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の居る場所



 野分の章  伍


「ねえお父様、お願いがございますの」
 城に詰めたままの秀久と瑠璃が顔を合わせたのは、野分が去って三日後のことであった。
 父が戻ったという報告を侍女から受けた瑠璃はすぐさま居室を訪れると、いささか疲れた表情を見せる父の姿には頓着せずに、甘えるような声でそう呼びかけた。
「何だ?」
 父が世継である弟を最も大切にしていることを、瑠璃は知っている。自分を含めた五人の娘は、せいぜい父の立場を固める為の手駒にすぎぬということも知っていた。 だからこそ己の立場を逆手にとって、瑠璃は欲しいものを手に入れるつもりであった。

「此度の野分は被害が大きかったのでございましょう? 明日、瑠璃もお城へお見舞いに伺いたいのでございますが」
「城は無事だ」
「しかしながら村の一部に被害が出ていると聞いております。復興に向けて尽力されていらっしゃる伊織様や、家臣の皆様に差し入れをお持ちしたいのです」
 瑠璃の甘い声音に、文に目を通していた秀久はようやくその視線を娘へと向けた。彼女は赤く紅を引いた口元を緩めると、上目づかいにじっと父を見つめた。
 父が女に求めているのは可愛げだ。瑠璃の母は世継を産めなかったものの、正室としての威厳を今も誇っているのは、次々に側室を迎えた夫に対して寛容であったからだ。 側室については言及せず、その分夫に甘え、欲しいものをねだり、男子を産めずとも秀久の意識を己へ向けるようにと常に美しく着飾っていた。
「城の者たちは村の復旧の為に働いており、皆多忙だ。もう少し落ち着いてからにしなさい」
「お忙しいからこそ、気分転換が必要でございましょう。瑠璃が伊織様をお慰めしたいのです」

 七歳上の優しい従兄は、幼い頃から妹のように瑠璃のことを可愛がってくれた。けれども、瑠璃は彼のことを兄だとは一度も思ったことはない。 物心ついた頃から瑠璃は伊織に対して恋心を抱き、いつか自分はこの人の妻になるのだと心に決めていた。 そうすることが父の喜びであり、己の幸せであると信じていたのだ。
「伊織は今、臥せっておる。風雨の中を馬で駆けた為に体を冷やしたのであろう」
「何と! なれば尚更……」
 倒れたなんて聞いていない。眠っている伊織の傍で看病する紅野の姫の姿が脳裏に浮かび、瑠璃は思わず腰を浮かせた。
「瑠璃」
 既に日暮れを迎えようとしているのに、今からでも城へ飛び出そうとしている娘を呼び止めたのは、父の冷静な声だった。
「瑠璃、伊織は既に妻を娶った」
「ええ、存じ上げております」
 だからどうしたと言うのだ。今更ながらそのようなことを言い出した父に、娘はにこやかに答えた。
「紅野の姫を正室に迎えるのは、この国の為に致し方のないこと。蝶子様に悋気をおこすほど、瑠璃は子供ではございませぬ」
「穂積の姫は、おまえが敵う相手ではない」

 先程まで西日が差していた部屋は、すっかり薄暗くなっている。秀久は静かに立ち上がると、油皿に火を灯した。
「わ、わたくしよりも紅野の姫の方が伊織様に相応しいと、お父様はそう仰るのですか?」
「……そうだ」
 暗い部屋の中で、油皿を手にした秀久の横顔がぼんやりと浮かび上がっている。父の表情からは、その発言の意味を読み取ることはできなかった。
「失礼いたします」
 震える声でそれだけ告げると、瑠璃は父の居室をあとにした。廊下に出ると、既に侍女らによって点々と火が灯されている。瑠璃は足早に自室へ向かいながら、ぎゅっと唇を噛んだ。

