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の居る場所



 野分の章  壱


拝啓

 爽やかな秋晴れが続いております。染乃城の皆様にはますますご清祥のことと存じます。
 さて此度は、某と武藤家ご息女薫子殿との婚約に際しお祝いをお送りいただき、誠にありがとうございました。 蒼山家の一方ならぬお心遣いを賜り、感謝の念に堪えません。お陰様で婚儀の日取りも決まり、今は妻を迎える準備を進めております。 此度の婚儀を機に武藤家との関係をより深めて参りまして、紅野家の更なる繁栄に努めます故、どうぞご安心下さい。
 慣れぬ地ので暮らしは気を張ることも多いかと存じますが、またお時間がある時にでも近況を知らせてもらえると嬉しいです。
 日ごとに秋冷の加わる頃、何卒ご自愛のほどお祈り申し上げます。

敬具



* * *   * * *   * * *



 蝶子が蒼山家へ嫁いで、三ヶ月が過ぎようとしていた。
 季節は夏から秋へと移ろい、吹く風も庭に咲く花も変化したが、けれども蝶子と伊織の関係は染乃国に嫁いで来た時から何ら変わりはない。 相変わらず伊織は穏やかで、相変わらず蝶子に触れることはなかった。蝶子は一日の大半を自室で過ごし、たまに訪れる客人に挨拶をする程度だ。 一時期は城内の広大な庭園に出ることもあったが、最近はもっぱら自室の小さな庭で秋の草花を愛でるのみであった。

「姫」
 伊織とはこの先も、真の夫婦になることはないのだろうな。そうぼんやりと考えていると、不意に目の前にいる夫から声をかけられた。 慌てて返事をすると、蝶子は広げていた手紙を丁寧に折りたたんで懐に仕舞った。
「急な話だが、これから出かけることになった。場合によっては暫く戻って来られぬやも知れぬ」
 夫がどのような人物なのか未だによく分からないが、ひとつだけ蝶子が知っていることがある。 それは、何か面倒ごとが起こった際に伊織は人任せにせず、後回しにもせず、すぐに自身が出向いて対応にあたるということだ。 忙しい伊織が珍しく日が高いうちに蝶子の部屋を訪れたのは、てっきり義兄から届いた文を届けてくれる為だとばかり思っていたが、実は留守にすることを知らせるのが目的であったようだ。
「承知いたしました」
 そう短く答えた。どこへとも、どれくらいとも、蝶子は尋ねることはしない。稀に教えてくれることもあるが、言わないのは言えないのであって尋ねられても困るだろう。 さすがに敵国の姫である自分に、すべての情報が回ってくるとは思っていなかった。

「もしかすると、私の留守中に野分がやって来るやも知れぬ。その際は、決して外には出られるな」
「とても良い天気に見受けられますが……」
 夫の言葉に部屋の外へ視線をやると、蝶子は少々戸惑い気味にそう尋ねた。なぜならば開け放した戸の向こうに広がるのは雲ひとつない青空で、とても嵐が来るとは思えなかったのだ。
「前に申したと思うが、染乃ではこの時期になると野分がやって来る。午の方角から湿った風が吹けば、それが嵐の来る予兆だ」
 確かに以前、染乃国では収穫の時期に必ず嵐が訪れ、せっかく実った作物をすべてなぎ倒してゆくのだと言っていた。 嵐が訪れる時期よりも前に収獲できる藍は染乃の地に適しており、だからこそ藍染が盛んになったのだと夫は説明してくれたのだ。
 言われてみれば庭から吹き込む風は若干の湿気を含んでいるが、生まれ育った穂積国に殆ど来ることのなかった野分というものがどれほどの威力があるのか想像もつかず、蝶子は不安げに夫を見やった。
「大丈夫だ。私は虎之新と数名の従者を連れて参るが、城には叔父上をはじめ大勢の者が残っている。毎年のことで皆慣れておる故、姫は何も心配されることはない」
「はい」
「この城は高台にある故、万一川が氾濫してもここまで水が来ることはない。小さいが丈夫な城なので安心されよ」
 染乃に暮らす者たちは皆、自然の猛威に打ち勝った者なのだ。だから蝶子は、伊織の言葉に素直に頷いた。けれども、己に関してではなく別の不安か心を掠める。 そんな妻の表情に、怯えていると思ったのか夫はしきりに心配ないと繰り返した。
「わたくしのことは案じておりませぬ。皆様に迷惑をかけぬよう、嵐が静まるまでこの部屋で大人しくしております。なれど……」
「何だ?」
「お屋形様の道中が心配にございます。慣れておいでだと分かってはおりますが、宿に着く前に嵐が来ればどうなるのでしょう?  きっと火急の用向きがおありなのでしょうが、くれぐれも御身を大事になさって下さいませ」

