さすがに庭の蝉はどこかへ行ってしまったが、秋の訪れが遅く日中は相変わらず強い日差しが照りつけている。
朝から来客が続いていた紅野家の当主は、自室に戻るなりどかりと胡坐をかき、深く長い溜息をついた。そんな主の様子を横目で眺めながら、女は手早く湯呑みを準備した。
「お屋形様、薬湯にございます」
温和な当主は時に、優柔不断だとか決断力のない無能だと揶揄されているが、決して激昂することのない穏やかな人柄は多くの家臣たちから慕われていた。
平時なら、きっと良い当主だと称えられたでろう。けれども、戦が続く乱世で求められるのは非情な即決力であった。
紅野和孝がようやく決断を下したのは国が疲弊した末のことであり、遅きに失した感は否めない。
娘の蝶子を染乃国へ嫁がせたあとの和孝は、己が下した決断への後悔と国の立て直しに疲れ果てているように見えた。
「悪いが、今はいらぬ」
女が目の前にそっと置いた湯呑みを一瞥すると、当主は短くそう告げた。朝に晩にと、女は鬼灯が育てた薬草を煎じて出しているが、当主は礼を言うだけで口にしようとはしない。
「なれどお屋形様、最近は評定続きでお疲れとお見受けします。薬師が疲れに効くと申しておりますので、騙されたと思って一度召し上がっては頂けないでしょうか?」
「わしを案じてくれているのやも知らぬが、心配は無用だ。白髪は増えたが、まだまだ若いつもりだぞ」
薬師の勧めだと偽れば飲んでくれるかも知れないと鬼灯は言っていたが、当主は軽口ではぐらかすだけだった。
「怪しい薬草ではございません故」
そう言って予備の湯呑みに薬湯を注ぐと、女はそれを口にした。一国一城の主である和孝は当然命を狙われる危険に常に晒されており、過去に毒を盛られたこともあると聞く。
その危険を回避する為に極力何も口にしないというのは理解できるが、分かっていても哀しかった。女が愛するあの人は、当主である和孝のことを心底案じているのだ。
鬼灯は薬草の知識に秀でており、実際に何種類かの薬草を己の庭で育てていた。けれども彼は、自分の名を出さなくて良いと言う。
もしも和孝がその事実を知れば信頼に繋がり、鬼灯は己の立場を固めることができるだろう。しかしながら彼が望むのは当主の健康だけで、その為なら己の巧名すら頓着しないのだ。
だから女は、何としてでも当主に薬湯を飲んでもらいたかった。
もちろん彼女自身も当主の体調を案じていたが、何よりも鬼灯の想いを無駄にしたくなくて、だから衝動的に毒見をして見せたのだった。
「ふむ、苦いな」
女の行動に面食らった表情を見せていた当主だったが、彼女の執念に折れたのか、とうとう湯呑みに手を伸ばした。
「良薬口に苦し、でございます」
「なれど、苦いものを飲む方がわしは体に悪いと思うぞ」
忌々しげにそう言いながらも、結局当主は薬湯を飲み干したのだった。
その日から女は当主の為に薬湯を準備すると、まずは己が口にして見せた。そんな侍女の様子に、当主も渋々ながら服す。
毎度毎度、まるで子供のように逃れようとするのだが、結局きちんと飲み切るのは自分たちの想いが通じたからだと感じられて女は嬉しかった。
当初に比べるとましにはなったが悪阻はまだ続いていて、正直食べ物も飲み物も口にするのは辛い。
まして薬湯は何とも言えない苦い味がして、せり上がってくる吐き気との戦いでもあった。
けれど、体は辛くても心は満たされていた。愛する人の力になれた気がして、いつも身分の違いを引け目に感じていたけれど、女の心には微かな自信が芽生え始めていた。
「ちょっと、真っ青だけど大丈夫!?」
ここ数日、相変わらず女は悪阻に悩まされながら、子を孕んでいることを誰にも悟られぬよう務めをこなしていた。
苦味を我慢して薬湯を口にし、文句を言いながらも飲み干す当主の姿に安堵して湯呑みを片づける。
今日もそれは変わらない筈だったのに、唐突に激痛が女を襲ったのだ。
激しく茶器が割れる音を聞きつけた侍女仲間が、台所の手前でしゃがみ込んでいる女の姿に驚いて声をかける。
大丈夫だと笑って見せようとしたけれど、上手くはいかなかった。
尋常じゃなく腹が痛い。悪阻は相変わらずひどくて周囲にも食欲の無さを心配されていたけれど、愛しいあの人の子を宿しているという事実がその苦しみを和らげていた。
けれども、この痛みは違う。女は言い知れない恐怖を感じていた。
「人を呼んで来るから、少しだけ我慢をして」
朦朧とし始めた意識の中で、同僚がそう告げて走り去った。助けて。そう叫んだつもりだったのに、掠れた息だけが漏れて声にはならなかった。
この子を助けて。ただそれだけを願いながら、女はまるで我が子を守るかのように己の腹を押さえた。
けれども痛みは治まるどころが増すばかりで、目の前がぼんやりと霞んでくる。
経験したことのない激しい痛みは確実に腹の中の幼い命を狙っていて、女は血の味がするくらいにきつく下唇を噛みながら必死に痛みに抗った。
