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の居る場所



 待宵の章  漆


 翌日、いつもの刻限になっても雲雀は現れなかった。
 それどころか桔梗も姿を見せず、今朝は別の侍女が蝶子の世話をしてくれていた。 見知った顔ではあるが、蝶子よりも年少と思われるその侍女はいつも桔梗の補佐的な役目を果たしており、彼女がひとりで付くのははじめてのことである。 もしや姉妹の母親に何かあったのではないかと嫌な予感がよぎったが、聞けば桔梗はふだんどおり城に詰めているそうだ。 侍女頭の命令で桔梗の代理を務めている年若い侍女も、何も詳細を知らされていないとのことであった。

 このところ秋晴れが続いていたが、今日は朝から灰色の雲が空を覆っている。ただでさえ心が騒ぐのに、暗い空の色が余計に不安を掻き立てると蝶子は憂鬱に感じた。 気を紛らわす為に、裁縫箱を手繰り寄せる。雲雀が選んだ鮮やかな色の布を手に取ると、蝶子は心の内でそっと祈りを捧げた。
(雲雀の無邪気な心を傷つけるようなことが起こっていませんように……)
 欝々と思案していた蝶子だったが、やがて直接尋ねてみれば良いのではないかと思い至った。 侍女頭は事情を知っているようなので、何も分からぬまま案じているよりもいっそ彼女に確認した方が早い。 そう決意して端切れを元のように裁縫箱に仕舞っていると、襖の向こうから声がした。
「失礼いたします。お屋形様のお成りにございます」
 先程、茶の準備をすると言って出て行った侍女の声だ。はいと短く答えると、ゆっくりと襖が開いて伊織が部屋の中に入って来る。その後ろには、桔梗が控えていた。
「桔梗、何かあったのですか? まさか母君のお加減が……」
 先程まで世話をしてくれていた年少の侍女が下がったのを確認すると、蝶子は声を落としてそう尋ねた。 その問いに対し、桔梗は黙ったまま蝶子の目を射抜くように見つめていたが、やがてそっと視線を逸らした。 何も答えぬまま、哀しみとも怒りとも戸惑いともつかない複雑な表情を見せる侍女に蝶子が困惑していると、夫である伊織が静かに口を開いた。

「姫、これに見覚えはあるか?」
 そう言って伊織が差し出したのは、和紙を小さく折りたたんだものであった。知っているも何も、それは昨日蝶子が雲雀に手渡した薬である。 幼い雲雀では理解できぬと思ったので、あとで桔梗にも効能と用法を伝えていたが、何故それが夫の手元にあるのだろうか。 蝶子は問い質すように桔梗を見やったが、侍女は主の視線を無視して無表情で紙片を見つめていた。
「それは、わたくしが雲雀に渡したものにございます」
 蝶子がきっぱりと言い切ると、伊織は微かに苦悩する表情を見せた。
「これは、どこで手に入れられた?」
「輿入れの際、嫁入り道具と共に穂積より持って参りました」
「誰に渡されたのか?」
 伊織の問いは、まるで尋問のようだ。これまで蝶子が夫と言葉を交わしたのは数えるほどだが、彼の口調は常に穏やかで、このように詰問されるのははじめてのことだった。

「……覚えておりませぬ」
「そうか」
 一体、何が起こっているのだろう。夫も侍女も感情を消していて、その表情からは何も読み取ることができない。 ただ何か良くない事態が生じていることだけは予想できたが、詳細が分からない以上、蝶子が迂闊に答えることは躊躇われた。
「これは薬であると見受けられるが、何の薬であろうか?」
「子を宿した際の、悪阻を和らげる薬かと」
 いつか蝶子が伊織との子を身篭った時に、悪阻を和らげて健やかな世継を産む為に必要なもの。 蝶子の為に調薬したものだから、その時まで大切に保管しておくようにと手渡されたものだ。
「それは穂積国において、よく服用されるものであるのか?」
「そこまでは存じませぬ。なれど穂積では優秀な薬師が多数おります故、さほど珍しいものではないと思われます」
「薬師か……」
 そう呟くと、伊織は黙り込んでしまった。重く雲が垂れ込めた空からは今にも雨粒が落ちてきそうで、生暖かい風が庭の草木をざわりとざわりと揺らしている。
「姫」
 永劫続くかと思われた沈黙は、蝶子を呼ばう伊織の声で破られた。
「姫が雲雀に持たせた薬は、悪阻を和らげるものではない。子を流す薬だ」

