「素敵なお庭ですね」
蝶子の目の前に座っている同い年の姫は、開け放たれた戸の先に視線をやるとそう言って目を細めた。
雲ひとつない空は澄み渡り、庭には萩や菊などの秋の花が咲き誇っていた。
秀久の娘が蝶子を訪ねて来ると伊織から告げられたのは、彼との面会から僅か数日後のことであった。
あまりにも急なので、随分と手回しが良いものだと蝶子は密かに感心した。
「お屋形様は、幼い頃よりよくご存知だと伺いました。どのようなお方でいらっしゃいますか?」
久しぶりに蝶子のもとを訪れた伊織はいつにも増して口数が少なく、沈黙を紛らわす為に蝶子はそう話題をふってみた。
明日会う人物のことを、予め知っておきたかったというのもある。
「ああそうだな、年も離れているし妹のようなものだ」
伊織と秀久の娘は七歳離れており、確かに幼少の頃の七歳差は妹にしか感じられないだろう。そして、秀久の娘と蝶子は同い年とのことだ。
伊織は他意なく答えたのだろうが、なかなか妻に触れようとしない夫の真意が見えた気がして、蝶子の顔には思わず苦い笑みが浮かんでいた。
「幼い頃は城内を勝手に歩き回って父に叱られていたのですが、このようなお庭があることは存じ上げませんでした」
快活な声に、昨晩の夫との会話を思い出していた蝶子の意識が呼び戻される。向かいには、己と同い年には見えない大人びた美しい姫の笑顔があった。
「はじめて染乃のお城に上がった際、穂積と同じ様式のお庭があることに驚き、そして大変嬉しく思いました」
「蝶子様の故郷と同じものがあって、さぞご安心されたでしょうね」
「ええ、瑠璃様の仰るとおりにございます」
秀久の娘の瑠璃は、物怖じしない性格のようであった。初対面の蝶子に色々と話題を提供し、会話は瑠璃の主導で進んでいる。
そしてそれは、とても新鮮なことであった。夫は無口なりに会話をしようと努めてくれてはいるのだが、いかんせん多忙で会うこと自体がままならない。
そして侍女の桔梗に至っては、必要最低限の会話以外をするつもりがないのだ。
そんな環境の中にいる蝶子にとって、同い年の瑠璃と話すことは久々に心が浮き立つ出来事であり、自然と会話も弾んだ。
「よろしければ、もっと近くでお庭を見せていただけませんか?」
「もちろんでございます」
そう答えると、蝶子はそそくさと立ち上がった。清楚な花々は秋風に揺れ、まるで蝶子たちを誘っているようだ。
「桔梗はこちらにいて大丈夫よ。蝶子様にお庭を見せていただくだけだから」
先程まで傍に控えていた桔梗も蝶子と瑠璃のあとに続こうとしていたが、けれども瑠璃はそれをやんわりと拒否した。
当初は夫の叔父の申し出に何か思惑があるのではと警戒していたのだが、どうやら言葉に裏は無く、本当に蝶子の話し相手として娘を遣わしてくれたらしい。
秀久に対し疑って申し訳なかったなと心の内で詫びながら、蝶子は瑠璃と過ごす時間を素直に楽しんでいた。
やがて、せっかく同い年の姫と親しくなれそうだから、蝶子を疎んじている桔梗と離れてもっと深い会話をしてみたいという気持ちが生まれる。
蝶子は密かにそう願っていたのだが、どうやら瑠璃も同じように感じてくれていたようだ。
瑠璃は夫の従妹であり、蝶子に危険をもたらす恐れはないのでふたりきりになっても別に問題はない。
そもそも庭は部屋の中から見渡すことのできる程度の広さで、別に桔梗がついて来る必要性もなかった。
「承知いたしました」
微かに物言いたげな表情を浮かべたが、それはほんの一瞬のことで、侍女はすぐにいつもと同じ無表情で短く頷いた。
庭に下りると、菊の花の香りがした。空はどこまでも高く、時折吹く風がさわさわと草木を揺らす。
