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の居る場所



 野分の章  参


 川沿いに住む人々の避難誘導は、若い家臣らを中心に行われるらしい。激しい風雨の中へ飛び出して行った馬の姿は、視界が悪くてすぐに見えなくなってしまった。
 男たちが水害を防ぐ為に奔走している間、女たちはこれから避難して来る村人たちの受け入れ準備を進めていた。どうやら彼らが嵐をしのぐ場所は、城内にある蔵の一部に決まったようだ。 本来ならば飢饉や、敵国の攻撃などで篭城せざるを得ない状況に備え、米などを保管しておく場所である。 しかしながら長年続いた戦のせいで備蓄する余裕などなく、複数ある蔵の大半が今は使用されていないらしい。皮肉にもその状況が、多くの民を受け入れる場所を確保するのに役立つこととなったのだ。

「わたくしにも何か手伝えることはございませぬか?」
 忙しそうに動き回る侍女たちを束ねているのは、長年この城で仕えているという侍女頭だ。本来ならばその侍女頭を当主の正妻である蝶子が掌握し、非常時には指揮をとらねばならない。 けれども蝶子は城内のことを何も把握しておらず、民たちを受け入れようとしている蔵の場所さえ分からないありさまであった。それでもじっとしていられず、遠慮がちに声をかけてみる。 けれども侍女頭から返ってきたのは、素っ気ない言葉であった。
「ございませぬ。わたくしどもにお任せいただき、奥方様はどうぞお部屋でお休み下さいませ」

 侍女頭が、城内のことに興味を示さない蝶子に対して苛立っていることは何となく気づいていた。 それでも蝶子が彼女に教えを請わなかったのは、いずれ側室となるであろう瑠璃に遠慮したからである。けれども、果たしてそれは正しかったのだろうか。
 天災は時や場所を選ばない。そのようなことは分かっていた筈なのに、そう簡単に緊迫した状況はおとずれないと高をくくっていた。 けれども今、嵐は川を決壊させる勢いで染乃の地に襲いかかろうとしていて、蝶子は何もできずに右往左往しているだけだった。 この地は野分の通り道であると聞いていたのに、これまでも伊織は何度も城を空けたことがあったのに、蝶子は今回のような可能性を考えようともしなかったのだ。 そもそも仮に瑠璃が伊織の側室に召し上げられたとして、城を取り仕切るのはお飾りであっても正室の役割だ。 結局のところ蝶子は瑠璃に配慮しているふりをして、不本意な婚姻に伴う義務を果たすことに対して抵抗していただけなのだ。
(愚かな妹に呆れましたか、兄上……)
 そう小さく自嘲すると、ふと背後から視線を感じた。振り返るも長い廊下には人影がなく、相変わらず激しい風雨の音が聞こえるだけであった。 一瞬立ち止まり、逡巡する。やがて再び、蝶子は静かに廊下を歩き出した。けれども向かう先は、己の部屋とは反対方向であった。



 八つ過ぎになると、川沿いに住む村人たちが続々と高台にある城へと向かって来た。開放された蔵の中では幼い子供や老人たちが、息をひそめて嵐が過ぎ去るのを待っている。 その一方で、避難している者以外の大人たちは男も女も関係なく、川の決壊を防ぐ為に風雨の中で奮闘しているとのことであった。
「ととさまとかかさまは、どこに行ったの?」
 薄暗い蔵の中で、幼い男の子が蝶子の着物の袂をぎゅっと握りながら尋ねてくる。雲雀よりも僅かに年かさであろうか。 必死に不安を抑えようとしている様子が不憫で、少しでも安心させるように蝶子は優しく微笑んだ。
「そなたの父君と母君は、村を守っておられるのです」
「龍神様が怒っているの? おいら良い子にするからさ、だからととさまとかかさまを守って下さいと、そう伝えておくれよ」
 穂積でも染乃でも、水を司るのは龍神であると信じられている。恐らく少年の両親は彼が悪さをするたびに、龍神様の怒りに触れると戒めてきたのだろう。 少年の拙い言葉から父母を想う気持ちが伝わってきて、蝶子の心が痛んだ。
「この激しい風雨の中で村を守っておられるそなたの父君と母君の想いが、龍神様に届かぬ筈がございませぬ。良い子で待っていれば、じき帰って来るでしょう」
 そう言って雨に濡れた頭をそっと撫でてやると、少年は素直にこくりと頷いた。周りには幾人もの子供がいて、皆同じような不安げな瞳をこちらに向けている。 蝶子の言葉に納得したかどうかは分からないが、彼らには信じて待つ以外に術はないのだ。 そしてそれは蝶子も同じで、不安を抱えている子供たちに寄り添って、共に村人たちの無事を祈ることしかできなかった。

