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の居る場所



 野分の章  陸


 はじめて踏み入れる夫の居室は、夫の匂いがした。
 夫婦と言えど未だ肌を合わせたことはなく、言葉を交わす機会すら限られているけれど、不思議なことに蝶子はその微かな匂いに伊織の存在を感じていた。

「外に小姓が控えております故、何かございましたらお申し付けくださいませ」
 伊織付きの藤と名乗る女性は、そう言うとそそくさと立ち上がった。 赤子の伊織は母である雪寿尼の手によって育てられたが、その支えとなったのが藤であり、彼女が伊織の乳母のような役割を果たしたらしい。 元服したあとも伊織は気心の知れた藤を傍に置き、現在も身の回りの世話を任せている。ということを、蝶子は嫁いで来て三ヶ月以上が過ぎた今、ようやく知った。
「なあに、そんなに心配せずとも大丈夫でございますよ。己は鍛えているから大丈夫だというのが伊織様の口癖なのですが、さすがに今回は無理をしすぎましたね。 少しは家臣たちに任せて自分のお体を大事にしなさいと、目が覚めたら奥方様から叱ってやってくださいませ」
 蝶子の曇った表情を、夫を心配してのことだと解釈したのだろう。 藤はふくよかな見た目が与える印象を裏切らない大らかな性格のようで、蝶子を励ますようにそう言ってからからと豪快に笑った。 朗らかな藤の持つ雰囲気に蝶子が思わず笑みを漏らすと、あとをお願いしますよと優しく声をかけて出て行った。


 爽やかな秋風が吹く庭で、初対面の瑠璃から伊織と想い合っていると聞かされた時は衝撃を受けたが、ある意味今回の方が蝶子は傷ついたかも知れない。
 夫の従妹である瑠璃が己を敵視しているのは明白で、今回は何を言われても傷つかぬと会う前に覚悟を決めていた。 実際に理不尽なことを言われたが、分かったのは蝶子と瑠璃は決定的に考え方が違っており、決して相容れないということであった。けれど、いっそその方が清々しい。 腹が立たないと言えば嘘になるが、たとえ瑠璃が伊織の側室として召し上げられたとしても割り切ることができるような気がした。 ただ、彼女が最後に放った言葉は蝶子の胸をぐさりと刺した。

 ――伊織様が倒れても誰も知らせてくれないだなんて、正室として認められていないということですから。

 蝶子が動揺した様子に満足げな表情を浮かべると、用は済んだとばかりに瑠璃は帰って行った。 客人がいなくなったあとも黙って座っている主の傍らで、憤然と立ち上がったのは侍女である。 桔梗は瑠璃に出した湯呑みを片づけることも忘れ、さっさと部屋を出て行ってしまった。 誰にどう話をつけたのか蝶子が知る由もないが、暫くして戻って来た侍女は参りましょうと蝶子を促す。やがて連れて来られたのは、城主である夫の寝室であった。 既に話は通しているようで、部屋の前に控えていた小姓は蝶子たちの姿を認めると、すぐさま中にいる藤へ取り次いでくれた。


「桔梗」
 ようやく状況が飲み込めた蝶子が、声を落として侍女の名を呼んだ。
「お屋形様はお休みになられているのでしょう?」
 伊織はどうやら眠っているらしい。いくら妻とはいえ、勝手に当主の部屋を訪れるなど許される筈がない。ましてや蝶子は、敵国から嫁いで来たお飾りの妻なのだ。
「はい。薬師が用意した薬を服用され、先程お休みになられたとのことにございます」
「ということは、わたくしが御寝室に参ったことはご存知ないのでしょう。お屋形様のお許しもなく、お傍に参るわけにはゆきませぬ」
 穂積国と染乃国、それら二国の和平の為に成立した婚姻関係。それが蝶子と伊織の関係である。 敵国に嫁ぐことが決まった時点で蝶子は多くのことを諦めたが、決して傷つくことに慣れたわけではない。 正室である彼女の耳に伊織が臥せっているという情報が入らなかったのは、悔しいけれど瑠璃の言うとおり城内で蝶子の存在が認められていないということだ。 確かに夫の様子は心配ではあるけれど、病状さえ知らせてくれればそれで良い。あとは知らぬふりをするのが、政略婚として嫁いで来た妻の賢明な対応であろう。 わざわざ寝所を訪れて、蝶子はこれ以上傷つきたくなかった。 目が覚めた伊織に不快感をあらわにされたら、いくら打算の上に成り立っている夫婦関係だと理解していても、さすがに傷つくだろうと蝶子は怯えていた。