「この花は何という名前ですか?」
「それは秋の七草の一種、萩にございます」
紫色の小さな花を指して尋ねてきた瑠璃に、蝶子は丁寧に答えた。萩は、秋に咲く花の中でも蝶子が特に好きな花だ。
「さようでございますか。派手な色にございますね」
「え?」
「何というか、品のない色にございます」
「え、そうでしょうか……?」
にこやかに浮かべる笑みとは裏腹に、放たれる言葉は容赦がない。和やかな会話を繰り広げていた先程までとは豹変した瑠璃の口調に、蝶子は戸惑いを隠し切れなかった。
「道端に咲いているような野草が生い茂る、何だか田舎臭いお庭でございますわ」
「なれど、先程は瑠璃様も素敵な庭だと……」
「わたくし目があまりよくなくて、ぼんやりとしか見えておりませんでしたの。やはり穂積国の方には、染乃の洗練された美というものが理解できないのかしら」
はじめからずっと友好的であったのに、何故急に攻撃的になってしまったのか。瑠璃の態度が豹変した理由は不明だが、愛する故郷を馬鹿にされて黙っているわけにはゆかない。
蝶子は平静を保ちながらも、きっぱりと言い切った。
「染乃の庭園は確かに洗練されて美しいですが、穂積の庭もまた華やかで美しいとわたくしは思います」
姑である雪寿尼は、季節の花が溢れる穂積の庭は美しかろうと言ってくれた。
両方の様式を楽しむ寛容さを教えてくれたことを感謝しているのに、染乃の人間にこのように否定されるのは悔しくて仕方がなかった。
「まあ、蝶子様がそう思われるのはご自由でございますから。
ただ伊織様は静寂を感じられる染乃の庭を心から愛しておられ、わたくしも染乃に生まれた者として、あの庭の美しさを誇りに思っております」
口元を微かに歪めながら笑う瑠璃を見つめながら、蝶子の心は一気に冷めていった。
つい先日、穂積と染乃は近い筈なのに異なることやら知らぬことが多いと夫は零したのだ。己とは異なるものを愛おしむ妻を、夫はどう感じていたのだろうか。
黙りこくった蝶子を勝ち誇ったように一瞥すると、瑠璃は赤く紅をひいた唇を蝶子の耳元に寄せた。
「ねえ蝶子様、わたくしに伊織様を返してはいただけませんか?」
その言葉に蝶子が思わず顔を上げると、瑠璃は同い年とは思えない妖しい笑みを浮かべた。
「わたくしは幼少のみぎりより、ずっと伊織様に嫁ぐつもりでおりました。なれど戦が長引き、伊織様は穂積の姫君をお迎えせざるをえなかったのです。
それが望まなかった婚姻であるという証拠に、伊織様は蝶子様に触れることはございませんでしょう?」
でも、伊織は瑠璃のことを妹のようなものだと言っていた。そう反論しようとしたものの、結局蝶子は声を発することができなかった。なぜなら、すべてが符合してしまったのだ。
昨晩、いつにも増して口数が少なかったのは、蝶子が瑠璃と会うことを心配していたからだろう。妹のようなものだと言っていたのは、蝶子にふたりの関係を悟らせない為か。
そして輿入れから二ヶ月が過ぎても一向に蝶子に触れようとしないのは、瑠璃に情を立てていたに違いない。
あの時、異なることが多いから一生相容れないだろうと突き放されたような気がしたが、どうやらそれは蝶子の気のせいではなかったようだ。
伊織に心に決めた人がいても受け入れようと覚悟を決めていたくせに、いざ瑠璃にそれを明言されたら、蝶子は自分でも驚くくらいに狼狽していた。
「ねえ、蝶子様。そんなにもこの庭がお好きなら、ずっとこのお部屋に籠もっていらっしゃれば良いではございませんか」
秋の日暮れは早い。いつの間にか日は傾き、西の空が茜色に滲みかけている。