 伊織が発した言葉はいつものように穏やかだったが、いつもより僅かに低かった。
「う……そ……」
 震える唇から零れた声は当然震えており、蝶子は己を保つ為にぎゅっと唇を噛んだ。
「残念ながら事実だ。たまたますれ違った際に雲雀が見慣れぬものを持っていたのを聞き咎めたのだが、服用する人物が身重である故、いささか不安になり念の為薬師に調べさせたのだ」
「母君は!?」
 ようやく母子の安否に思い至り、蝶子は身を乗り出すようにして上ずった声をあげた。祈るように手を合わせるが、その指先は血の気が引いて冷たくなっていた。
「大丈夫だ。先に危険な薬だと分かったので、服してはおらぬ」
 良かった。安堵の溜息と共に声が漏れる。体中の力が抜けて、蝶子はそのまま前に手をついた。
「姫、大丈夫か?」
 慌てたように夫が声をかけるが、蝶子は顔を上げることなく、逆に深く頭を垂れた。

「申し訳ございませぬ」
「姫、顔を上げられよ。姉妹の母御は無事だったのだ」
 伊織がそう言って蝶子の両肩を掴んだが、彼女は頭を下げたまま謝罪の言葉を重ねた。
「幼い心を痛めている雲雀が不憫で薬を渡したのですが、あまりにも軽率でございました」
「何か手違いがあったのやも知れぬ。薬は一種類のみであったか?」
 夫の問いかけに対し、一瞬の間をおいて震える声で妻が答えた。
「いえ、解熱と鎮咳の薬も含まれておりました」
「ならば薬師が間違えたのかも知れぬ。もしくは薬師から預かった者が、輿入れの荷を整える際に混同した可能性もある。 染乃に到着してから、荷解きの際に入れ替わったことも考えられるのではないか」
「なれど……」

 蝶子の輿入れに際しあの方が調薬したものだから、間違えなどありえない。 それを渡される際には種類によって小さく目印がつけられていたので、混同した可能性もない。 染乃に到着してからはずっと裁縫箱の奥底に仕舞っていたので、入れ替わることなど考えられないのだ。
 けれど、知らぬとはいえ堕胎の薬を雲雀に託したのは蝶子だ。子を宿した母が口にするものには慎重であるべきなのに、安易に薬を渡した行為は軽率としか言えなかった。
「確かに迂闊であったかも知れぬ。なれど、すべては気落ちしている雲雀を気遣ってのこと。幸い未然に防ぐことができた故、姫ももう自分を責められるな」
 諭すようにそう言うと、伊織は遠慮がちに掴んでいた蝶子の肩を起こした。恐る恐る蝶子が顔を上げると、脇に控えていた桔梗の切れ長の目が静かにこちらを見つめていた。
「本当にごめんなさい」
「いえ」
 桔梗はただ短く、無表情でそう答えた。せっかく雲雀を通じて会話が少しずつ増えていたのに、恐らく関係の改善は不可能だろう。 雲雀とも、もう会うことは叶わないかも知れなかった。

 伊織は蝶子のあまりに軽はずみな行為を、雲雀を気遣ってのことだと慰めた。確かにそれは間違いではない。けれど、蝶子があの薬を雲雀に授けた理由は、それだけではないのだ。
 喉の奥から、熱い塊が込み上げてくる。ゆっくりと息を吐き、乱れそうになる呼吸を整える。今泣くわけにはいかなかった。 幸いにも伊織の機転で最悪の事態を逃れたものの、危うく小さな命が奪われたかも知れないのだ。それだけではない。 下手をすれば、母体の命さえ危うかっただろう。そのような危険に晒してしまった蝶子が、決して彼女らの前で涙を見せるわけにはゆかないのだ。
 蝶子があの薬を雲雀に授けたもうひとつの理由は、手元に持っていたくなかったからだ。いつか伊織との子を身篭った時に使うようにと、わざわざ穂積から持って来た薬。 けれども夫に触れられることのない妻に、そのような薬は必要ない。雲雀を気遣う気持ちに嘘はないけれど、だけどあの薬を手放したかったのも本当のことなのだ。