 侍女頭に部屋に戻るようにと言われたにも関わらず、結局蝶子は蔵の場所を聞き出して、そこで子供たちと過ごしていた。 家臣や村人たちのように堤の補強を手伝えるわけはなく、侍女たちのように城を守ることもできない。 けれども何か役に立ちたくて、いや本当は風が唸る音が響く部屋にひとりで居るのが恐ろしくて、蔵で村の子供たちの面倒をみていたのだ。
「奥方様、お部屋で少し休まれてはいかがですか?」
 風の音に怯え、父母が居ない状況に子供たちはなかなか寝つくことができずにいた。 幼い頃に母がよく歌ってくれた穂積の子守唄を蝶子が口ずさめば、少し落ち着いたのか幼い子からうつらうつらとし始める。 夜が更けてようやくすべての子供たちが眠りについた頃、蔵へやって来た桔梗が声を落として囁いた。
「幾分風の音が弱まった気がするけれど、川の様子はどうなっているのかしら?」
 そう尋ねながら、蝶子は静かに立ち上がった。桔梗に聞きたいことはあるが、ここで会話をしていると子供たちが目を覚ましてしまうかも知れない。 まだ起きている老人のひとりに朝にまた戻って来ると告げて、蝶子は一旦自室へ帰ることにした。
「その後どうなったのか、まだこちらへは連絡が入っていないようでございます」
「皆、無事であれば良いのですが……」
 蔵の中には当然、畳など敷いていない。蝶子がやって来たので下男が慌てて藁を持って来てくれたのだが、それでも土の上は堅く冷たかった。 そこで眠る子供たちの頬をひと撫ですると、蝶子は蔵の外へ出た。

 蝶子が予想したとおり風は弱まり、雨の粒も幾分小さくなっていた。先程までは掲げられた松明が強風に吹き消されそうになっていたのだが、今は揺れているものの炎は赤々と闇を照らしている。 それだけでも、不安な心が少しだけ和らぐような気がした。
「野分はこの地を去りつつあります。夜が明ければ雨も風も止みましょう」
 経験に基づく予想なのだろうか。預言者のように淡々と告げる桔梗の言葉に、蝶子は黙って頷く。 少し弱まったというだけで雨風が止んだわけではなく、蔵から城へと戻る僅かな間にも蝶子の髪や着物が濡れてしまっていた。
「大丈夫でございますか?」
「平気よ。川で命の危険に晒されながら藍畑を守ろうとしている多くの家臣や村人たちに比べれば、少し濡れたくらい何てことないわ」
 懐から乾いた布を取り出した侍女に対し、蝶子はそう言って小さく笑みを浮かべた。少し疲れた様子の主に対して失礼しますと声をかけると、桔梗は蝶子の顔を流れる雨粒にそっと布をあてた。
「先程、城に残っておられた篠田様が村へと向かわれたようでございます。暫くすれば、詳細が分かることでしょう」
「そう」

 部屋に戻ると、桔梗が熱い茶を淹れてくれた。夜の蔵の中で冷えてしまった体が、少しずつ温まってくる。 相変わらず風が板戸をがたがたと揺らしているが、昼間のような戸を破ってしまいそうな程の勢いはない。
「お疲れでございましょう。少しお休み下さいませ」
 蝶子が蔵から戻る前に、寝床の準備は既になされていた。けれども桔梗の言葉に蝶子は小さく首を振ると、先程からずっと心を占めている気がかりを口にした。
「お屋形様はご無事でしょうか。わたくしはどちらへ向かわれたのか行き先を存じませぬが、雨風がしのげぬ場所であの激しい野分に遭うてはおられぬでしょうか?」
「奥方様……」
 兄の忠孝が染乃の者に殺されたと知った時、蝶子は当主である蒼山伊織を討たぬのかと父に問うた。兄と同じように殺してやりたいと、そう願っていたのだ。 けれども染乃城で暮らすようになり、抱いていた憎しみは徐々に戸惑いへと変わってゆく。蝶子に政は分からないが、自室に引籠っていても夫を中心に染乃国が動いていることは感じられた。 国を豊かにしたい、民を幸福にしたいという思いを動力にして領内を駆け回る姿は、皮肉なことに亡き兄を彷彿とさせた。だからこそ蝶子は、秀久にたてついて村人たちを城へ避難させたのだ。 伊織も不在にしていなければ、きっと同じことをしただろう。蝶子はそう信じていた。 彼は藍染を大事にしているが、それ以上に染乃に暮らす民たちを大切に思っていることを、蝶子はもう知ってしまっているのだ。
 互いに協力し合ったならばきっと良い関係が築けただろうに、何故兄との和平交渉を反故にして命を奪ったのだろうか。 その理由は未だ不明であるが、当主である伊織が今命を失うと染乃国が混乱に陥ることは明白であった。城内は後継者争いで紛糾し、蝶子自身の立場も危うくなるだろう。 己の為にも、そして何よりこの国にとって伊織は必要不可欠な人物であり、だからこそ蝶子は夫の無事を願っていた。
「お屋形様も虎之新様も、雲の動きや風向きから天候を読み取る術に長けておられます。必ずご無事で戻られます故、どうぞ今宵はお休み下さいませ」
「そうね、きっと桔梗の言うとおりだわ」
 まるで言い聞かせるように蝶子がそう呟くと、桔梗が微かに笑みを浮かべた。ふだんは表情の変化に乏しい侍女だが、今は主を労わるような優しい表情を浮かべていた。
「もしも奥方様が倒れられますと、戻られたお屋形様がご心配なされます故」
 そう言いながら、桔梗は空になった湯呑みを盆にのせて立ち上がった。部屋を辞そうとしている侍女の名を呼ぶ。蝶子の呼びかけに、彼女ははいと小さく答えて顔を上げた。
「村へ向かったという篠田殿が戻られたら、すぐに教えて頂戴。何か動きがあれば、例え些細なことでもわたくしにも知らせるよう、他の者にも伝えておいて」
 それは眠るつもりはないという宣言でもあったが、桔梗はもう何も言わなかった。この状況で眠ることなどできないと、彼女も分かっているのだ。 短く返事をすると、やがて侍女は静かに部屋をあとにした。