「奥方様、そろそろお部屋にお戻りになりませんと風邪を召されてしまいます」
背後からかけられた声に振り返ると、桔梗がこちらを窺っていた。長い時間秋風にさらされ、気づけば指先まで冷えていた。
「分かっております。桔梗、熱いお茶を淹れて頂戴」
「ご用意できております」
さすがねと力なく笑うと、蝶子は侍女が茶の準備をしている己の部屋へと戻って行った。
* * * * * * * * *
蒼山家の当主である伊織は城を出ると、城下を一望できる丘の上まで一気に愛馬を駆った。彼の後ろには、大柄な男と小柄な男が続いて来ている。
「あちらの様子は、いかがであった?」
「滞りなく進んでいるようにございます。ただ少しだけ不審な点が……」
「不審な点?」
小柄な男が当主へ報告しているが、何か気にかかる点があるらしい。主が聞き返すと、男は周囲を見渡し声を低く落とした。
伊織は密談を交わす際はいつも、周りに遮るものが何もないこの丘の上にやって来た。
いつ他国に攻め入られるかも知れぬ乱世において、城のどこまで間者が入り込んでいるか分からない。
誰かいればすぐに気づくことのできるこの場所は重要な話をする場として最適なのだが、伊織がこの場所を好むもうひとつの理由は、気が滅入るような事柄を決断する際も青空の下なら少しだけ気が紛れるからであった。
「今頃、姫さんは瑠璃殿とお会いになられているのだな」
ひととおり報告を終えると、大柄な男がひとりごとにしてはやけに大きな声でそう呟いた。小柄な男は黙ってそれを聞きながら、ちらりと主の横顔を見やる。
「虎、何が言いたい?」
無視を決め込んでいた伊織だったが、むさ苦しい男ふたりの視線に耐えかねて、じろりと虎之新を睨みながら尋ねた。
「別に。ただ、姫さんに瑠璃殿を会わせて良かったのかと思ってな」
「傍には桔梗が控えておるし、別に問題はなかろう。姫はこちらに知り合いがおらぬ故、同い年の瑠璃が良き話し相手になるやも知れぬ」
「本当にそう思っているのか? 瑠璃殿は……」
いつもの陽気さとは異なる真剣な表情で虎之新が質すと、若き当主はそっと目を逸らし低く呟いた。
「栄進殿の婚儀の知らせに、姫は動揺しておられる。瑠璃と話をすることで、少しは気が紛れるやも知れぬだろう」
空の高いところから、鳶の鳴き声が微かに聞こえる。黙ってふたりの会話を聞いていた小柄な男が、おもむろに口を開いた。
「話し相手なら、伊織様がなれば良いでしょう。姫さんが動揺されているのなら、伊織様が傍にいてあげれば良いでしょうが」
「簡単に言うな、十の字……」
「簡単なことだろうよ。おまえは夫なんだから、十の字殿の言うとおりおまえが傍にいてやれよ」
あの表情を見ていないから、そのようなことが言えるのだ。己を責めるふたりの家臣に対し、伊織は心の内でそう反論した。
夏のはじめに隣国から嫁いで来た少女は、年若いが聡明な姫だった。常に冷静で思慮深く、けれども彼女の義兄が妻を娶ることを告げたその一瞬だけ、彼女の顔が微かに翳ったのだ。
母から朴念仁と揶揄される伊織であるが、妻が見せた表情の意味に気づかぬほど鈍感ではない。
なれど、彼女の兄の敵である己に妻を慰めることができようか。伊織は心の内で自問すると、きつく唇を噛んだ。
はじめての夜に蝶子が見せた怯えと、そして嫌悪の表情は、彼の脳裏に焼きついて決して消え去ることはない。
これ以上この会話を続けることを拒むかのように背を向けると、伊織は草を食んでいる愛馬のもとへ歩き出した。
そんな主の後ろ姿を眺めながら、ふたりの家臣はそっと顔を見合わせて溜息をついた。