 己のどこが、敵国の姫に劣っているというのだろうか。野草が生い茂る庭を好む田舎くさい趣味も、可愛げのない仕草も、同い年と思えない幼い容姿も伊織には釣り合わない。 男に愛されるように常に気を配り、美しくあろうと努力している己の方が遥かに伊織に相応しかろう。 紅野の姫と婚儀を結ぶ利点など染乃に和平をもたらす以外になく、現に伊織と蝶子は誰の目から見ても明らかな政略結婚であった。
 家柄的にも、伊織と釣り合うのは瑠璃である。そう思っていたのは彼女だけでなく、ゆくゆくは瑠璃を妻に迎えると伊織自身も思っていた筈だ。 七歳の年の差は大きく、伊織とは色恋めいた雰囲気になったことはないが、父母や他の家臣にもそれは自然なことであるという空気が確かにあった。 だから瑠璃は、早く大人になろうと尽力した。可愛い従妹ではなく、美しい妻として見てもらえるよう、幼い頃からずっと七歳の年の差を埋める努力を続けてきたのだ。
 きっと、伊織も困惑しているに違いない。国の為とはいえ、瑠璃を正妻に迎えるつもりが敵国の冴えない姫を娶ることになったのだから。 けれども瑠璃は正室の座がお飾りであることを理解しており、伊織が愛してくれさえすれば己は側室でも頓着しない。 きっと父は、娘がそのように分別のつく大人に成長していることに気づいていないのだ。瑠璃は父と伊織に、自分の覚悟を告げようと決意した。 幼い子供だと思っていた瑠璃が、そのような武家の娘に相応しい考えを持っていることを知れば父は感心し、伊織はもはや妻としてしか瑠璃を見られなくなるに違いない。
 だからその前に、己の立場を理解していない愚かな人に理解させねばならない。瑠璃は心の内で、強くそう誓った。



* * *   * * *   * * *



 蝶子の元を訪れたいと瑠璃から文が届いたのは、野分が去って四日目の朝だった。
 もしも差し支えがなければ、その旨を遣いの者に伝えてもらえれば午後に伺うとのことである。 随分と急で、身勝手なことだ。蝶子がお世辞にも達筆とはいえない文字に視線を落としながら思案していると、桔梗がそっと声をかけてきた。
「急なことでございますので、お断りいたしましょうか?」
「いえ、会うわ」
 本当は会いたくない。真っ直ぐに向けられた敵意も、伊織と瑠璃の関係も、できれば触れたくないし知りたくないことだ。 伊織とは一度きちんと話さねばと思いつつ勇気を出せずにいたが、いつまでも目を背けてばかりはいられない。蝶子は腹を決めると、待たせている遣いの者へ渡すようにと返事を書いた。
「本当によろしいのですか?」
 最近は少しずつ感情を見せるようになった桔梗が、眉根を寄せてもう一度確認した。
「ええ。瑠璃様にまた会いたいと思っていただけるのは、ありがたいことでしょう?」
 蝶子がそう答えると、侍女はそれ以上何も言わなかった。

 己の立場をわきまえている聡明な侍女が、主が決めたことを再確認したのは何故だろう。蝶子が託した文を携えて桔梗が部屋を出たあと、静かに閉まった襖を眺めながらそう考えた。
 桔梗が聞いていた瑠璃との会話は当たり障りのないもので、庭での不躾ともいえる言葉は聞かれていない筈だ。 けれどもそのあとの蝶子は明らかに挙動不審であったので、何か言われたと感づかれたのだろうか。 それとも、伊織と瑠璃の関係は周知の事実で、だから蝶子と瑠璃を接触させぬようにと気遣っているのだろうか。 蝶子は小さく溜息をつくと、開け放たれた板戸の先にある庭を眺めた。
 蝶子が住まう染乃城では先日の野分による大きな被害はなかったが、暴風雨で敷地内の木が倒れたり、整然と整えられていた庭園の砂利が吹き飛んだりしていた。 それは蝶子の庭も例外ではなく、木の枝は折れ、草花は風でなぎ倒された。 その変貌に心は痛んだが、あの嵐の中で被害がこれだけで済んだということは感謝すべきことであり、庭師の手配をするという虎之新の申し出を蝶子は丁重に断っていた。 己の庭にかける人手は、まずは村の復旧にかけるべきである。そう考えた蝶子は、当分は折れた枝が放置された庭を眺めて暮らすことになると覚悟していた。



