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の居る場所



 待宵の章  肆


 空になった椀を置くと、箸を揃えてそっと手を合わせる。どこか気品のあるその所作を視界の端で確認すると、桔梗は静かに主の膳を下げて湯呑みに熱い茶を注いだ。
「ありがとう」
 そう小さく礼を言うと、彼女は湯呑みに口をつける。その様子を横目で見ながら、桔梗は膳を片付ける為に部屋を辞した。


 桔梗が仕えるのは、隣国の穂積から染乃国の当主のもとへ嫁いで来た姫君だ。そしてその姫君である蝶子は、長年に渡る二国間の戦を終わらせる為の重要な駒であった。
 桔梗よりも僅かに年下だという蝶子が、どのような気持ちでこの国にやって来て、どのような気持ちでこの城に暮らしているのか知らない。 まだ少女である姫君は、投げやりに振舞うでもなく、かと言って我が物顔で城を取り仕切ろうとするでもなく、まるで己の気配を消すようにひっそりと暮らしていた。

 そんな蝶子の様子が、ここ数日おかしい。正確に言うと、三日前に当主の従妹姫である瑠璃が訪ねて来てからだ。
 同い年ということで気が合ったのか、会話を弾ませていたふたりはやがて庭に出た。 ついて来なくても良いと瑠璃から拒まれた桔梗は、主の小さな庭が外部と画した安全な空間であるので、客人の言葉に黙って従った。
 一応ふたりの様子を部屋の中からそっと窺っていると、瑠璃が足元に咲く花を指してその名を尋ねているようであった。 蝶子が笑顔でそれに答え、ふたりで顔を寄せ合って何やら話している。 けれども次の瞬間、蝶子の表情が遠目に見ても分かるくらいに強張った。やがて瑠璃は蝶子のもとを辞したが、そのあとも蝶子は、庭に揺れる秋の草花の中に茫然と立ち尽くしていた。
 それ以来、蝶子は再び自室に籠るようになった。秋になってからはほぼ毎日庭園に出ていたのだが、瑠璃と会って以降は部屋から出ず、己の庭の花をただ黙って眺めているのだった。

「よう、桔梗。姫さんの塩梅はどうだ?」
 膳を片付けて主の部屋へ戻ろうとしていた桔梗の背中に声をかけてきたのは、当主の従兄であり、腹心の部下でもある虎之新だ。そして彼は、桔梗の義理の弟になる筈の人であった。
「朝餉を召し上がられて、今はお茶を飲みながら寛いでおられます」
「そうか。今日は快晴であるから、庭園に出られたら気持ち良かろう」
 会えばいつも蝶子の様子を尋ねてくる虎之新に素っ気なく答えると、日に焼けた大男は空を仰ぎながら機嫌良くそう言った。
「さようでございますね。なれど、奥方様は本日はお部屋でお過ごしになるやも知れませぬ」
「そうなのか? 最近はよく部屋から出ておられると聞いておるが、今日はお忙しいのか?」
「本日は特に来客の予定はございません」
「ご気分がすぐれぬのか?」
「朝餉はきちんと召し上がられた故、お体に不調はないかと存じ上げます」
 淡々と答える桔梗に対し、一瞬押し黙った虎之新が、声を落として尋ねてきた。

「もしや、瑠璃殿と何かあったのか?」
「存じ上げませぬ。お話は弾んでおり、奥方様も楽しんでいらっしゃるようでございましたが」
 桔梗は何も知らぬのだ。瑠璃があの時何かを告げたのか、あるいは何もなかったのか。 そもそも蝶子がこの城で何を思い、どう感じているのかを、一番傍にいる筈の桔梗は知ろうともしていないのだ。
「虎之新様、お屋形様が瑠璃様を奥方様のもとへ遣られたのは何故でございますか?」
「やはり何かあったのか!?」
 そう気色ばんだ虎之新の言葉を無視し、桔梗は更に質問を重ねた。
「お屋形様がわたくしを奥方様のお付に任ぜられたのは、何故でございますか?」
「桔梗……?」
 政略結婚の為に、兄の敵である国に嫁いで来た姫君の苦しみを桔梗は知らない。 しかしながら蝶子も、許婚の命を奪った国の姫に仕えなければならない侍女の苦しみを、決して知ることはないのだ。
「何かございましたら、ご報告いたします」
 やがてそれだけを告げると、物言いたげな虎之新を残して桔梗は足早に立ち去った。



 朝餉を食べ終えた蝶子は、書物を読む気にも裁縫をする気にもなれなかった。縁側の柱にもたれてただぼんやりと、秋風に微かに揺れる紫色の花を眺めていた。
 ――ねえ蝶子様、わたくしに伊織様を返してはいただけませんか?
 耳の奥で、艶のある声が響く。蝶子は萩の花から目を逸らすと、小さく溜息をついた。
 夫の従妹である瑠璃が蝶子のもとを訪ねて来たのは、話し相手になる為などではなく、当主の正室を牽制する為であった。 確かに瑠璃の来訪を聞かされた際、本当に話し相手としてやって来るのかをずっと疑ってはいたが、思いのほか話が弾んで蝶子は心底嬉しかったのだ。 もしかしたら、この地で心を許せる友人ができるかもしれない。 女子同士のとりとめのない会話が予想以上に楽しかったからこそ、桔梗を排して本音を曝け出した瑠璃の姿に蝶子はひどく衝撃を受けた。

