あの日、気まぐれにやって来た来訪者は、今日は更なる珍客を連れて来た。
朝から空は高く澄み渡り、時折吹く風は庭から仄かに小菊の花の香りを運んでくる。
庭の片隅に咲く白や黄色の小花を眺めながら、蝶子は染乃へ発つ際に年少の侍女からかけられた言葉を思い出していた。
――蒼山伊織様にはくれぐれも心を許されぬよう、お気をつけ下さいませ。
その花と同じ名前の侍女は、声を震わせながらそう訴えた。その行為も内容も、侍女という立場では決して許されることではない。
咎めるなと侍女頭には伝えて発ったが、彼女が果たして罰を受けずに済んだかどうか定かではなかった。
無礼だと百も承知で彼女が蝶子に直訴したのは、言わずにはおれなかったからだ。
そしてそれは穂積の人間が、次期当主の命を奪った蒼山伊織のことを信用していないという何よりの証であった。
小菊に言われずとも、蝶子は兄を殺した国の領主に心を許す気などなかった。
染乃でも蝶子に仕えてくれると言ってくれた茜子や小菊の帯同を許さない横暴さに、嫁ぐ前から不信感はつのる一方で。
冷酷な鬼だと揶揄される人物のもとへ嫁いだのは、戦を終わらせる為、ただそれだけだった。
けれども実際に話をした伊織は、冷酷な鬼には見えなかった。嫁いだ当初は、ずっと抱いていた印象と実際の雰囲気との乖離に戸惑ったが、やがてそれは疑問へと変わってゆく。
残忍にも思慮浅くも見えないこの人物に会いに行った兄が、何故命を奪われることになったのか。いつしか蝶子はその経緯を知りたいと願うようになっていた。
茜子の望むような生涯に渡る良き伴侶にはなれないけれど、兄がこの世を去ってからずっと抱えてきた憎しみの気持ちを、もしかすると真実を知ることで昇華させられるかも知れない。
己がそのような淡い期待を知らないうちに抱いていたことを、皮肉にも瑠璃の登場で蝶子は気づくことになったのだった。
そんなとりとめのないことを蝶子がぼんやりと考えていると、またもや庭の垣根の脇からかさりと音がした。
あの猫が、また来てくれたのかしら。反射的に音のした方を見やると、蝶子の予想通りその背に茶と黒の縞模様がある猫が、悠々と庭に侵入していた。
ここ数日間ずっと、蝶子は自分が今後どう行動すれば良いのか考えあぐねていたのだが、再び現れた猫の姿に自然と頬が緩むのを感じていた。
柔らかそうなそのまるい背を撫でてみたい欲求に駆られ、そろそろと片足を地面につけたその瞬間、再び垣根の脇の小菊が大きく揺れた。
「ねこしゃん!」
そう言って花陰から現れたのは、四つ這いの幼女だった。先日猫がはじめてやって来た時も驚いたが、さすがに幼女の登場は想定外すぎて思わず固まってしまう。
どうやら夢中で猫を追いかけて来たらしいが、蝶子の視線に気づいたのか我に返ったようだった。
思考が追いつかずに黙って凝視する蝶子の目を、四つ這いの状態で大きく見開かれた瞳が見つめ返してくる。沈黙を破ったのは、緊張感のない猫の鳴き声だった。
欠伸を噛み殺したような声で小さく鳴くと、猫はあっという間に姿を消してしまった。
「あ、ねこしゃん……」
四つ這いのまま猫を追いかけようとした幼女だったが、体勢を崩してそのままぺたりと地面に突っ伏してしまう。
「大丈夫!?」
蝶子は慌てて裸足で庭に下りると、倒れた子供を抱き上げた。着物は多少汚れているが、特に怪我はしていないようだ。
肩の長さで切りそろえられた髪には白い花びらがついており、とんだお転娘の来訪に蝶子は何だか可笑しくなった。
「あなた、お名前は?」
