「母が身重なのですがこのところ体調が思わしくなく、幼い雲雀が傍にいると休めませぬ故、許可をいただいて連れて参りました。
大人しくしているようにと言い聞かせていたのですが、あのとおりじっとすることができない子でご迷惑をおかけしてしまいました」
やはり桔梗の戻りが遅かったのは、いなくなってしまった雲雀を探していたかららしい。
けれども主を放ったままにするわけにもゆかず、侍女仲間に事情を説明して一旦戻って来たとのことだった。
方々を探し回ったものの見つからなかった妹は何と主の部屋にいたのだが、取り急ぎ仲間たちに見つかった旨を伝え、それから桔梗は蝶子に平身低頭で事の次第を説明していた。
「母君は大丈夫なのですか?」
「病ではございませんので大丈夫です。わたくしには雲雀以外に弟がふたりと妹がひとりいるのですが、いずれの子が産まれる際も母は間際まで元気に働いておりました。
なれど今回だけは悪阻がひどいようで、少しでも負担を減らす為に手のかかる雲雀を連れて参ったのでございます」
かつて桔梗の母も侍女としてこの城で働いており、その縁もあって今回の許可が下りたとのことである。
母や姉と同じく、ゆくゆくは雲雀も城に上がることになるのでその準備も兼ねていたようだ。
当の本人は疲れてしまったようで、姉の膝の上で先程から寝息をたてている。涙のあとが残るあどけない寝顔を眺めていると、蝶子にふと妙案が浮かんだ。
「明日からは、雲雀をここへ連れて来なさい」
蝶子が静かにそう言うと、妹の寝顔を眺めていた桔梗が驚いたように顔を上げた。
「ここにいれば桔梗も安心でしょう? 裏庭で遊ばせるのも良いでしょうが、皆忙しいので常に目をかけてやることはできません。
この部屋ならば、桔梗が席を外していてもわたくしが傍にいてあげられます」
「なれど、それは……」
蝶子の提案に、桔梗は口ごもった。侍女の妹の子守を主にさせるなど、できる筈がない。
「お屋形様へは、わたくしがお願い申し上げます。利発な雲雀なら、わたくしの話し相手を立派に務めてくれると思うのよ」
夫も侍女も無口で、ようやく話が合うと思った夫の従妹には明らかに敵対心を持たれている。
話し相手が幼子だけというのは寂しい限りだが、無邪気で前向きな雲雀の言動に、蝶子はこのところ塞ぎ込んでいた気持ちが晴れる気がしていた。
言葉もたどたどしい幼子を話し相手にと言われ、本来ならばその役目を果たすべき立場にある桔梗は、もはや主人の申し出を拒む言葉を持たなかった。
その日以来、常に静まり返っていた蝶子の部屋が一気に賑やかになった。桔梗と共に雲雀も蝶子の部屋にやって来るようになり、蝶子の周りには明るい笑い声が響くようになっていた。
殆ど会話のなかった桔梗とも言葉を交わす機会が格段に増え、蝶子は姉妹の母親の容態が回復してもずっと、雲雀にここに通って欲しいと密かに願うようになっていた。
「よう、小猿。行儀良くしておるか?」
そう言いながら蝶子の部屋を訪れたのは、夫の側近である虎之新だった。
「ひばりはさるじゃないもん!」
「違うでしょう? わたくしは猿ではございません、です」
このところ雲雀は言葉遣いに関して猛特訓を受けているのだが、まだ上手く喋れない幼子が目上の人に対して敬語を使うなど至難の業だ。
この年にしては充分すぎるくらいだと蝶子は思うが、姉の桔梗はかなり厳しく、今も虎之新とのやりとりを注意している。
会話の内容が内容だけに大真面目に指導する桔梗が可笑しくて、蝶子は思わず声を出して笑ってしまった。
「何やら楽しそうだな?」
不意に背後から声をかけられた。振り返ると、珍しそうな表情で夫がこちらを見ていた。
「失礼いたしました。姉妹のやりとりが微笑ましくて」
「謝る必要などない。このところ姫は元気がないように見受けられた故、安堵したのだ」