「恐れながら、奥方様は何か思い違いをされていらっしゃるようにお見受けいたします」
 伊織の居室に入ることを拒んだ蝶子に対し、侍女はいつもながら淡々とした口調でそう言った。
「思い違い?」
「さようにございます。奥方様に此度の件をお伝えしなかったのは、奥方様にご心配をおかけしたくないとお屋形様が側近たちに口止めをされたからにございます」
「まさか……」
 桔梗の言葉を、蝶子は即座に否定した。 敵国の姫である蝶子が穂積の者と内通している可能性を疑い、当主の体調不良を隠していた可能性は高くとも、心配をかけない為だという理由はありえない。
「奥方様にお知らせせぬのはどういう了見かと虎之新様にお伺いしたところ、そのように申されました」
「河合様が?」
 瑠璃が帰るや否や部屋を飛び出した桔梗は、どうやら伊織の側近である虎之新の元へ向かったらしい。 蝶子に心配をかけない為という理由が虎之新と桔梗のどちらの気遣いによるものなのかは分からないが、思いやってくれる人がいるということは素直に嬉しかった。
「ありがとう」
 蝶子がそう囁くと同時に襖が開き、藤が蝶子を伊織の部屋へ招き入れた。



 少し掠れた呻き声に、蝶子は我に返る。
 目の前には、熱に浮かされた夫が横たわっていた。結局、桔梗と藤に押し切られるような形で伊織の看病をすることになったが、今は来て良かったと思っている。 想像していたよりも夫は高熱で、蝶子は手ぬぐいを手桶の中の水に浸すと、固く絞って夫の額にそっとのせた。 目覚めた時に、傍にいることを咎められても良い。不快感を示されたとしても、早く回復してくれればそれで良いと、蝶子はかいがいしく伊織の汗を拭った。
「……んっ……」
 時折、小さくうなされている。胸の上で組まれている手にそっと触れると、やがて安心したように深い寝息が聞こえてきた。
 先代が亡くなってからこちら、若くして当主の座に就いた伊織は常に多忙を極めていたと聞く。 虎之新や藤がたまには体を休めるようにと進言しても、自分は丈夫だからと聞く耳を持たなかったそうだ。誰よりも染乃の民のことを想っている伊織のことだ。 あの嵐の夜も、川の氾濫を心配して一刻でも早くと馬を駆けたのであろう。実際に、蝶子の部屋を訪れた伊織はずぶ濡れであった。 それから休む間もなく被害状況の確認をし、復興に向けて指揮を執り続けた伊織が倒れたのは、昨日のことであったらしい。 体調が悪いことを隠して奔走していた結果、ついに高熱で倒れてしまったとのことであった。

「申し訳ございませぬ」
 蝶子は熱にうかされている伊織に詫びた。
 あの夜、蝶子を抱きしめた伊織は確かに熱かった。帰城した時には既に熱があったのだろう。もしもあの時、蝶子が伊織を休ませていれば、ここまで悪化することはなかったかも知れない。 たとえ伊織が聞き入れなかったとしても、せめて虎之新の耳に入れておけば良かったのに、けれども突然の抱擁に動揺した蝶子は夫の体調の異変に気づきもしなかったのだ。
「伊織様、申し訳ございませぬ」
 涙混じりにもう一度詫びると、不意に伊織が身じろいだ。起こしてしまったかと、慌てて蝶子は触れていた手を離そうとする。 けれども一瞬早く、熱い大きな手に包まれてしまった。突然のことに蝶子が狼狽していると、伊織の瞼がゆっくりと開いた。
「許してくれ……」
 掠れた声で、搾り出された謝罪の言葉。その声があまりにも悲痛で、思わず蝶子は夫の手をぎゅっと握り返す。すると、再びゆっくりと唇が動いた。
「瑠璃」