 冷酷な鬼だと思っていたその人は、物静かな人であった。
 蝶子が夫に対して最初に感じたのは恐怖だ。このように穏やかな人物が穂積国を謀り、兄を殺したということがひたすらに恐ろしかった。 けれども、交わされる短い会話の中に民に対する想いが垣間見え、恐怖は徐々に戸惑いへと変わってゆく。 憎しみが消えることはなくとも、この人が染乃国の領主である間は穂積に戦をしかけるようなことはないだろうという、根拠のない確信が少しずつ芽生えてきたのだ。
 伊織が想う相手は瑠璃で、蝶子との間には互いの国を守るという利害の一致しかない。 それどころか、蝶子が夫を政略結婚の相手として信頼に足ると判断したほどには、伊織は妻のことを信用してはいないだろう。 それは先日の件で分かっている。それでも、嵐が来ると分かっていても出かける夫をあっさり見送れるほど、蝶子は薄情ではなった。
「約束する。決して無理はせず、必ず無事に戻って参る」
 蝶子の言葉が意外であったのだろうか。珍しく微かに瞠目した伊織は、やがて静かにそう宣言した。
「お帰りをお待ちしております」
 蝶子がそっと手をついて頭を下げると、伊織は力強く頷いて立ち上がった。



 いつもの丘の上まで愛馬を駆ると、伊織は後ろに続いている筈の家臣たちを振り返った。空はどこまでも高く澄み渡り、風が薄い雲を散らせている。 間もなく主に追いついた大柄な男は、南の方角を見やると誰にともなく呟いた。
「風が湿ってきたな。我らが戻るまで天気がもってくれれば良いのだが」
「へえ、風で分かるのですか?」
 伊織の従兄でもある虎之新の言葉に、小柄な男が馬の背を撫でながら感心したように尋ねる。
「毎年のことだから、嫌でも分かるようになるさ。野分が来れば足止めをくらってしまう故、さっさと片づけて来なければならぬ」
 なあ伊織と、虎之新は従弟に向かって同意を求めた。けれども当主から返ってきたのは、どこか上の空な答えだった。
「やはり伊織は残るか? 別に俺は構わんぞ」
「何を申すか。せっかく浅葱の長が動いたのに、ここで当主が動かなくてどうする」
 馬を走らせている時から伊織は何か思案しているようで、だからいつものように飄々とした口調で虎之新はそう提案した。けれどもそんな従兄の言葉に、伊織は思わず気色ばんだ。
「なれど、心配なのだろう?」
「確かに気がかりだが、多少大きな嵐が来ても城に残った者たちは皆慣れておるので何とかしてくれるさ」
 そうではなくてと、従弟の反論に虎之新は呆れたように呟いた。隣で小柄な男が苦笑いを浮かべている。
「俺が言っているのは、城のことではない。姫さんのことだ」
 思わず言葉を失った主の隣で、草を食んでいた愛馬がひんと鼻を鳴らした。

「姫さんが持っていた他の薬は、別に怪しいものではなかったのだろう?」
 先日、伊織の妻である蝶子は桔梗と雲雀の母親が悪阻に苦しんでいると聞きつけ、己が故郷から持参した薬を授けた。 けれどもそれは堕胎薬であり、念の為に伊織は妻が持っていた他の薬も調べさせたのだが、それらは彼女が把握している効能と変わりはなかった。
「ああ。彼女が言った通り、解熱と鎮咳の薬ではあった」
「ということは、悪阻の薬として渡されたものだけがすり替わっていたと……」
 見晴らしの良い丘の上にいるのは三人だけであるというのに、無意識のうちに男たちは声を落としていた。それまで黙っていた小柄な男が、そこでおもむろに口を開く。
「ではあった、とはどういう意味で?」
「さすがは十の字、鋭いな」
 男は伊織の言葉に違和感を感じたのであろう。その感覚に内心舌を巻きながら、伊織は溜息まじりに説明した。
「三種の薬は皆、同じであったのだ」
「同じ?」
「すべて鬼灯であった。その薬効は解熱や鎮咳とされているらしく、つまり残りの二種類の薬が正しいことに間違いはないのだ」
「なれど、そうであればまとめて渡して複数の効能があることを説明すれば良いだけのこと。わざわざ分けることに、意図を感じずにはいられまい」