低く穏やかな声には優しさが滲んでいて、その言葉に思わず蝶子は伊織の顔を見上げた。
「私もそうだが、桔梗も口下手だ。姫と同い年の瑠璃が話し相手に良かろうと思ったが、幼子がいると場が賑やかになるな」
不意打ちで夫の口から瑠璃の名が出てきて、思わず蝶子は固まってしまう。
あの日から何度か夫は蝶子の部屋を訪れてくれてはいたが、いつも忙しそうですぐに出て行ってしまい、会話らしい会話は殆どできていなかった。
だから瑠璃のことも蝶子が一方的にわだかまっているだけで、未だにきちんと詳細を確認できてはいなかったのだ。
「あの、瑠璃様はお元気ですか?」
さすがに、いつ側室に召し上げる予定ですかとは聞けないので、別に知りたくもないけれど仕方なく息災か尋ねてみる。
「長らく会っておらぬが、叔父上も何も申されぬので変わりはないのであろう」
正妻である蝶子を気遣ったのか、それとも多忙で本当に会っていないのか。伊織の答にそうですかと曖昧な笑みを浮かべると、蝶子は夫から視線を逸らして目を伏せた。
秋の風がそっと髪を撫ぜる。相変わらず虎之新と雲雀はじゃれ合っていて、桔梗が時折口を挟んでいる。
瑠璃のことを尋ねるのなら、今がその時ではないか。そう蝶子は思った。
ふたりきりの時だと空気が重くなりそうだが、この賑やかな空間なら自然を装ってさらりと話題にできそうな気がした。
「姫」
「お屋形様」
覚悟を決めて蝶子が夫を呼ばったその瞬間、伊織もまた口を開いた。思わず顔を上げると、ふたり目が合った。
「何だ?」
「失礼いたしました。どうぞ、お屋形様から仰って下さいませ」
互いに譲り合っていると、不意に庭から大きな歓声が聞こえた。振り返るといつの間にか虎之新は庭に下り、その肩の上で雲雀が大はしゃぎしていた。
「まあ!」
思わず驚きの声が漏れる。それと同時に、蝶子の心には懐かしい気持ちが広がっていた。
幼い頃、蝶子は兄や守之介のあとをいつもついて回っていた。
たまに兄は己の肩に幼い蝶子を乗せてくれ、そのまま野を駆け回ったものだが、蝶子は兄の上で感じる風が大好きだった。
そしていつも傍で見ていた守之介からは、まるで小猿のようだとからかわれていたものだ。
「ひめしゃまー!!」
蝶子の視線に気づいたのか、雲雀が虎之新に肩車をされたままこちらに勢い良く手を振ってきた。慌てて桔梗が諌めるが、蝶子は気にせず小さく手を振り返した。
大柄な虎之新の肩の上から見る景色は新鮮なのだろう。雲雀は先程からきゃっきゃと嬉しそうに笑い声をあげている。
その姿が兄や守之介に構ってもらってはしゃいでいた幼い頃の自分と重なり、蝶子の胸の奥はじんわりと温かくなっていた。
「懐かれたものだな」
「ええ、河合殿は子供の心を掴む才がおありのようです」
「いや、姫のことだ」
雲雀から視線を戻すと、伊織がじっと蝶子を見つめていた。
「……同士にございます故」
「同士?」
「わたくしたちは、同じ空を飛ぶ仲間にございます。雲雀がそう申してくれました」
ひと呼吸おいたのち、そう説明する。空高くまで飛べる雲雀に対し、蝶はせいぜい庭の花から花を飛び回るだけなのだが、伊織は妻の言葉に納得したような表情を見せた。
「姫は、子供が好きなのだな」
僅かに沈黙が流れ、やがて伊織が小さく呟いた。それは質問というよりも、ひとりごとのようであった。
「ええ」
賑やかな庭の外に響く声に対し夫の言葉は静かで、だから蝶子も短くそう答えた。
「そうか」
低く呟いた声はいつものように穏やかで、けれどもそれ以上伊織が言葉を発することはなかった。
瑠璃のことを尋ねてみようと決意したものの結局時機を逃してしまい、蝶子はますます伊織のことが分からなくなっていた。
雲雀が蝶子の部屋に通うようになって以来、常に明るい笑い声が響いていたのだが、その日は朝から表情が翳っていた。
「ねえ雲雀、わたくしと一緒にお手玉を作りませんか?」
