女が住まう寺が染乃におけるすくも発祥の地であると知り、蝶子は藍染に対して少なからず興味を抱いていた。
だから時折、藍師の説明に質問しながら、蝶子は随分と熱心にその工程を学んだ。
「また完成した頃に、見せていただいてもよろしいですか?」
「もちろんにございます」
約百日という長い日数をかけて完成する姿をぜひ見てみたい。蝶子がそう頼むと、藍師は快く了承してくれた。
「迷惑でなければ、藍染の様子も見せていただきたいのですが」
「それでは私から紺屋に申し伝えておきます。奥方様が我らの仕事に関心を持って下さることは、大変ありがたいことに存じます」
染乃国は藍染という産業のもとに成り立っており、すなわち蝶子の生活も藍染のもとに成り立っている。
嫁いで来た当初は、誰かが側室として召し上げられた時のことを考慮して、蝶子は表に出ることを躊躇っていた。
けれども今は、正室として藍染のことを、民のことを知るべきだと思っている。
その考えは正室としての使命感によるものであるが、同時に、いずれ側室として輿入れするであろう瑠璃への対抗心でもあった。
瑠璃は、民が当主に対して犠牲を払うのは当然であると言い切った。けれども蝶子はそうは思わない。そして恐らく、伊織もそう思っていない。
しかしながら彼は、そんな瑠璃を愛しているのだ。
白状すれば、どうして瑠璃なのかと思わないわけではない。けれども男女の色恋においてそのような考え方の相違は、きっと瑣末なことなのであろう。
恋を知らぬ蝶子にとっては理解しがたいが、そのようなことをわざわざ口にしてこれ以上惨めになりたくはなかった。そもそも自分たちは政略結婚なのだ。
それならば、己は淡々と正室としての務めを果たそう。瑠璃に民への思い入れがないのであれば、遠慮なく正室の務めを果たせるではないか。
夫からの愛情は得られなくとも、民に愛される正妻になろうと、蝶子はそう心に決めたのであった。
「雪寿尼様、本日はありがとうございました」
藍師からの講義を終え、雲雀と暫しお手玉で遊んだあと、蝶子はそろそろ帰らねばと腰を上げた。
「そもそも誘ったのはわたくしですよ。来て下さって、こちらこそありがとう」
藍染を見学させてもらう日は、雪寿尼を通じて連絡をもらう手筈となっている。よろしくお願いしますと頭を下げると、雪寿尼ははたと思い出したように手を打った。
「わたくしとしたことが、大切なことを忘れていたわ」
「何でございましょう?」
「蝶子さんの義兄上から届いた援助のお礼よ。此度の被害を受けて、紅野家からお見舞いを頂いたと伊織から聞きました。
わたくしからもお礼状は差し上げますが、蝶子さんからもくれぐれもよろしく伝えて下さいね」
つい昨日、義兄である栄進から米と野菜が届いたそうだ。そのことは蝶子も伝え聞いている。
「今年は豊作だったようで、野分のことを聞いた義兄が染乃の民たちにと用意してくれたようでございます」
「本当にありがたいことだわ。そういえば、義兄上の婚儀の日取りが決まったそうね。此度のお礼も兼ねて、蒼山家からもお祝いを差し上げねば」
「いえ、どうぞお気遣いなく」
「それにしても年明けに婚儀とは、おめでたいことが続きますね」
まるで自分のことのように嬉しそうにしている姑に対し、蝶子は曖昧に頷いた。やがて暇乞いをすると、蝶子は桔梗と従者と共に、雪寿尼が住まう寺をあとにした。
振り返ると、寺の前では雪寿尼と雲雀が見送ってくれていた。ふたりに手を振り返したその時、蝶子はふと視線を感じた。
「奥方様、いかがなされました?」
聡い侍女は、微かに強張った主の様子に小さくそう尋ねた。
「何でもないわ。さあ、帰りましょう」
感じた気配はほんの一瞬で、気のせいかとすぐに打ち消す。気を取り直してそう促すと、蝶子は再び歩き出した。
* * * * * * * * *
秋は既に去り、季節は冬を迎えようとしている。
その日、蝶子は午後から庭に出て、野分によってなぎ倒された草木や枝を片づけていた。
「悪いわね。桔梗にも手伝ってもらって」
「とんでもございません。本来ならば、これは庭師にさせること。それを奥方様が自らされるのならば、当然わたくしもお手伝いさせていただきます」
本当は、この庭を必要としているのは蝶子だけである。桔梗が穂積流の庭にさして興味がないことは知っている。
けれどもひとりではさすがに時間がかかってしまうので、蝶子は気づいていないふりをして侍女の言葉に甘えることにした。
「日向は温かいですが、陰ってくるとすぐに空気が冷えてまいります。日が高いうちに終わらせてしまいましょう」
「そうね」
そう言いながらてきぱきと折れた枝を集めている桔梗を頼もしいと感じながら、蝶子も根腐れしてしまった草花を抜き始めた。
