伊織が出立した翌朝は澄み渡った空が広がり、とても嵐が来るようには思えなかった。
けれども午後から吹く風がにわかに強まり、がたがたと板戸を鳴らす音のせいで夜はあまり眠ることができなかった。
「この国ではいつも、これほどまでに荒れるのですか?」
夜明け頃から雨が降り始めた為に、今日は板戸を閉めたままだ。徐々に雨脚が強くなるのが板戸越しに伝わってきて、蝶子は不安を感じながら傍らに控えている桔梗にそう尋ねた。
「はい。多い年は、このような野分が秋のうちに何度か訪れます」
「何度も。それは難儀ね」
桔梗の答に、穏やかな気候の国で育った蝶子は眉を寄せた。
もちろん穂積でも天候が荒れることはあるし、現に蝶子が生まれる前には大嵐が収獲前の稲をすべてなぎ倒したことがあり、その年は多くの人々が飢饉に苦しんだと聞いている。
けれどもそれは稀なことで、基本的に気候が安定している地で育った蝶子にとって、秋が来るたびに嵐が訪れる地に住まう人々の苦労は想像もつかなかった。
板戸の向こう側では、ごうごうと風が鳴っている。会話が途切れると、風の音がより大きく聞こえた。
蝶子が誤って堕胎の薬を雲雀に渡してしまってからも、桔梗はこれまでと変わらず淡々と仕えてくれている。
無口な侍女だが細かいことにもよく気づき、決してその仕事ぶりに不満はない。けれども彼女が、己の婚約者を殺めた国の姫である蝶子に対し壁を築いていることは明白であった。
そしてその壁は蝶子が過ちを犯して以来、より高くなってしまっている気がしてならない。だから雲雀が今どうしているのか、そして姉妹の母親の容態は安定したのかを蝶子は尋ねられずにいた。
吹き荒れる風の音はまるで怨霊の呻き声のようだ。
じわじわと湧き上がってくる不安感を紛らわす為に蝶子は裁縫箱を開けてはみたものの、閉ざされた室内は暗く、結局は手持ち無沙汰でただ息をひそめていた。
「本当に大丈夫かしら……」
突風にひときわ大きく板戸ががたりと鳴った瞬間、蝶子は無意識のうちにそう零していた。昨日風が強まりだして以降、侍女たちは染乃国では珍しいものではないので心配する必要はないと口々に言っていた。
この地に生まれた者たちが言うのだから、きっとそうなのだろう。何も分からない自分が大騒ぎして余計な手間をかけさせるわけにもゆかず、蝶子はすべての対応を家臣たちに任せていた。
けれども蝶子には、先程から狂ったように吹く風の音がとても尋常には思えないのだ。
庭の木々は折れていないだろうか。城下に暮らす者たちは大丈夫だろうか。川沿いに住まう村人たちに被害は出ていないだろうか。
それから、領内のどこかへ赴いている夫は無事に雨風をしのげているのだろうか。
「少し失礼いたします」
けれども、桔梗は蝶子の問いに答えてくれなかった。ただ短くそう告げると、どこへという問いが声になる前に部屋を出てしまった。
相変わらず風が吹きすさび、庭の木々をざわりざわりと大きく揺さぶる音が聞こえてくる。
油皿に灯された小さな炎が薄闇を仄かに照らしているが、時折部屋の中にまで吹き込んでくるすきま風にかき消されそうになっていた。
ひとりでじっとしていると時間が長く感じられるが、それでも桔梗が部屋を出て半刻近く経っていると思われる。けれども侍女は一向に戻って来る気配はなかった。
(何かあったのかしら……)
しばらく逡巡したのち、蝶子は現状を確認しに行くことに決めた。何もできないならば邪魔にならないようにしておいた方が良いと思っていたが、どうにも事態が予想以上に悪い気がしてならないのだ。
じっと嵐が過ぎるのを待っているだけで済むのであればそれに越したことはないが、もしも何らかの判断を下さねばならぬなら、さすがにひとりのんびりと部屋に籠っているわけにはいかない。
桔梗が見つかれば一番良いのだが、とにかく誰かに一度報告をしてもらうべきだと蝶子は思った。
部屋を出ると、風の音が一層大きく聞こえるような気がした。あたりに人の気配はなく、蝶子は誰もいない廊下を足早に進んで行った。