* * *   * * *   * * *



 これはまずいな。そう思った時には力が抜けて、伊織は己の体を支えることができなくなっていた。遠くで自分の名を呼ばう虎之新の声が聞こえる。 大丈夫だと答えたつもりだが、果たして声になっていたかは定かでない。
 虎之新とふたりきりの時で良かった。意識を手放す直前に伊織が考えたのは、倒れたのが他に家臣がいる場でなくて良かったということであった。

 次に伊織が意識を取り戻した時に見たのは、いつも見慣れた天井であった。
「ああ良かった。お気づきになりましたか?」
 そう言って笑顔を見せたのは、伊織が生まれた時から世話になっている藤であった。
「どれくらい眠っていた?」
 長く眠ったような気もするが、時間の感覚がまったくない。そう尋ねながら起き上がろうとすると、剣のある声が飛んできた。
「伊織ぼっちゃま、何をされているのです?」
 ふだんは伊織様と呼ぶ藤が、昔の呼び方をするのは怒っている時だ。けれども構っていられない。 熱のせいか節々が痛む体を無理矢理に起こす。するとその瞬間襖が開き、どすどすと足音をたてて虎之新が入って来た。
「伊織、おまえ何をしている?」
「決まっておるだろう。戻るのだ」
「まだ懲りていないのか?」
 呆れたようにそう言うと、虎之新は伊織の肩を押した。伊織と虎之新の力は互角である筈なのに、けれども伊織の体は容易く布団の上へと倒れ込んだ。
「そのような体で何ができるというのだ。大人しく休め」
「なれど」
 一度倒れた体は鉛のように重くて起き上がれない。けれども今は、寝込んでいる場合ではないのだ。野分が村々に激しい爪あとを残してまだ三日。 家を流され途方に暮れている民がいるというのに、領主である己がのんきに寝ているわけにはいかなかった。
「ゆっくり休めとは申しておらぬ。悪いがそこまでの余裕はない。だから一日休んで、とにかく熱を下げろ」
 そう言い放った虎之新の隣で、藤が伊織を布団に押し込めて薬の用意をしている。昔から藤と虎之新は親子のように息が合っていて、そんなふたりに伊織は頭が上がらない。
「おまえは無理をしすぎだ。蒼山家当主の代わりはおらぬのだから、もう少し自分を大事にしてくれ」
 いつもは飄々としている虎之新が珍しく真剣な表情を見せるので、伊織は結局それ以上抗うことができなかった。


 若くして当主の座に就いた伊織のことを、決して家臣全員が認めているわけでない。それは他でもない、伊織自身が最もよく知っていた。 古参の老中などは、表向きは従うふりをしているが、当主としては半人前だと舐めているのは明らかである。 ゆくゆくは伊織が就くとしても、当面は先代の弟である秀久が当主を務めれば良いのではないかという声も多かった。
 だから伊織は、懸命に当主としての務めを果たそうとしてきた。 堅実な政治手腕を発揮した父よりも劣っていると言われぬよう、当主が変わって民たちの暮らしの質が落ちぬよう、伊織はそれだけを考えて一心不乱に働いてきたのだ。
「ぼっちゃんは、昔から甘えるのが下手でございますねえ」
 そう言って、藤が濡れた手ぬぐいを乱暴に額にのせた。自分で思っているよりも熱が高いようで、一瞬ひんやりと気持ち良かったもののすぐに生温かくなってしまった。
「こんな時代だ。確かに我らは一枚岩ではないが、おまえが一日休んだところで責める者は誰もおらぬ。もう少し家臣を信じろ」
 父が突然の病で逝って以降、ずっと肩肘張って生きてきた伊織だったが、どうやら虎之新たちにはそれが危うく思われていたらしい。 嵐の中を共に戻って来た虎之新がぴんぴんとして説教をしているのが不公平だと思いながらも、伊織は少しだけ気持ちが軽くなるのを感じて目を閉じた。