不意に、どろりとした熱い液体が脚を伝って流れ落ちる。その瞬間、女の背筋をぞくりと悪寒が走った。
「い……や……」
涙が滲む。嫌だ、奪わないでと必死で神仏に祈った。どくどくと脈打つ体は先程まで耐え切れないくらいに熱かったのに、今は歯の根が合わぬくらい急激に冷えてきている。
「嫌あ!!!!!」
大切なものを失ってしまったことを悟った女は、悲痛な叫び声をあげると同時に意識を手放した。
* * * * * * * * *
蝶子が自室から出るようになると、面会を望む者がちらほらと出てきた。当主に目をかけてもらう為に、まずは奥方に取り入ろうという魂胆なのだろう。
別に蝶子は政に口出しするつもりはないので無駄なのにと思いながらも、これも当主の妻の務めかと諦めて、できる限り会うようにしていた。
「お忙しいところ時間をいただき、かたじけない」
「とんでもございません」
どう考えてもそちらの方が忙しいでしょうにと思いながら、蝶子は父と同世代の男に向かって控えめな笑みを浮かべた。
「婚儀の際に一度だけお声をかけたのだが、覚えていらっしゃるかな?」
「もちろんでございます。お屋形様の叔父でいらっしゃる秀久様に直接祝いのお言葉を賜りましたこと、忘れる筈がございません」
その日、蝶子に面会を申し入れたのは、伊織の父の実弟である蒼山秀久であった。
若くして家督を継いだ伊織を支える秀久は染乃国に於いて重要な人物のひとりであり、輿入れして来た蝶子が言葉を交わした数少ない人物でもあった。
「それは光栄でござる。ところで姫が染乃に来られてふた月以上が過ぎたが、少しはこの地での暮らしに慣れましたかな?」
「はい。お屋形様はじめ皆様に良くしていただき、少しずつ慣れて参りました」
それは何よりと言って夫の叔父は相好を崩したが、目の奥は笑っておらず、まるで蝶子を値踏みしているようであった。
「伊織は昔から口下手でござってなあ。姫も、奴が何を考えているか分からぬ時がありませぬか?」
秀久は弓の名手として謳われ、幾多の死線をくぐり抜けてきたと聞く。
他愛のない会話のように重ねられる質問も、その眼力の前には何か裏があるのではないかと、蝶子は油断なく考えを巡らせていた。
「確かに無口でいらっしゃいますが、お優しい方であられると存じます」
「されど伊織は忙しい故、姫もお寂しいでしょう?」
蝶子の当たり障りない答えが気に入らないのか、それとも何らかの答を導き出したいのだろうか。尚も質問を重ねる秀久の真意をはかりかねて、蝶子は注意深くその問いに答えた。
「当主というお立場にあられる以上、それは致し方のないこと。多忙を極めていらっしゃるにも関わらず、わたくしのことも気にかけていただき逆に感謝しております」
それは嘘偽りない本音であった。正直、夫である伊織のことはよく分からない。
嫁ぐ前に抱いていた鬼かも知れぬという恐れは薄らいでいるが、兄の命を奪ったという恨みの気持ちが消え去ることはない。
夫婦の間に愛情などひとかけらも存在していないが、伊織が正室として蝶子を尊重してくれているのは事実で、だからこそ彼女は己の分をわきまえて振舞おうと決めていた。
「よくできた奥方だ。なかなか身を固めようとしない伊織にやきもきしていたのだが、姫のような方が嫁いで来られて安心し申した」
「過分なお言葉、恐縮でございます」
「いやいや、あとはお世継ぎだけでござるな」
承知しておりますと小さく頷きながら、蝶子は薄く微笑んだ。
先代が病で亡くなった際、嫡男である伊織の若さを理由に、先代の実弟である秀久を当主にするという話もあったと聞く。
結局は伊織が家督を継ぎ、秀久が若き当主の補佐をするという形でおさまった。実際に甥は叔父を頼りにし、叔父も甥のことを影になり日向になり支えているという。
けれども同時に、伊織は母方の従兄である河合虎之新のことも重用しており、そのことに関して秀久がどう思っているかは不明であった。
「ところで、姫はおひとりで輿入れされた故、話し相手がおらずお寂しいでしょう」
「それは確かに、そうかも知れません」
茜子はついて来てくれると言っていたのに、それを認めなかったのは伊織だ。
寂しかろうと案じてくれるのならば、そもそも穂積側の侍女の帯同を許可するよう甥を説得してくれれば良かったのにと、蝶子は内心恨めしく思った。
「実は某には娘が五人おりまして、一番上の娘が姫と同い年にございます。
従兄である伊織のことは幼少の頃より兄のように慕っており、是非とも姫にもお会いしたいと申しておりましてな。
姫と比べると幼さが残る娘ではござるが、話し相手くらいは務められると思うのですがいかがかな?」
突然の申し出の真意は、一体どこにあるのだろう。
向かいに座る人物の表情をそっと窺うも、機嫌良さげな笑顔の下に隠された意図は読み取れず、夫の叔父の申し出を蝶子は受ける以外なかった。