 ひとり残された部屋には、相変わらず風が板戸を叩く音が響いていた。布団に入ることなく、姿勢を正してそっと手を合わせると御仏に祈りを捧げる。 被害が最小限に食い止められるように、犠牲者が出ないように、そして伊織たちが無事に戻って来るようにと。それらのことを、蝶子はただひたすらに祈り続けた。
 どれくらい時間が過ぎたのだろうか。いつしか風の音が弱まり、時折板戸を叩く程度になっていた。蝶子は立ち上がると、音をたてないように注意を払いながらそっと板戸を開けた。 夜明けが近いようで、雨はまだ降っているものの東の空は微かに白んでいた。まだ報告が来ない為に被害状況は分からぬが、とりあえず嵐が過ぎ去ったことに蝶子はほっと胸をなでおろした。
 その瞬間、襖の向こうから何やら話し声が聞こえたような気がした。家臣の誰かが戻って来たのだろうか。蝶子が耳を澄ませていると、足音がこちらへ近づいて来る。 蝶子は少し緊張しながら、静かに立ち上がった。足音が蝶子の部屋の前で止まると、やがて遠慮がちに声をかけられた。
「……姫」

 その瞬間、蝶子の心臓が音をたてて跳ねた。
 桔梗にしては足音が大きかったのでてっきり他の侍女だと思っていたのだが、声の主は予想外の人物であった。驚きのあまり返事を忘れたのを、襖の向こう側の人物は蝶子が眠っていると判断したようだ。 もと来た方向へ立ち去ろうとした足音に、蝶子は慌てて声をかける。
「お待ち下さいませ」
 その呼びかけに、ぴたりと足音が止まる。一瞬無音になり、再び足音が蝶子の部屋の前へと戻って来る。息をするのも忘れてじっと襖を凝視していると、やがて静かに襖が開いた。

「姫」
 耳に馴染んでしまった低い声が、いささか興奮気味に蝶子を呼ばう。お帰りなさいませ。妻はそう微笑んで夫を出迎えようと思ったのに、けれどもそれは叶わなかった。
「お、お屋形様!?」
 襖が開いた瞬間に、蝶子は伊織に抱きしめられていた。頭が真っ白になり、体中が脈打っている。一体何が起こっているのだろうか。 己の置かれている状況が全く理解できなくて蝶子は必死で思考を繋ぎ合わせようとしていたが、けれどもその試みはあっさりと阻まれてしまった。
「蝶、蝶子……!」
 耳元に顔を寄せられ、何度も名を呼ばれる。これまで伊織が蝶子の名を口にすることはなく、いつも短く姫と呼んでいた。 けれども今、夫は触れることをしなかった妻をきつく抱きしめ、その名を囁いているのだ。 何かあったのだろうかと想像を巡らせてみるも、熱に浮かされたように呆けてしまった頭ではその理由を考えることは不可能であった。


 どれくらい抱き合っていただろうか。唐突に、伊織はその体を引き離した。
「すまぬ」
 何に対する謝罪か分からなくて視線を上げると、そっと顔を逸らされた。
「私のせいで着物を濡らしてしまった。体を冷やさぬよう、すぐに着替えられよ」
 そう言われて、ようやく蝶子は伊織がずぶ濡れであることに気がついた。その状態で抱きしめられたので、蝶子の着物もすっかり濡れてしまっていたのだ。
「わたくしは大丈夫ですので、どうか気になさらないでください」
「すまぬ。私も着替えて参る故、姫も風邪を引かぬうちに着替えられよ」
 そう言うと、伊織は慌しく部屋をあとにした。

 伊織の足音が聞こえなくなると、蝶子はへなへなとその場に座り込んだ。
 鍛えられた体は硬く、抱きしめる腕は力強く、伝わる体温は熱かった。ひとり部屋に残された蝶子の体には、伊織に抱きしめられた感触が鮮明に残っており、思い出すだけで体が沸騰しそうになる。
 ――蝶子。
 この地に嫁いで来てからは呼ばれる機会がなかったが、幼い頃から両親や兄には何度も呼ばれてきた名前。けれども伊織が発する音は、家族が口にするのとは違う熱を孕んでいた。
 心を静める為に、自分で自分を抱きしめる。早く着替えなければと思いながらも、蝶子はいつまでもその場に座り込んだまま立ち上がることができなかった。

 


2015/03/30 


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