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の居る場所



 野分の章  肆


 嵐が過ぎ去ると急に吹く風が冷たくなり、季節が冬へと近づいた ことが感じられた。空を覆っていた灰色の雲はどこかへ消え去り、今は澄み渡った青色だけが広がっている。
「此度のことでは、ご苦労でしたね」
 そう蝶子を労ってくれたのは、姑である雪寿尼だ。野分が去って二日が経った今日、蝶子は唐突に姑から呼び出されていた。 雪寿尼が住まう寺は屋根の一部が吹き飛んだものの大きな被害はないそうで、相変わらず彼女は朗らかな笑顔で蝶子を出迎えてくれたのだった。
「いえ、わたくしは何もしておりません」
 嵐の中で村を守ろうとしていたのは家臣や村人たちで、城を守っていたのは侍女たちだ。 何もできない蝶子はただ子供たちの傍にいただけで、それなのに労いの言葉をかけられるのは居心地が悪くて仕方がなかった。
「何を仰っているの。染乃の大切な財産を守ってくれたのは、あなたでしょう?」
「染乃の方々がご自身で守られたこと。わたくしは、ただ自然の威力の大きさに怯え、みっともなく震えていただけにございます」
「わたくしが申している財産とは、民のことですよ」

 寺の隣には染料であるすくもを作る小屋があるのだが、どうやらそこも強風で一部が破損したらしい。 修復作業をしているのか、村の男衆たちが指示を出し合っている声が聞こえてくる。村人たちの活気ある様子に安堵しながら、蝶子は姑が口にした言葉の意味を考えていた。
「今回この地を襲った野分はわたくしたちがこれまで経験してきたものよりも強大で、残念ながら領内すべてを守り切ることは叶いませんでした。 なれど、怪我をした者はいたものの、命を失った者は誰もいなかったと聞いております。我々は最も大切なものを失わずに済んだのですよ」
 結局、増水した川は氾濫し、村の一部は水に流されてしまった。決壊したのが下流であったのが不幸中の幸いだが、それでも一部の村人は家や畑を失ってしまったのだ。
「怪我をされた方々や家を失われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。もちろん気を落としている者たちも多くいるでしょうが、皆が思ったよりも元気で安堵いたしました。 常に野分と対峙しておられる染乃の方々の強さを垣間見たような気がいたします」
 それは蝶子の本音であった。この寺は川から離れているので本当に被害が大きかった地域のことは分からないが、それでもこの周辺の人々は復興に向けて既に前向きに動き出していた。

「だからそれは、あなたのお陰なのですよ」
「え?」
 先程から雪寿尼が蝶子を称えてくれている理由が分からず、答を求めるように姑を見つめた。
「増水している川の近くに住む人々を避難させるべきだと、頭の固い秀久殿を説得したのはあなたでしょう?」
 雪寿尼の秀久を表する率直な表現に対して肯定して良いものか少々迷ったが、一応すべて本当のことなので蝶子は遠慮がちに頷いた。 夏の暑さで蝶子が倒れた時もそうだったが、己の言動は姑に逐一伝わっているようだ。そんなことを考えていると、雪寿尼が深い藍色の反物をそっと差し出した。

「村人たちから、あなた宛てにと預かったものです」
「わたくしに?」
 晴れた日の宵の口の空の色を思わせる美しい色に思わず蝶子が見入っていると、雪寿尼が意外な言葉を口にした。意味が分からず思わず問い返すと、姑は優しい笑みを浮かべて説明した。
「あなたは、藍畑やすくもよりも民の命が大切だと言ってくれたでしょう」
「それは……」
「藍畑やすくもを守りたいと思っていたのは誰でもない、ずっと畑を守り藍染の技術を磨いてきた村人たちなのです。守りたいと強く願っているのに、守り切れない無力感。 けれども守れと命じられる理不尽さ。そんな中で、命が一番大切だと言い切ったあなたの言葉が彼らにとって、村を守る為に未曾有の嵐に立ち向かう勇気となったのです」
 違うのです。蝶子は口の中で小さく否定する。そんな立派な話ではないのだ。 けれども、彼女の思惑とは異なる方向へ解釈している姑は、否定の言葉を聞き逃してどんどん他国から嫁いできた年若い嫁を立派な人格者へと作り上げていた。
「蝶子さん?」
「雪寿尼様、それは違うのです」
「何が違うの?」
 小さく首を振る蝶子に、雪寿尼は不思議そうに問いかけた。