「ひばりにございましゅ」
一瞬叱られるのを覚悟したような表情を見せたものの、蝶子が声を出して笑うと幼女も顔を綻ばせた。
年の割にかなり利発なようで、舌足らずながら蝶子の問いにははっきりと答えてみせる。
「どこから来たのかしら?」
「あなからにございましゅ」
「穴?」
小さな手に引かれるままに垣根に近寄ると、小菊の花の陰に隠れて気づかなかったが、そこには小さな穴が開いていた。
恐らく、根元が腐って穴が開いたところを、猫が通り道にしたのだろう。大人には通れないが、雲雀と名乗るこの娘が猫を追って来られるくらいの大きさはあった。
「いらっしゃい、顔を拭ってあげる。土で汚れて、せっかくの美人が台無しよ」
「ここは、ひめしゃまのおにわ?」
「そうよ」
「おはながいっぱい!」
縁側に座らせて着物や顔についた汚れを拭ってやると、雲雀はきょろきょろと興味深げに部屋や庭に目をやりながら尋ねてきた。
「気に入ったかしら?」
「はい! ひばりはおはながだいしゅきです」
目を輝かせながら答える雲雀の様子に、蝶子は気分が和らいでくるのを感じていた。たとえ幼い子供でも、可憐な秋の花が溢れる庭を褒めてもらえたことが嬉しかった。
「わたしは蝶だから、花が大好きなの。花に触れていないと寂しいのよ」
「ひめしゃまは、ちょうちょなのですか?」
「そうよ」
あどけない問いに、思わず蝶子の頬が緩む。穂積ではあまり幼い子と関わることはなかったが、子供はもともと嫌いではない。人懐こい雲雀に、蝶子の母性が刺激されていた。
「ならば、ひばりとひめしゃまはいっしょです」
幼子の話す内容は言葉足らずで理解するのに時間を要する。けれども懸命に伝えようとする姿が愛らしく、蝶子は雲雀の顔を覗き込みながらどういう意味かと尋ね返した。
「ひばりもちょうちょも、どちらもおそらをとぶのです」
幼い子供の示す雲雀と蝶の共通項に、蝶子は思わずなるほどと唸った。艶のある黒髪をそっと撫ぜると、雲雀が嬉しそうに笑いながら蝶子を見上げてきた。
「雲雀の申すとおりね。なれど、雲雀は高く遠くへ飛べるのに対し、蝶はこの庭の花から花へ移ることしかできません」
蝶子の生きる世界は、この中にある。たとえ穂積の花が恋しくとも、蜜を吸いに飛んで帰ることは許されないのだ。
「蝶は、雲雀が羨ましいわ……」
その先に何があるのか恐れることなく、ただ猫だけを追いかけて突き進むことのできる雲雀が羨ましい。
そんな思いを口にすると、幼子を前にしているというのに、思いのほか声音が悲しげに響いてしまった。
「たんれんにございましゅ」
寂しげな笑みを浮かべる蝶子を不思議そうに見つめると、やがて良いことを思いついたというようにぽんと手を打ち、雲雀は得意気にそう言い放った。
「たんれん?」
「はい。あねうえがいつも、たんれんがたいせつだというのです」
そう言うと、雲雀はすっくと立ち上がり胸を張った。
「ひばりは、ひとりできものがきられるのです」
「そう、それは偉いわね」
「にわのそうじもできるのです。まえはうまくできなくてしかられたけれど、たんれんでできるようになったのです」
ああ、そういうことか。幼い雲雀が懸命に紡ぐ言葉の意味を、蝶子はようやく理解した。
「だからちょうちょも、たんれんをつめばきっととおくへとべるようになるのです」
現実は、そんな単純なものではない。世の中には努力だけで変えられないことはたくさんあって、蝶はどれだけ鍛錬を重ねても雲雀のように高く遠くへ飛ぶことはできない。