 午後になると、約束どおり瑠璃がやって来た。相変わらず同い年とは思えぬ大人びた雰囲気を漂わせた夫の従妹は、赤い紅をひき、甘い香りを漂わせていた。
「突然文を差し上げて、申し訳ございませぬ。先日の野分以降、蝶子様はいかがされているかとずっと気にかかっておりましたの」
「お気遣いありがとうございます。あのような激しい雨風ははじめての経験で驚きましたが、幸いにも被害は最小限と聞き、染乃の方々の自然に対峙する力に感心しております」
「野分を経験したことがないとは、羨ましい限りでございます。隣国とはいえ、まるで違いますのね」
 よそ者と伊織は相容れない。瑠璃の言葉にそのような含みを感じ、自分は何とひねくれているのかと蝶子はうんざりした。
「失礼いたします」
 会話が途切れた折をみて、そっと桔梗が湯呑みを置いた。淹れたての茶の良い薫りがした。
「ところで蝶子様、あの庭はどうされたのですか?」
「先日の野分で、木の枝が折れてしまったのでございます。お見苦しくて、申し訳ございませぬ」
 そう言って蝶子が小さく微笑むと、瑠璃は呆れたように声をあげた。
「まあ、何故誰も片づけないのですか? いくら蝶子様が敵国の姫とはいえ、蒼山家の正室でございましょう。これはあまりにもひどい仕打ちにございます」
「皆、片づけると申してくれました。なれど、わたくしがそれを断ったのでございます」
 敵国の姫だから虐げられていると決めつけた瑠璃の言葉に、さすがに蝶子も呆れてしまった。城の者たちを馬鹿にしていて、思わず強い口調で否定した。
「では、何故あのような見苦しい状態で放置されているのございますか?」
「此度の暴風により、川が決壊し一部の村が浸水したと聞き及んでおります。まず復旧すべきはそちらで、わたくしの庭など村の者たちが日常を取り戻したあとで構いませぬ」
 蝶子が静かにそう言い放つと、瑠璃は理解できぬというように首を横に振り、大袈裟に溜息をついた。

「失礼ながら、伊織様に蝶子様は相応しくないと存じます」
 部屋の隅に控えている桔梗が、瑠璃の言葉に微かに反応した。蝶子はただ黙って、目の前に座る瑠璃を見つめ返した。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「蒼山家当主の正室としての自覚を、まったくお持ちではないからでございます」
 蝶子が静かに尋ねると、即答で返ってきた。
「妻は夫に安らぎを与えるのが務め。なれど、このような部屋に伊織様は安らぎを感じられるでしょうか?  野草が生い茂る穂積流の庭にも我慢なりませんでしたが、このような醜い状態で平気でいられる神経が瑠璃には理解できませぬ」
「確かに、安らぎは感じられぬでしょうね。なれど家を失い、不自由を強いられている民よりも先に、己の庭を美しく整えてもらう気にはなれぬのでございます」
「民が当主の為に犠牲を払うのは当然のこと。威厳を保つ為、身なりや振る舞いに気を配らなくてどうするのです。 このようにみすぼらしい状態で平気でいられる妻を迎えねばならなかった伊織様が、あまりにもお気の毒ですわ」
「瑠璃様!」

 冷やかな口調で瑠璃の名を呼んだのは、いつも冷静な筈の侍女であった。
「あら桔梗、あなたいつの間にわたくしたちの会話に加われるような身分になったのかしら?」
 あからさまに見下した言葉を投げかれられた桔梗であったが、侍女が当主の従妹姫に反論はできず、失礼いたしましたと悔しげに言葉を絞り出した。 蝶子は自分の為に会話に割って入った侍女の気持ちを嬉しく思い、そして身分が下の者を蔑む瑠璃に対して言いようのない嫌悪感を抱いた。
「桔梗、今はわたくしと瑠璃様がお話しているから」
 感謝の念を込めて微笑むと、桔梗は黙って頭を下げた。

「確かに瑠璃様が仰るとおり、この庭はみすぼらしすぎました。わたくしでできうる限り整えて、冬の花を植えることにいたします」
 村の復旧が終わるのはいつ頃になるのか想像もつかないが、少なくとも年内に終えることは不可能だろう。 荒れた庭に心を痛めていたのは他でもない蝶子自身なので、自分で花を植えるというのは我ながら素晴らしい案に思えた。
「まさか! 高貴な姫ともあろうものが、土いじりなどはしたない。平民がすることを平気でできるとは、紅野家は何と野蛮な家柄なのでございましょう」
 美しく化粧を施し、身に纏う着物にたっぷりと香を焚く。身だしなみに気を配ることに何よりも重きを置いている瑠璃と蝶子は価値観が違いすぎて、会話は平行線を辿る一方であった。 確かに瑠璃の意見にも一理ある。当主の正室として、威厳を保つことは大切だ。けれどもそれは平時の話であって、このような災害時には他に優先すべきことがあるというのが蝶子の意見だ。 そして、伊織も同様に考えていると、蝶子はそう信じていた。