「わたくしが秀久様に対して立場をわきまえず意見を申し上げたのは、私情からでございます。 わたくしがお屋形様のもとへ嫁いで参りましたのは、愚かな戦を終わらせ、民の命を守る為。 なれど野分の前に我らは無力で、自然の猛威に無謀にも染乃の人々は立ち向かい多くの命が危険に晒されておりました。 わたくしはそのようなことを受け入れる為に嫁いで参ったわけではないと憤った故の行動で、雪寿尼様が仰るような立派な考えのもとではございません」
 意に沿わぬ政略結婚の為にひとり異国へ嫁いで来た蝶子を支えるのは、戦が終わり民の命が救われたという事実だ。 己がここにいることで、兄が望んだ平和がもたらされたのだと信じることこそが、蝶子の心の拠りどころだった。けれども目の前で、命が無為に奪われようとしていた。 もちろん民の命を守りたい気持ちもあったが、自分の立場に対するやり場のない鬱屈を、冷静さを欠いた家臣たちへぶつけただけに他ならないのだ。

 褒めそやしてくれた姑や、美しい反物を用意してくれた村人たちに恥ずかしく、蝶子はそう告白すると唇を噛んで俯いた。 そんな彼女の様子に雪寿尼は驚いたように目を瞬かせ、やがて呆れたように溜息をついた。
「ねえ、蝶子さん。あなたは川沿いに住む村人たちの為に、城内の蔵を解放してくれたでしょう? 風の音に怯える子供たちが寝つくまで、ずっと傍についていてくれたでしょう?」
「……」
「憤ることなら、誰でもできましょう。なれど、誰が冷たく硬い蔵の床に長時間座って子供たちの面倒を見ますか? 一晩中床に入らず、御仏に祈りを捧げますか?」
 優しく諭すようにそう言いいながら立ち上がると、雪寿尼は蝶子の隣に座りそっと抱きしめた。
「染乃の大切な財産を守ってくれて、ありがとう。この国へ嫁いで来てくれて、本当にありがとう」

「ふっ、く……」
 背中を撫でてくれる雪寿尼の手は亡き母を彷彿とさせて、蝶子は堪え切れずに嗚咽を漏らした。
 穂積の民を守る為。何度も何度も己にそう言い聞かせ、これまで過ごしてきた。敵国の姫だからこの国で受け入れられることはないと、はなから諦めて心を閉ざしてきた。 そんな自分に、夫の母親はこんなにも優しい言葉をかけてくれたのだ。染乃に嫁いで来て以来ずっと殻を纏って耐えてきた蝶子に、涙を堪えられる筈はなかった。
「あなたにばかり無理を強いて、ごめんなさいね。せめて慣れた侍女をひとりでも連れて来られたら良かったけれど、あなたのお父上に強いお考えがあるらしいから」
 ぐずる赤子をあやすように黙って背中を撫でる雪寿尼の掌のぬくもりに、少しずつ蝶子も落ち着きを取り戻す。 偽りのない愛情に触れて、これまでずっと感じてきた心細さから解放される気がしていた。そんな蝶子の耳元で、姑は申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。 すっかり雪寿尼に心を預けていた蝶子は、けれども最後の言葉に引っかかりを覚えた。
「あの、父の考えとは?」
 戸惑い気味にそう蝶子が尋ねた瞬間、廊下からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。