けれど、必死に蝶子を励ましてくれるその言葉が嬉しかった。蝶子を気遣ってくれるその眼差しが、孤独な心を温かく癒してくれたのだ。
「そうね。きっと、雲雀の言うとおりね」
肯定の言葉が微かに震える。蝶子が無理矢理に口角を上げて微笑むと、雲雀は満面の笑みを浮かべた。
「ところで、雲雀はこの城で仕えているのかしら?」
いくらなんでも働くには幼すぎると思いながら、蝶子はそう尋ねてみる。
愛らしい来訪者との会話が弾みすっかり失念していたが、もしかするとこの子が姿を消して今頃どこかで大騒ぎになっているかも知れないのだ。
「まだです。きょうはあねうえのおてつだいにございましゅ」
「雲雀の姉上は、何という名ですか?」
まだ仕えていないということは、いずれ仕えるということ。きっと姉がこの城で働いており、何らかの理由で一緒に来ていたのだろう。
蝶子はごく限られた者の名しか知らぬが、桔梗に伝えればすぐに判明するだろう。そこで蝶子は、桔梗が席を外してから随分と経っていることに思い至った。
何かあったのかしらと思っていると、失礼しますという桔梗本人の声がして、静かに襖が開いた。
「あねうえ!」
「雲雀!?」
襖の方をじっと見つめていた雲雀だったが、入室して来た人物の顔を見るなり飛びついた。桔梗に雲雀の姉が誰か尋ねようと思っていたが、どうやらその必要はなさそうだ。
よく見ればその顔立ちも、どこか似ているような気がした。
「雲雀、おまえが何故ここにいるのです?」
いつも冷静な桔梗だが、さすがに今日は感情が抑えられないようだ。幼子を相手に、冷ややかな声音で問い質す。
きっと膳を片付けに行ったままなかなか戻らなかったのは、姿を消した妹を探していたに違いない。
「ねこしゃんが……」
けれど、姉がどれだけ心配したかを理解するには妹は幼すぎた。先程までの天真爛漫な笑顔は消え去り、姉の表情を窺うように猫が猫がと小さく繰り返していた。
「猫を追って、ここまでやって来たのです」
見かねて蝶子が口を挟むと、主の存在を忘れていたのか、桔梗は明らかにはっとした表情を浮かべた。それから畳に手をつくと、勢いよく頭を下げた。
「妹が奥方様のお部屋に勝手に立ち入り、大変申し訳ございませぬ。よく言って聞かせます故、どうぞお許しくださいませ」
「桔梗、顔を上げなさい。あなたに咎められて、雲雀が泣きそうな顔をしているわ」
「いえ、言いつけを守らなかった妹が悪いのです」
頭を下げたまま、桔梗は頑なにそう言った。姉が謝っている姿を見て、ようやく自分がとんでもないことをしたのだと悟った雲雀の目から大粒の涙が零れだす。
蝶子は姉妹を交互に見やると、やがて雲雀の頭をひと撫でして涙を拭ってやった。
「ねえ雲雀、あなた姉上と何か約束はしなかった?」
「……」
「姉上がお勤めに出る前に、何も約束はしなかったの?」
「おにわで……おとなしく、する、ようにと……」
蝶子が優しく問いかけると、しゃくり上げながら雲雀が答えた。
「そう。でも雲雀は猫を追って来てしまいましたね? お庭にいる筈の雲雀がいないと、姉上はどうすると思いますか?」
「さ、がし、ます……」
「ええ、そうね。姉上は心配してあなたを探していたのよ。さあこれでもう、このあとどうすべきか利口な雲雀なら分かるでしょう?」
蝶子にそう尋ねられた雲雀は、小さく、けれどもはっきりとした口調でごめんなさいと詫びた。
蝶子と雲雀のやりとりを頭を下げたまま聞いていた桔梗は、幼い妹の頭の上に手をやるとぐいと乱暴に下げさせた。