「おや、ようやく素直になったようで。それでは、看病は奥方様にお任せしましょうかね」
「おお藤殿、それは名案にござる。早速姫さんを呼んで参ろう」
 そんなふたりの戯言に、まだ力は残っていたのかと自分でも驚くくらい俊敏に伊織は起き上がった。
「ならぬ!」
 起き上がった瞬間くらくらと眩暈がして、再び布団の上に突っ伏した。
「阿呆、大人しくしろと言っておるだろう」
「姫には申すな」
 虎之新の小言を無視し、伊織はそう命じた。そんな余裕のない様子に、思わず藤と虎之新が顔を見合わせる。
「何故だ? 姫さんなら心配して看病してくれるだろうに」
「そうですとも。蝶姫様になら、安心して伊織様のことをお任せできましょう」
 だからだと、伊織は唸るように呟いた。あの聡明な妻は、夫が臥せっていると知れば懸命に看病してくれるだろう。けれど、彼女の兄の敵である己にはそんな資格はないのだ。
「おまえの考えそうなことは予想がつくが、そう頑なになるな」
「虎様の言うとおりでございます。それに、伊織様が臥せっておられたとあとで知れば、奥方様はきっと傷つきますよ」
 知られなければ済むことだ。伊織はそう切り返した。
「一晩で治す。だからこのようなことで姫を煩わせたくない。それに、彼女に伝染したくないのだ」
 どうやら伊織の願いは聞き入れられたようで、ふたりはやれやれと溜息をついた。安堵すると、急に瞼が重くなる。 まるで底なしの沼に引きずり込まれるかのように、伊織は深い眠りに落ちた。


 ぐらぐらと体が揺れている気がして、やがてぼんやりと意識が戻ってきた。一刻も早く城に戻らねば。頭の片隅で、伊織は必死に考えていた。 どうやら夢をみているらしい。暗闇の中を馬で駆けている伊織を俯瞰しているのは、もうひとりの自分であった。
 毎年のように野分が訪れる染乃で生まれ育った伊織であるが、浅葱の里で遭遇した大嵐はこれまで彼が体験したことのない激しさだった。 里の者たちが気がかりであったが、身を寄せている寺から出られる状況ではなく、己の無力さを痛感しながら一刻も早く嵐が去ることを祈り続けた。 幸いにも怪我人はおらず、伊織は即ちに出立すると城に向かって馬を走らせた。野分はいつも南からやって来る。 浅葱の里は染乃城よりも南に位置し、つまりは激しい嵐は城へと向かっているのだ。
 高台にある城は恐らく大丈夫だろう。気がかりなのは、川沿いの村々であった。毎年訪れる野分に備え、川が決壊しないように堤を築いてはいる。 けれどもあの激しい雨風ならば、あっという間に家々や藍畑を飲み込んでしまうだろう。
 少し弱まったとはいうだけで雨風が止んだわけではなく、吹きつける雨粒を一身に受けながら伊織たち一行は懸命に馬を駆けた。 恐ろしいのは、藍畑を守る為に判断を見誤ってしまうことだ。そう案じると、伊織は大きく息を吐いた。
 藍畑が染乃の大切な財産であることは、誰に問うても異論のない事実だ。 己の生活を野分から守ることが染乃に生まれた者たちの宿命であり、現にここ数年はずっと藍畑を守り抜いている。だからこそ怖いのだと、伊織はひとりごちた。 藍畑を守らねばと必死になりすぎて、最も大切なものを失ってしまわないかと。伊織は城に残った者の顔ぶれを思い浮かべながら、冷静に判断してくれよと心の中で祈り続けた。