ふたりでせっせと手を動かせば、小さな庭はじきに元の景色を取り戻した。枯れ葉が一気に落ちたこともあって荒れた印象を受けたが、いざ片づけてみれば大したことはない。
村人から分けてもらった水仙の苗を植えながら、蝶子はほっと胸をなでおろした。
「奥方様のお庭が、見た目よりも被害が少なくて何よりでございました」
「本当に。あの辺りの草はしっかりと根付いていたので、それが良かったのでしょうね」
ふとそこで、蝶子は以前抱いた疑問を思い出した。今が良い機会だ。水仙を植える手を止めると、蝶子は桔梗に声をかけた。
「ねえ桔梗、このお庭はいつ頃からあるのでしょう? 雪寿尼様はご覧になったことがないようでございましたが……」
はじめて姑に会った時に、彼女はこの庭を見せて欲しいと言った。
それは先代の正室として雪寿尼がこの城で暮らしていた頃には存在していなかったということで、いつどのような経緯で、染乃城内に穂積流の庭ができたのか蝶子はずっと気にかかっていたのだ。
けれども、侍女からの返事はなかった。彼女の視線は蝶子を通り過ぎて部屋の中に向けられており、次の瞬間弾けたように立ち上がった。
「お屋形様!」
桔梗の声に驚いて蝶子が振り返ると、いつの間にか伊織が蝶子の部屋を訪ねて来ていた。
「女子ふたりでそのようなこと。すぐに誰か呼んで参ろう」
「いえ、この苗を植えれば終わりでございます。忙しい者たちの手を煩わせるほどのものではございませぬ」
蝶子が慌ててそう言うと、伊織は黙って庭に下りて来た。
「では、私が手伝おう」
大股で蝶子たちの傍に近づいて来た伊織は、水仙の苗を手に取った。
「お、お屋形様、お手が汚れてしまいまする!」
予想もしない夫の行動に驚いた蝶子は、慌てて苗を奪い返そうと試みる。隣で桔梗も呆気にとられて見つめていた。
「洗えば済むことであろう。それに、姫の手も泥だらけではないか」
「わたくしは構いません。穂積の城でもたまに触れておりました故」
けれど、一国一城の主に土いじりなどさせるわけにはゆかない。蝶子は必死で制止しようとしたが、伊織はさっさと穴を掘り始めてしまった。
「これは何の苗か?」
「水仙にございます。冬になれば、白い花を咲かせます」
「そうか、楽しみだな」
蝶子は黙って頷いた。伊織は掘った穴に苗を植えると、丁寧に土をかけている。
その慈しむような手つきは優しくて、蝶子はもはや制止することを諦め、黙って残りの苗を植え始めた。
「姫」
やがて、用意していた苗をすべて植え終えると、伊織は静かに蝶子を呼んだ。あの時のように名を呼んで欲しかったが、いつものように短く姫としか呼んでくれなかった。
「私の大切なものたちを守ってくれて、ありがとう」
「お屋形様……?」
そう言って七歳も年下の妻に頭を下げた伊織に、蝶子はひどく戸惑った。
「ずっと礼を言いたかったが、忙しさにかまけて今日まで言えなかった。本当にありがとう」
「わたくしは、何もしておりませぬ。守り抜いたのは家臣や侍女、そして染乃の民自身にございます」
「もちろんその通りだ。なれど、家臣らを説得する姫の勇気がなければ、このような結果にはならなかったであろう」
だからありがとう。穏やかなその声に、蝶子はそっと顔を伏せた。
――この人が、好きだ。
敵国の当主であり、兄の敵である男。鬼のように残酷であるという噂とは裏腹に、常に民の幸せを願い奔走している人。
口数は多くないがその声は優しくて、深い藍色が誰よりも似合う蝶子の夫。
己ではない別の女性を愛するその人を、蝶子はいつしか恋慕うようになっていたのだ。
「姫、どうされた?」
滲んできた涙を見られたくなくて俯いてしまった蝶子に、伊織は気遣わしげに声をかける。
「いえ、何でもございませぬ」
「なれど……」
「これは、嬉し涙にございます。もしもお屋形様のお役に少しでも立てたとしたならば、これ以上嬉しいことはございませぬ」
涙を隠すことはできなくて、蝶子は顔を上げた。けれども涙の意味は隠しとおさねばならぬと、無理矢理に笑みを浮かべた。
「……姫」
そう呟くと、伊織が蝶子の頬に手を伸ばした。零れ落ちた雫を、着物の袖でそっと拭う。息をひそめて見上げると、切れ長の目が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
多忙を極めているせいか、少し痩せたような気がする。病み上がりなのだから無理をしないでくださいと伝えたいが、それは蝶子には許されないことであった。
伊織が高熱に倒れた夜、蝶子は夜中まで夫の看病をしていた。けれども、彼はそれを知らない。
熱にうかされた伊織が傍にいて欲しいと願ったのは瑠璃であり、だから蝶子がついていたことをわざわざ知らせるべきではないだろう。
蝶子は周囲の者たちに、自分が夫の部屋を訪れて看病したことを固く口止めしていた。