 そして瑠璃と会う前日に言葉を交わして以来、蝶子は伊織の姿を見ていなかった。
 相変わらず夫は忙しいようだが、瑠璃からあんなにもはっきりと宣戦布告された今となっては、さっさと彼女を側室に迎え入れると告げてくれればいいのにと蝶子は思う。 別に自分は伊織と結ばれたいわけではない。生まれた国の為に、家の為に、嫁いで来たにすぎないのだ。未だに蝶子に触れてこない時点で、とうに覚悟はできていた。
 ――どうぞお好きになさってください。
 そう言えたなら、どれだけ気持ちが晴れるだろうか。 瑠璃の物言いはまるで蝶子が彼女のものを盗んだかのようで、思い返すたびその理不尽さに対する怒りが湧いてくる。 けれどもあの時、当主の正室に対してあのような発言をした無礼な姫君に対して、蝶子は反論することができなかった。
 それは、単刀直入すぎて驚愕したというのもある。彼女の父親の影響力を恐れたというのもある。自分は邪魔者なのだと、瑠璃に同情してしまったというのもある。 そして単純に、伊織と瑠璃が恋仲だという事実に傷ついたというのもあった。
 夫には誰か心に想う女性がいるかも知れぬと予想し、覚悟していたにも関わらず、無意識のうちに蝶子は、自分以外の妻を伊織が娶ることはないだろうと微かな期待を抱いていたのだ。 知らぬ間に芽生えていたそんな気持ちに気づいて狼狽し、更にはそれが脆くも砕け散ったことに対して落胆したことが、瑠璃への反論の言葉を失った大きな理由のひとつであった。

 己は妻として愛されていないだろう。けれども夫は、他に側室を召し上げることはしないだろう。この矛盾した予想に根拠などない。 ただ、これまで夫と過ごした短い時間の中で、彼の染乃の民に対する思いや藍染に対する思いを垣間見て、穂積で蝶子が抱いていた伊織の印象が僅かながら変化していったのだ。
 もちろんそれは蝶子が勝手に予想していただけで、瑠璃を側室に迎え入れることになっても抗議する気はない。 世継を産むことが最も重要な任務である正室にあって、夫に触れられない時点で蝶子は失格の烙印を押されているということなのだ。
 聞けば瑠璃の父親で伊織の叔父である秀久は、なかなか男子に恵まれず幾人もの側室を娶ったという。 そもそも正妻には子ができず、その後側室が身籠ったが瑠璃を筆頭に女ばかりが五人続き、ようやくできた男子はまだ六歳ということだった。 蝶子の父は母以外に妻を迎えなかったが、そんな環境で育った蝶子でも、それが特殊なことであることは分かっていた。

「帰りたい……」
 不意打ちで向けられた瑠璃の憎しみのこもった眼差しは、正直こたえた。 覚悟は決めているが、この先途方もないくらい長い時間を存在を消して生きてゆくことは、想像をするだけで辛く哀しかった。
 死ぬまで続く孤独を思うと、ひとりきりの空間で決して叶わぬ願いが思わず零れ出る。 けれどもそんな蝶子の呟きは鳥の声に紛れてしまい、誰の耳に届くことなくかき消されてしまった。
「穂積に帰りたい」
 もう一度だけ、口の中でそっと呟いてみる。風が吹くたびに秋の花々が儚げに揺れ、その姿はまるで蝶子の気持ちに同調してくれているかのようであった。

 その瞬間、不意に庭の片隅からかさりと音がした。驚いてそちらへ視線をやると、垣根の脇に咲く白の小菊が不自然に大きく動いている。 不審者が侵入したのかと、思わず蝶子は身構えた。
「にゃあ」
 けれども姿を現したのは、不遜な態度の猫だった。
「まあ、一体どこから来たのかしら」
 そう言いながら蝶子が庭に下りようとすると、背中に茶と黒の縞模様がある猫は小さな牙をむいて威嚇してきた。仕方なくもとの姿勢に戻ると、納得したのかゆるりと尻尾を振った。 撫でてみたいけれど、近づけばこの気位が高そうな猫はすぐさま逃げ出してしまうだろう。もう少し一緒にいて欲しくて、蝶子は黙ってそのまるい背中を眺めていた。

「失礼いたします」
 控えめに声をかけられたのち、そっと襖が開いた。膳を片付けてくれていた桔梗が、どうやら戻って来たようだ。 あっと思った時にはもう、まるで風のように猫は姿を消してしまっていた。
「どうかなさいましたか?」
 密かに落胆していた蝶子の背中に、桔梗が声をかける。
「何でもないわ」
 珍客があったことを伝えようかとも思ったが、話したところでこの無表情の侍女に反応があるとも思えない。蝶子は短く答えると、可憐な小菊の花に再び視線を移した。

 


2015/01/10 


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