 激しい雨風に行く手を阻まれ、通常よりも遥かに時間をかけて伊織たちが帰城したのは、東の空が白み始めた頃だった。
「叔父上、戻りました」
「無事であったか」
 真っ先に広間に向かうと、伊織が予想したとおり数人の家臣たちが詰めていた。 雫が床に垂れるのも気にせずずぶ濡れの伊織が上座に座っている秀久に近づくと、強面の叔父が微かに安堵した表情を見せた。
「して、被害は?」
 詰め寄るように伊織が問うと、その場にいた家臣たちの間に微妙な空気が流れる。嫌な予感がして叔父の方を見やると、秀久はきっぱりとひとこと無事だと告げた。
「詳細については夜が明けねば分からぬが、川の一部が決壊して川下にある藍畑が流されたようだ。なれど、村人たちは城に避難し全員無事である」
「城に!?」
 常に冷静な当主であらんと努めていた伊織であるが、予想もしない言葉に思わず声が大きくなってしまった。

「恐れながら、奥方様が村人たちの為に蔵の一部を開放してしまわれました」
 まるで待ち構えていたかのように、ひとりの家臣が興奮気味に声を発する。非難がましい口調でそう説明したのは、篠田光宗であった。 篠田家は先代である伊織の父が亡くなった折に率先して時期当主に秀久を推し、伊織よりも二歳下のこの男は、常に腰巾着のように秀久の機嫌を伺っていた。
「我らは藍畑を守ることを優先させるべきだと申したのでございますが、奥方様のご意向により叶いませんでした。我らの大切な財産を守ることができず、誠に申し訳ござりませぬ」
 驚きのあまり伊織が問い返した声が大きくなったことを、激怒したせいだと勘違いしたのだろう。光宗は、蝶子のせいで藍畑を失ってしまったと言外に匂わせていた。 他の家臣たちを見やれば、光宗に同意するような表情を見せる者と何やら物言いたげな者がいる。やはり伊織の不安は的中していたようだ。
「奥方様は、藍畑やすくもがいかに我らにとって重要であるか分からぬと、そう申されました。 恐れながら、我らは蒼山家当主の御正室の口からそのようなお言葉が発せられたことを誠に遺憾に思いまする」
「黙れ!」

 愚か者の発言にざわついていた広間が、当主の一喝で凍りついた。
 常に伊織が冷静であろうとしていたのは、家臣たちから舐められないようにする為と、恐れられないようにする為でもあった。感情を制御できない当主の元に有能な家臣は集まらぬ。 そう心に誓っていた伊織が激怒したのだ。ふだん冷静な者の逆鱗に触れるとその迫力は凄まじく、広間は水を打ったように静まり返った。
「藍畑は染乃の大切な財産だ。なれど私は、藍畑やすくもが民の命よりも大切だとは思わぬ」
 顔面蒼白になっている光宗を刺すような視線で射抜くと、伊織はきっぱりとそう言い放った。そうして踵を返すと、足音を荒立てて広間を出て行った。
「篠田殿。お屋形様がこの激しい風雨の中を急いで帰城なされたのは、藍畑を大切に思うあまりに皆が判断を誤らないかと危惧されたからでござるぞ」
 伊織と同じくずぶ濡れの虎之新が、当主が去った広間で静かに口を開いた。秀久をはじめその場に居合わせた家臣たちは皆、その言葉に苦虫を噛み潰したような表情になった。


 会いたい。触れたい。抱きしめたい。
 言葉に言い表せない気持ちを抱え、伊織は真っ直ぐに妻の居室へと向かっていた。まだ夜は明けておらず、ふだんはまだ眠っている時間だ。 けれども、蝶子ならきっと起きているだろうという予感があった。
「……姫」
 万一眠っていることを考え、囁くように呼びかける。けれども、襖の向こうから反応はない。 落胆した伊織が引き返そうとしたその時、己を呼び止める妻の声が微かに聞こえた。