 虎之新が吐いた正論に、男たちは黙り込む。やがて小柄な男が、低い声で呟いた。
「犯人は、恐らく奴で間違いないでしょう。直接渡したのか誰かに託したのかは知りませぬが、どちらにせよ奴にとって姫さんにあの薬を持たせることはさして難しいことではない」
「何故そこまで……」
 理解ができぬと小さく首を振りながら、虎之新が誰にともなく問いかける。
「姫さんが伊織様のお子を宿した際、あの侍女の子と同じように流してしまう為ですよ」
「それは分かっておる。なれど、別にそのようなことをする必要はないだろう。私は別に奴の立場を脅かすつもりはない」
 淡々とした小柄な男の説明に、伊織は不快そうに眉間にしわを寄せた。蝶子に薬を授けた人物の、彼女の懐妊を何としても阻もうとする執念が何とも無気味であった
「欲深い者には、伊織様のような民が幸せならばそれで良いという考え方が理解できないのです。誰かが己の物を奪うのではないかと、常に警戒しているのでございますよ」

 妻は己に堕胎の薬を授けた人物が誰なのか、知っているのだろうか。誰に渡されたのか覚えていないと言っていたが、気づいているのではないだろうか。 知らずに怯えていたとしても知って傷ついていたとしても、どちらにせよ動揺を見せずに気丈に振る舞っている蝶子がひとりで耐えていることに違いはない。 けれども妻は、彼女に孤独を強いている夫の道中を気遣ってくれたのだ。
「やはり残るか?」
 もう一度、虎之新が尋ねてきた。躊躇なく、伊織は首を横に振った。
「いや、参る」
「そうか」
 即答した伊織に対し、虎之新はあっさりと頷いた。蝶子が義兄である栄進に心を残しているのは明らかで、穂積から届いた手紙を浮かない顔で見つめていた妻をひとりにするのは気がかりだ。 そんな惑いを従兄に見透かされたのが気恥かしくてついむきになってしまったが、けれども自分が行かねばならぬということは分かっている。 平和な国へと導く為、くすぶっている火種はすべて消しておかねばならないのだ。
「十の字、留守中の姫の警護は任せたぞ」
 小柄な男にそう声をかけると、休んでいる愛馬に近寄りその背を撫でた。そろそろ出立せねば、日が暮れてしまう。ひらりと馬の背に跨ると、まっすぐにこちらを見つめてくる視線とぶつかった。

「鬼灯の実は鬼の目にござる。鬼の目が悪さをしないように見張っております故、姫を傷つけた者にはきっと天罰が下りまする」
 染乃ではあまり見られないが、伊織はその赤い実を見たことがある。鬼の目というのは穂積の伝承なのだろうが、その姿を思い起こしてなるほどと納得した。
「そして蝶姫は、曇りのない目を持っておられる。誰が自分にとって害をなす人物で、誰が自分にとって大切な人物かを見極めることができる、聡明なお方なのです」
「分かっておる」
 射抜くように見つめる小柄な男の視線を正面から受けると、伊織は短く肯定した。
「ならば」
「分かっておる」
 尚も言葉を重ねようとする男に対し、伊織は応える声に力を込めた。
 蝶子が曇りのない目を持っていることはよく知っている。だから手元に置けばいつの日かその寛容な心に赦されるのではないかと期待して、けれどもその瞳に映るのが恐怖だと知り線を引いた。 彼女を苦しめたくないという気持ちに嘘はないけれど、彼女が見せる怯えに己が傷つきたくなかったというのもまた事実だ。 妻の元に通わなければ彼女の立場が危うくなるので定期的に顔を合わせるが、傷つけたくないので触れることはしない。

 ――お帰りをお待ちしております。
 そんな卑怯な夫に対し、妻は優しい言葉をかけてくれた。だから今度帰った時にはきちんと蝶子と向き合おうと、伊織はそう決意した。 たとえ蝶子が伊織を今以上に恐れることになったとしても、己が彼女の兄に対して犯した罪を、真実をすべて告白しようと心に強く誓ったのだった。
「では、さっさと厄介事を片づけてくるか」
 黙ってふたりのやりとりを聞いていた虎之新だったが、どこか吹っ切れたような伊織の表情を見やると満足げな笑みを浮かべた。
「姫さんのことはお任せ下さい」
「十の字殿がついておられるので心配はしておらぬ。なあ、伊織?」
 どこかからかうような家臣たちに苦笑いを浮かべると、手綱を握った伊織は愛馬の腹を蹴った。

 


2015/03/01 


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