「申し上げます。新橋付近の水かさが上がり、かなり危険な状態にございまする。村の男衆が堤を防いでおりますが、堤が決壊するのも時間の問題かと思われます!」
不意に野太い男の声がした。ただならぬ様子に、蝶子は思わずびくりと体が硬直した。
「そうはさせられぬ。何としてでも川の決壊を防ぐのだ!」
「なれど風雨が激しく、増水してこれ以上川に近寄るのは危険にございます」
「たわけ! 村が水に飲まれたら、来年の藍の生産はどうなるというのだ。男だけで手が足りぬのならば、女も子供も年寄りも、動ける者は皆動員して一気に堤を防げ!!」
どうやら緊急事態に備えて広間に詰めていた重臣たちの元に、家臣より報告が届いたようだ。
この時期に嵐がやって来ることは分かっていたことで、その脅威を身を持って知っている彼らが備えを怠っていたとは思えない。
けれども予想を超える激しさの大嵐がこの地に襲いかかり、冷静さを失った男たちが今まさに恐ろしい判断を下そうとしていた。
何と愚かな。蝶子は口の中で低くそう呟くと、男たちの怒号が飛び交う広間へ静かに足を踏み入れた。
「これは姫様、いかがされたかな?」
最初に蝶子の存在に気づいたのは、最も上座に座る蒼山秀久であった。当主の留守を守る叔父は蝶子の姿を認めると僅かに瞠目し、けれどもすぐに口元に笑みを浮かべて声をかけてきた。
「お話合いの最中、お邪魔をして申し訳ございませぬ。なれど、あまりにも激しい雨風に城下の様子が気になりまして」
「それはそれはお気遣いありがとうございます。なれど我らは毎年訪れる野分には慣れております故、ご心配には及びませぬ。
どうぞここは我らにお任せいただき、姫様はお部屋でお休み下さいませ」
広間にいた家臣達の視線が一気に己に集中し、蝶子はひるみそうになりながらも真っ直ぐに秀久を見つめて問うた。
それに対して口元を緩めた秀久の眼力は鋭いままで、とってつけたような優しい声音で言い聞かせるように説明した。
このような緊急事態に世間知らずの他国の姫には構っていられないという心の声が、その目にありありと浮かんでいる。蝶子は秀久のそんな言葉を無視し、静かに言い放った。
「川沿いにはいくつか村が点在していると聞き及んでおります。その者たちを、高台にあるこの城へ避難させたいと思うのですが」
喧騒が、蝶子の発言により一瞬で静まり返った。
「一体、姫は何を申されるのか?」
無理矢理に笑みを浮かべながら秀久が発した言葉には、明らかに怒りが滲んでいた。
これまで部屋に籠って何もしなかったお飾りの正室が、このような大変な時に姿を現して勝手なことを言っているのだから怒っても当然だろう。
けれども蝶子とて、先程の会話を聞いてしまった以上は引けないのだ。
「経験豊富な皆様が、多くの策をお持ちでいらっしゃることは重々承知しております。なれど、此度の野分はこれまでにない激しいものなのではないのですか?」
「……」
風が強まり始めた頃は落ち着いていた桔梗が、どこかへ行ったきり戻って来ない。普段は泰然と構えている秀久も、今日はいつものような余裕がない。
先程の切羽詰まったやりとりを聞いたあとで大丈夫だと言われても、部屋に戻ってのんきに過ごすわけにはゆかぬのだ。
「嵐に慣れている村の者たちの力を借りて、川の決壊を防げるならばそれに越したことはありません。なれどもしもそれが難しいのなら、身を守ることを優先させることが大切なのではないでしょうか?」
「姫は、すべてが水に流されても良いと、そう申されるのかな?」
まるで聞き分けのない幼子に言い含めるような声音だが、射抜くように蝶子を見つめるその眼は怒りに血走っていた。黙って秀久とのやりとりを聞いている家臣たちも、鋭い視線を蝶子に向けてくる。
「家を、畑を、村を守ることは大切です。なれどそれが叶わぬのなら、命を優先させたいと申しているのです」
「叶わぬかどうかは、やってみなければ分からぬではないか!!」
不意に右端から怒声が飛んだ。それを皮切りに、家臣たちがそれぞれ己の意見を声高に主張した。
「先程のお話では、この暴風雨で作業がはかどらぬとのこと。その中に女子供を加えれば、川の決壊を防げると申すのですか?