 部屋の外には灰色の空が広がり、部屋の中に重苦しい空気が漂っている。時折吹きこんでくる湿気を含んだ風は重く、どうにも不快に感じられた。
「ただの間違いであれば良いが、此度のことは見えざる悪意が働いている可能性もある」
 やがて口を開いたのは伊織の口調は、穏やかだが明瞭であった。夫の言葉に一瞬瞠目した蝶子は、震える声で尋ねた。
「穂積が仕組んだことであると?」
「この時勢だ、誰が仕組んでもおかしくはない。穂積も染乃も、その他にも……」
 自分には必要ないと思われたので手放した薬だが、本来は蝶子が服用する筈だったもの。 つまりは染乃国の世継が生を受けることを、妨げようとする者がいるということだ。淡々と語る夫を見据えたまま、蝶子はごくりと唾を飲んだ。
「すまぬ、少し大袈裟に言い過ぎたか。無論ただの間違いという可能性もあるが、一国一城の主の座を狙う者が国内外に多くいるというのも事実。用心するに越したことはないのだ」
 取り乱すことのない冷静な声を聞きながら、蝶子は夫が今回のことを本心ではどう思っているのかと推しはかった。 妻を気遣うように言葉をかけてくれてはいるが、本当は穂積が仕組んだものではないかと疑っているかも知れない。 もしくは正室として相手にされぬ蝶子が騒ぎを起こそうと企てたものだと、そんな風に考えても不思議ではなかった。

 俯いたまま黙り込んだ蝶子の様子を、気遣わしげに伊織が見つめていた。一瞬微かに右腕が動きかけたが、けれども妻のその華奢な体に再び触れることはなかった。
「あまり思い悩まれるな。顔色が悪いし、今日は早めに休まれるが良い」
 何か不審なことがあればすぐに言うようにと念押しすると、やがて伊織は蝶子が穂積より持ち込んだ残りの薬を持って出て行った。 念の為、それらの薬も調べさせるとのことであった。


 ついに空からは、大粒の雨が降り出してきたようだ。板戸がぴたりと閉められているにも関わらず、雨が地面を叩く音がはっきりと聞こえていた。 薄暗い部屋には、蝶子ひとりである。桔梗は夕餉の支度をすると言ったが、今日はとても食事が喉を通るとは思えず、蝶子は早々に侍女を下がらせた。
 先程までは混乱している思考を整理する為にひとりになりたいと願っていたのに、いざひとりにされると急に心細くなった。怖い。 ひたひたと足元から、言い知れない恐怖が這い上がってきた。 信頼していたけれど、調薬してくれたあの方が仕組んだのだろうか。それとも慕っていたあの人物が図ったのだろうか。 あるいは想像もしないところで、予想もしない人物が関わっているのかも知れない。 誰がどうやってあのような恐ろしい薬を忍ばせたのかは定かではないが、蝶子が伊織の子を成すことを快く思っていない人がいることだけは確かだった。
 不意に隙間風が吹き込んできて、小さな炎が大きく揺れる。蝶子は火が灯っている油皿を引き寄せると、裁縫箱の蓋をそっと開けた。中には雲雀が選んだ色鮮やかな端切れが入っていた。 火の傍で針に糸を通すと、蝶子はそれらを袋状に縫い始めた。きっともう、雲雀とお手玉を仕上げることは叶わない。 桔梗の様子では渡してもらえぬかも知れないが、せめてもの償いに完成させたかった。破れて小石が出てしまわないように、まずは厚手の布で作った袋に入れる。 更にそれを、雲雀が選んだ緋色や紅色の布で仕上げていった。 姿が見えぬ悪意が恐ろしくて、恐怖を振り払うように一心に針を運んでいると、不意にぷつりと左手の人差し指に痛みが走った。