「あら、やって来たわね」
 蝶子の問いには答えず、雪寿尼はいたずらを仕掛ける子供のように楽しげに笑うと、その胸に抱きしめていた蝶子から体を離す。 そうして愛おしそうに顔を覗きこむと、そっと髪を撫ぜた。
「伊織も桔梗も不器用で、あなたになかなか寄り添えなくてごめんなさいね。 あの子たちも、そしてこれから顔を見せる子も本当に蝶子さんのことを大切に想っているから、だからあなたももう少しわたしたちに甘えて頂戴な」
 うやむやになってしまった先程の発言が気になっている蝶子に対し、更に雪寿尼が意味深な発言を口にする。戸惑いながら姑の顔を見つめ返すと、襖の向こうで聞き慣れた声がした。
「しちゅれいいたします」
「え?」
 その愛らしい口調に、思わず蝶子は襖を見やる。期待を込めて襖が開くのを待ちわびていると、そこには楓の葉のような小さな手をついて頭を下げている幼子の姿があった。
「雲雀!」
 思わずその名を口にする。その呼びかけに顔を上げそうになりながら、それでも雲雀は行儀よくお辞儀を保っていた。
「久しぶりね、雲雀。少し見ない間、随分とお姉さんになったようだわ」
 再びぴくりと反応した幼子に、雪寿尼が思わず吹き出す。雲雀の隣では、いつもながら感情を見せずに姉の桔梗が控えていた。
「こちらへいらっしゃい。そして、あなたの愛らしい顔を見せて下さいな」

 結局、桔梗から厳しく躾けられていたであろう礼儀作法もそこまでだった。蝶子の言葉に我慢できず、満面の笑みを浮かべると同時に立ち上がり、雲雀は蝶子に抱きついていた。
「ひめしゃま、ひめしゃま!」
 桔梗の母と桔梗の二代に渡り雪寿尼に仕えていたという縁で、雲雀はあれからこの寺に預けられていたようだ。 結局いつものようにお転婆な姿に戻ってしまった妹に対し姉は不機嫌な表情を浮かべ、雪寿尼は楽しそうに笑い転げている。 予想しなかった再会に、蝶子はまるで夢のようだと思いながら柔らかな雲雀の体をぎゅっと抱きしめた。
「雲雀、ごめんなさいね」
 軽率な行動で彼女たちの母とその腹の中にいる子を危険に晒したこと。そして、何の謝罪もできぬままに雲雀とは会えなくなってしまったこと。 蝶子はそれらのことが、ずっと心に引っかかっていたのだ。
「ひばりはひめしゃまにあえなくて、さみしかったです。でも、よいこにしていればあえるとあねうえがいうので、ひばりはたんれんをつんでおりました」
「え?」
 雲雀の言葉に桔梗を見やると、無表情のまま視線を逸らされた。
「あと、おてだまのたんれんもしておりました」
 そういうと、雲雀は袂から赤色のお手玉を嬉しそうに取り出した。小さな手におさまり切らないそれは、紛れもなく蝶子が雲雀と作ったお手玉だ。 あのようなことがあったので最後は蝶子ひとりで仕上げて桔梗に託したのだが、侍女はきちんと雲雀に渡してくれていたらしい。
「あねうえがおしえてくれたので、だいぶうまくなりました」
 そう得意気に告げると、たどたどしく歌いながら雲雀がお手玉を放り投げる。その様子を目を細めて眺めている蝶子に、雪寿尼がそっと顔を寄せて囁いた。
「ね、不器用でしょう」
 悪戯っぽく笑う雪寿尼に小さく頷くと、蝶子もくすりと笑い声を漏らした。脇に控えている桔梗は、己のことを笑われている自覚があるのだろう。 相変わらず不機嫌そうな表情を見せていて、もはや隠す気もないようだ。

 ――あの子たちも蝶子さんのことを大切に想っているから。

 先程の雪寿尼の言葉を、蝶子はそっと心の中で反芻する。今までならそのような言葉をかけられても、単なる慰めだと決めつけて信じなかっただろう。 けれども今なら素直に受け入れられる。あの嵐の夜、誰よりも蝶子の考えを理解して動いてくれたのは他でもない、桔梗であった。
 これからずっと、孤独に生きねばならぬと蝶子は覚悟していた。けれども自分には、こんなにも優しい理解者がいたのだ。 蝶子は染乃国に嫁いで来てはじめて、心の底から幸せな気持ちを味わった。

 


2015/05/31 


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