「蝶、蝶子……!」
 その姿を目にした瞬間、伊織は己を制することができなかった。少女の細い肩を掴むと、自分の胸に抱き寄せる。ずっと呼びたかった妻の名を口にすると、不覚にも声が震えた。
 伊織が何よりも大切にしているのは、染乃の民だ。国を支えている藍畑ももちろん重要だが、まず優先されるのは民の生活であり命である。 それを守ってくれたのは他でもない、敵国から嫁いできた蝶子だった。先程の家臣たちの様子では、恐らく蝶子の主張はすんなりとは通らなかったであろう。 この華奢な少女のどこにそのような強さを秘めているのか分からないが、冷静さを失って藍畑に固執した家臣たちから伊織の大切なものを守ってくれたのだ。
 ふと視線を動かすと、部屋の中央に敷かれた布団が目に入った。けれどもそこに蝶子が横になった形跡はなく、腕の中にいる蝶子が着ている着物も寝巻きではなかった。
 愛しいという感情が心の底から湧き上がり、伊織の体内を駆け巡る。彼女に許しを請うて、そして蝶子を本物の妻にしたい。ずっと抑え込んでいた筈なのに、そんな欲望が伊織を支配した。 けれども、伊織にはそんな資格はないのだ。だから今だけ、抱き締めることを許して欲しい。 触れている場所が熱を持ち、ふわふわと足許が揺れるような感覚に陥りながら、伊織は己の熱を通して愛しく想う気持ちが蝶子に伝わって欲しいと懇願していた。


 熱い。あまりの熱さに腕の中の蝶子が溶けてしまうと体を離した瞬間、伊織は己の腕の中が空っぽであったことに気がついた。 どこへ行ってしまったのかと不安に駆られ、その名を呼ぼうとしたが声が出ない。その瞬間、ひんやりとした何かが額に触れた。 それまで燃えるように熱かったのに、少しだけ熱が下がったような気がした。
 優しく触れる手の主が気になって目を開けようとしたが、けれども視界が霞んでその姿を見ることができない。蝶子であれば良いのに。 妻に傍にいて欲しいと、熱に浮かされながら伊織はそう願った。少し冷たい指先も、耳元で名を呼ぶ優しい声も、全部蝶子であって欲しい。 何と自分は独占欲が強いのかと、叶わぬ願いを抱いている自分が滑稽に思えた。
「申し訳ございませぬ」
 やがてぼんやりとした意識の中で聞こえてきたのは、謝罪の言葉だった。何を謝っているのだろう。その声があまりにも悲しげで、慰めなければと伊織は必死でその手を動かした。 哀しませているのは自分のくせに。苦しませているのも自分なのに。それなのに、勝手な伊織は彼女には泣かないで欲しいと願ってしまう。 締め付けられるような気持ちで、自分より七つも下の少女に赦しを請うてしまうのだ。
「許してくれ……」
 その瞬間、掌の中の小さな手がぎゅっと握り返してきた。夢でなければ良いのに。許されたような錯覚に陥った伊織は、現実だという確証が欲しくて重い瞼を必死でこじ開けようとする。 刹那、甘い匂いが鼻腔をかすめ、伊織は落胆した。
 この匂いを伊織は知っている。いつ頃からか、従妹の瑠璃がその着物に焚きしめるようになった香の匂いだ。 伊織にはいささかきつすぎると感じるのだが、彼女がたしなみとしてしていることをとやかく言う筋合いはない。けれども今は、不快以外のなにものでもなかった。 なぜならこの匂いがするということはこの手の主は瑠璃ということで、やはり蝶子に触れることは自分には許されていないのだと痛感させられたからだ。
 蝶子でないのなら、手を離して欲しい。そう告げたくて口を開く。
「瑠璃」
 けれども乾いた口から紡がれたのは、従妹の名を呼ぶかさついた声だけであった。

 


2015/07/11 


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