裁縫箱を準備しながら小さな背中にそう声をかけるも、縁側に腰かけて脚をぷらぷらさせているだけで返事がない。
今は席を外しているが、姉の桔梗によると母親の具合が思わしくないとのことだった。
時期が来れば治まるものらしいが、目の前で苦しむ母の姿に心配しない筈がない。ふだんは明るい雲雀であるが、随分と心を痛めているようであった。
「雲雀はどの柄が好きですか?」
裁縫箱の蓋を開けた蝶子は、そう優しく問いかけた。古びた箱は母の形見で、一段目には裁縫道具が整然と並べられ、二段目には着物の端切れが仕舞われている。
端切れの下、裁縫箱の底には半紙を折りたたんだものがまるで人目に触れないように納められており、蝶子はそのうちのひとつを手に取るとそのまま己の帯に挟み込んだ。
「今度産まれてくる赤子に、雲雀が作ったお手玉を見せてやりたくはないですか?」
そう言いながら雲雀の隣に座って色鮮やかな端切れを見せると、伏せられていた雲雀の瞳が小さく揺れた。
「雲雀が作ったものだと知ると、さぞや赤子は姉君を尊敬するでしょうね」
「そんけい?」
「ええ。姉君は裁縫が得意なのかと憧れるに違いないわ」
未来の弟妹に褒められているところを想像したのか、雲雀の頬が徐々に紅潮してくる。
その様子にほっとしながら蝶子が縁側に端切れを広げてやると、食い入るように覗き込んできた。
「……きれい」
「わたくしの故郷で織られたものです。藍色も美しいですが、こちらも華やかでしょう?」
色も柄も染乃のものとは異なっており、幼い雲雀にとってはさぞや珍しいだろう。暫く悩んでいた雲雀だったが、やがて緋色や紅色の布を何枚か選んだ。
「布が決まったので、次は中に詰める小石を探しましょう」
「いしをいれるのでございましゅか?」
「ええ。だから庭で、まるい小さな石を探してくださいな」
そう言って竹で編んだ小さな籠を差し出すと、それを受け取った雲雀はぴょんと縁側から庭に飛び下りた。
最初は大きすぎるとか小さすぎるとか蝶子が口を挟んでいたのだが、やがて丁度良い大きさが分かったのか、しゃがみ込んだ雲雀が次々に籠へ小石を放り込んでゆく。
「あかごは、よろこんでくれますか?」
「ええ。妹か弟かはまだ分かりませぬが、赤子はもちろん、母君もきっと喜んでくれますよ」
言い含めるようにそう言葉をかけると、雲雀はぱっと顔を輝かせ、けれども次の瞬間目を潤ませた。
「ははうえは、ずっとねてばかりにございましゅ。あねうえはだいじょうぶというけれど、ははうえはびょうきなのですか?」
不安げに見上げてくる雲雀を、蝶子はそっと抱きしめた。蝶子の母は病弱で臥せていることが多かったので、雲雀の気持ちは痛いほどよく分かった。
雲雀の母の場合は病ではなく悪阻だが、いくら桔梗が説明しても幼い雲雀が理解するには難しく、目の前で母が苦しんでいると不安にならずにいられないのだ。
「これを雲雀に差し上げましょう」
そう言うと、蝶子は帯に挟んでいた紙片を取り出した。
「これはわたくしがお屋形様のもとへ嫁いで来る際に持って来た薬です。腹に子を宿した際の苦しみを和らげてくれる効能があるとのことなので、帰って母君に飲ませて差し上げなさい」
「ひめしゃま、ありがとうございます!」
失くさないように雲雀の帯の間へ挟んでやると、小さな体がぎゅっと蝶子に抱きついてきた。幼子の柔らかな感触に、愛おしい気持ちが湧き起こってくる。
「良いのです。わたくしには必要のないものだから……」
短く切りそろえられた黒髪を優しく撫でながらそう呟くと、寂しげなその口調を消し去るかのように蝶子は明るい声を出した。
「さあ、今日はもう行きなさい。また明日、集めてくれた小石でお手玉を仕上げましょう」
すっかりいつもの明るさを取り戻した雲雀は元気にはいと答えると、礼儀正しく頭を下げて蝶子の部屋を辞した。