「……っく、うう……」
 ついに堪え切れず、蝶子の喉の奥から嗚咽が漏れる。血が膨らんだ指を口に運ぶと、それを強く噛んだ。涙がぽろぽろと零れ落ち、暗闇を照らす炎が滲んで見えた。
 伊織は先程、誰が仕組んでもおかしくないと言った。確かに、時は乱世である。けれども、蝶子には穂積の人間が関わっているように思えた。 それは蝶子が穂積より持ち込んだ薬であるというのも大きいが、何よりもその原材料となる植物にあった。
 先程から嗚咽を堪えようとしているのに、呼吸が乱れるばかりで治まらない。 母の形見の裁縫箱にすがるようにして泣く蝶子の耳の奥に、先程の伊織との会話が蘇った。


「お屋形様、ひとつだけお教え下さいまし」
「何だ?」
 立ち上がった夫に対し、蝶子は先程から気になっていたことを尋ねた。
「わたくしが雲雀に託した薬は、何の植物からできたものだったのでしょう?」
 穂積に育つ植物のすべてを把握しているわけではないが、草花が好きな蝶子は人よりも多くの知識を持ち合わせているという自負がある。 もしも聞いたことがない植物ならば、穂積の人間が携わっている可能性は低くなるのではないか。そんな思いが心の奥底にあった。 蝶子の問いに黙って妻の顔を見つめ返した伊織だったが、やがて静かに口を開いた。
「堕胎の薬に使われていたのは、鬼灯の根だ」



* * *   * * *   * * *



 殆ど手が付けられていない膳を手に、女は赤く夕日が染める渡り廊下を足早に歩いていた。 当主である紅野和孝は相変わらず評定の合間に横になることが多く、食欲は落ちる一方であった。 漬物と麦飯が僅かに減っているだけの膳に視線を落とすと、女はそっと溜息をついた。

 穂積城の秋は赤い。庭の紅葉はまだ微かに色づいている程度だが、縁側のすぐ傍に並ぶ鬼灯は真っ赤な実をつけていた。 穂積国では鬼灯が至る所に自生しているが、赤色を好んだ和孝が城内に多く植えさせたと聞いている。 そんなとりとめのないことを思っていると、前方から微かに足音が聞こえてきた。女は柱の脇に身を寄せると、そっと頭を下げた。
「今宵もそれだけしか召し上がられなかったか……」
 声の主は、愛しい人であった。けれど、誰が通るかも知れぬ廊下で気安く声をかける訳にもいかず、女は控えめに頷いた。
「今朝は召し上がられたか? 薬湯は?」
「朝は粥を椀に半分ほど召し上がられました。薬湯は、本日はお飲みになりませんでした」
 男が用意した薬は、今も煎じて当主に出している。相変わらず女がまず口にするのだが、当主は気が向けば飲み干す日もあるが、今日はひと口も飲まなかった。 この方が、こんなにも主の健康を案じているのに……。いっそ誰が用意したものか暴露したい思いにかられるが、それは男の本意ではないので踏みとどまっていた。
「申し訳ございません」
 男の当主に対する誠実な思いを自分が最も知っている筈なのに、己の無力さが女は情けなかった。思わず小さな声で詫びると、頭上から優しい声が降ってきた。
「謝ることはない。そなたは良くやってくれている」
 それは侍女にかける労いの言葉であるが、その声音には恋人に向けられる甘さが含まれていた。
「今宵、参る」
「……え?」
 いつ誰が通るかも知れぬ廊下で、男は密やかにそう告げた。女の体温がじわりと上がる。
「何か不都合でも?」
「いえ」
 断らなければならない。男の幸せの為には、己が身を引かねばならぬのだと頭では分かっている筈なのに、その口からは拒絶の言葉は出てこなかった。
「鬼灯様、お待ちしております」

 男が立ち去ったのち、そっと顔を上げた女は庭の鬼灯に視線をやった。日が落ちて夜の闇が迫ってきた庭に、赤い袋をつけた鬼灯がすっくと立っている。 鳥がつついたのだろうか。地面に一粒、赤い実が落ちていた。
 ――それは鬼の目ぞ。鬼の目が悪さをしないように、庭からおまえたちを見張っているのだ。
 不意に、懐かしい声が蘇った。それは幼い頃、年上の幼馴染から何度も脅された言葉だ。彼は怖がる彼女を面白がって、わざと太い声を出してからかっていた。
「鬼の目、か……」
 薄闇の中で、女は小さく呟いた。すると赤い目が、じっと己の行動を見透かしているような感覚に陥った。

 


2015/02/13 


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