増水した川に子供が流され、被害が増大する可能性が高まるのではないですか?」
「恐れながら奥方様は他国のご出身故、藍畑やすくもが我らにとっていかに重要かお分かりではないのでしょう」
再び右端から声がした。蝶子がそちらへ視線を向けると、整った顔立ちの男がこちらに冷ややかな視線を向けていた。
周囲の者たちも、蝶子の立場を慮っているのか口にこそしないが、その表情から彼と同意見であることは明らかであった。
「ええ、分かりませぬ」
その場に居る者たちを一瞥すると、蝶子はきっぱりとそう言い放った。予想もしない答だったのだろう。一瞬しんと静まり返る。けれどもやがて、じわじわと広間の空気が怒りに支配されていった。
「いくら奥方様といえど、今の発言は許されませぬ。これは染乃への冒涜ではござらぬか!!」
こちらへ向けられる怒りの目。戦場で幾度となく命を懸けてきた男たちの迫力に、蝶子の脚はかたかたと震えた。
けれど、それを悟らせるわけにはゆかない。そっと深呼吸すると、蝶子は強く拳を握りしめた。
「わたくしには分かりませぬ。藍畑やすくもが、民の命よりも大切なのですか?」
「奥方様の仰ることは正しいやも知れませぬ。なれど、綺麗ごとだけで国は成り立たないのです。藍染は我が染乃国の財産だ。それを守ることこそが、民たちに課せられた使命なのでございます」
「それで藍畑やすくもが守られたとて、その担い手の命が奪われたら誰が引き継ぐというのです?」
必死だった。蝶子は自分よりも遥かに年かさの男たちを前に、半ば叫ぶようにそう訴えていた。
「わたくしが染乃に嫁いで参ったのは、多くの人々の命を奪う戦を終わらせる為にございます。民が平和に暮らす国を目指すという、亡き兄の想いを継ぐ為にございます。
決して幼い子供が命の危険に晒されているのを見過ごす為ではございません」
敵国の姫が信用されていないことは、蝶子とて重々承知している。彼女が広間に姿を現した時の家臣たちの冷たい視線も、仕えてくれている桔梗のどこか突き放した態度も。
何よりも、蝶子が善意で雲雀に渡した薬が密かに調べられていたことが、どれだけこの国で彼女が信用されていないかを物語っていた。
無論そのお陰で、蝶子の軽率な行為が取り返しのつかない事態を引き起こさずに済んだ。伊織が怪しんでいなければ、蝶子は一生罪を背負うことになっただろう。
それは理解しているし、夫の冷静な判断には心底感謝している。けれども心の片隅で、やはり疑われていたのかという昏いわだかまりが存在しているのもまた事実なのだ。
しかしながら、たとえ染乃の人々に蝶子の存在が受け入れられなかったとしても、これだけは譲れない。お飾りの正室でも、民の命が奪われるのを阻止しなければならないのだ。
これは、政略結婚で敵国へ嫁いで来た蝶子の矜持であった。
「秀久様はこれまで何度も軍を率いて活躍されたと聞き及んでおります。戦場で名を馳せた将軍ならば、戦況に応じて軍を引く勇気もお持ちでございましょう」
弓の名手として謳われた秀久を真正面から見据えると、蝶子はそう言い放った。相変わらずその眼力が、圧倒的な威圧感を与えている。
けれども不思議なことに、先程までの気圧されるような感覚は消え去って、驚くくらい蝶子の心は凪いでいた。
「……承知した」
「秀久殿!!」
低く発せられた言葉に、家臣たちがどよめく。次の瞬間、右手の男が立ち上がらんばかりにして秀久の名を呼んだ。
そんな混沌とした空気を打ち破ったのは、涼やかな女の声であった。
「失礼いたします。奥方様、これより準備いたしますので他に必要な物がございましたらご指示下さいませ」
後方より呼びかけられて蝶子が振り返ると、そこには桔梗が控えていた。主が部屋にいないことに気づき、探しに来たのだろうか。
彼女の言葉の意味が分からず蝶子が戸惑っていると、男たちが苛立ったように怒鳴りつけた。
「おい女、まだ評議は終わっておらぬ。出てゆけ!」
けれども桔梗は意に介する様子もなく、ただ黙って蝶子を見つめている。それはまるで、蝶子の指図を待っているかのようだ。
そこでようやく、蝶子は桔梗が避難して来る村人たちの受け入れ準備を進めようとしていることに気づいた。
「そうね、乾いた布が欲しいわ。あとは体が冷えているでしょうから、湯を沸かしておいて頂戴」
「承知いたしました」
思いつくままに蝶子が指示すると、桔梗は短く答えて立ち去った。蝶子には彼女の表情が、心なしか満足げに見えた。
男たちはまだ何やら口々に訴えているが、蝶子は桔梗を手伝う為に颯爽と広間をあとにした。