 伊織とは野分の夜に会って以来、顔を合わせていない。村の復旧に追われ、蝶子の元を訪れる時間などないのだろう。
 そう考えたところで、蝶子の鼓膜の奥に伊織の低い声が蘇った。同時に、抱き締められた腕の強さを思い出す。 油断しているとすぐにあの夜のことを思い出してしまい、いつも蝶子の鼓動がとくとくと早まるのだ。 何度思い起こしても抱き締められた理由が分からずにまるで夢をみていたような気になってくるが、濡れた着物の感触も、触れた夫の体温も、名を呼ばれた声の甘さも。 夢だと思うには、それらはあまりにも生々しかった。
 恐らく夜を徹して馬を駆けたのだろう。 それは城を案じてのことだと分かってはいるが、部屋を訪れてくれたのは少しは自分のことも気にかけてくれたということで、蝶子は密かにその事実に喜びを感じていた。

「様々なお考えがありましょう。わたくしの庭の手入れを後回しにしたところで村の復旧に大差はなく、単なる自己満足に過ぎぬということも分かっております。 なれど、わたくしは民が我々の為に犠牲になるべきだとは思いませぬ。 民が平和に暮らせるように努め、民の気持ちに寄り添うことこそが、蒼山家の正室であるわたくしの務めだと考えております。 そしてお屋形様も、民の幸せを第一に考えておられるとわたくしは信じております」
 己だけが贅沢な暮しをするわけにはゆかぬと質素な食事をとり、戦で乱れた国に平和をもたらす為に領内を駆け回る。誰よりも藍を大切にし、藍染で国が豊かになることを願っている。 兄の敵ではあるけれど、夫の民を思う気持ちは誠実で、だからこそ蝶子は伊織の留守の間に野分から民を守りたいと思ったのだ。 そしてそのことを姑である雪寿尼も喜んでくれ、蒼山家が民を第一に思う領主であることを確信した蝶子は、この国ではじめて小さな喜びを感じたのであった。

「伊織様と蝶子様は同じ考えを共有されていらっしゃると、そう仰りたいのですね?」
「いえ、そこまでは……」
 赤く紅を引いた唇の端を上げると、瑠璃がそう問うた。考えを共有するには、伊織とは言葉を交わした回数は少なすぎた。 ただ、時折垣間見える想いに共感するところがあったにすぎない。
「ねえ蝶子様、伊織様に最近お会いになられましたか?」
「いえ。お忙しいようで、野分の中をお戻りになられて以来お会いしておりませぬ」
 再び伊織に抱き締められたことを思い出しそうになって、蝶子は火照りをおさえるように己の頬に手をやった。
「のんきな奥方様でいらっしゃいますね」
 ひやりとした声音に、上がりそうになった体温が一気に冷える。自分の心を見透かされたのかと恐る恐る瑠璃を見やると、妖しげな笑みを浮かべながら蝶子を見つめていた。
「わたくしが蝶子様でしたら、寝食を惜しんで看病いたしますわ。きっと伊織様も望んでいらっしゃる筈なのに、わたくしにその権利がないのが口惜しい……」
「瑠璃様、それはどういう意味にございますか!?」
 看病すると、確かに瑠璃はそう言った。てっきりいつものように忙しいのだと思っていたが、まさか夫は臥せっているというのだろうか。 思わず強い口調で瑠璃に問うと、彼女は呆れたように笑い出した。
「あら怖い。伊織様のご寵愛を受けていないからといって、わたくしを責めないでくださいませ」
「そのようなつもりは……」
「まあでも、蝶子様もお可哀想でいらっしゃいますね。伊織様が倒れても誰も知らせてくれないだなんて、正室として認められていないということですから」
 不意に顔を寄せてきた瑠璃が、蝶子の耳元で楽しげにそう囁いた。焚きしめられた香の甘ったるい匂いが蝶子の鼻孔をついて、つんと痛くなった。

 


2015/06/30 


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