朝晩のみならず日中に吹く風も涼しくなり、いつしか夏は去っていた。夜明けが遅く、逆に日暮れは少しずつ早くなってゆく。
夏の間はほぼ自室で過ごした蝶子だったが、秋風に誘われるように城の庭園に出るようになっていた。
はじめて庭園に出たいと告げた時はいつも無表情の桔梗が微かに目を見開き、すれ違う侍女や家臣たちに至っては皆一様にあからさまな驚愕の表情を見せた。
蝶子としてはおおっぴらに表へ出るつもりは毛頭ないが、気を使って引き籠っているものを、正室としてやる気がないと思われるのは何だか癪だ。
いずれ夫が側室を迎え入れるとしても、居心地が悪くない程度には自分の場所を確保しておこうと思い部屋から出るようになると、いつしか城の者たちも驚くことはなくなり、ただ一礼して通り過ぎるようになっていた。
蝶子の部屋の小さな庭は満開の曼珠沙華が赤く染めているが、この広大な庭園は相変わらず緑と灰色だけで構成されている。
けれどもよく見れば草木の緑には濃淡があり、灰色の岩や砂利には表情があった。どちらが好きかと問われれば、やはり花が咲く庭だと蝶子は答えるだろう。
それでも雪寿尼の言うように華美を排除した庭には常に静寂があり、見ていると何となく心が穏やかになる気がする。
正反対の特徴を持つ庭の両方を楽しめるということは、姑の言うとおりとても贅沢なことなのかも知れないなと、蝶子は心の中で密かに納得していた。
「姫、こちらにおられたか」
とりとめなく考えを巡らせていると、低く落ち着いた声で呼びかけられた。振り返ると、濃紺の着物を纏った伊織が立っていた。
「どうかなさいましたか?」
まるで蝶子を探していたかのような夫の口ぶりを不思議に思いながらそう尋ねると、思いもよらぬ答が返ってきた。
「先程、栄進殿より文が届いた」
「え?」
義兄とは、これまでに一度だけ文のやりとりをした。容姿の美しさが文字にも表れるのか、蝶子の染乃での暮らしを思いやる手紙は達筆であった。
けれども、暫くは文を送らないと蝶子は決めている。
義兄への淡い想いはすべて断ち切って嫁いで来た筈なのに、はじめて文を受け取った時には己が情けなくなる程に心が揺れたのだ。
思いやり溢れる文面に嬉しくなり、二度と会えない事実を改めて痛感してやりきれなくなり、このような状況を生み出した父の決断を嘆きたくなる。
思っても詮ないことを、愚かにもくよくよと考えてしまうのだ。だから蝶子が近況を知らせる主な相手はもっぱら、姉妹のように育ったかつての侍女である茜子だった。
「栄進殿の婚儀が決まったそうだ」
蝶子の隣に座ると、伊織がいつもと同じ穏やかな声でそう告げた。秋風が庭を吹き抜け、木々をさわさわと揺らす。
「まあ、それはおめでたいことにございます。して、お相手は?」
「武藤家のご息女、薫子殿だそうだ」
「さようでございますか。薫子様が嫁いで来られるとあらば、父も義兄もさぞ喜んでいることでしょう」
声よ、震えるな。必死で口角を上げながら、蝶子は努めて朗らかに笑った。
「姫は面識があるのか?」
「ええ、何度か」
紅野家の家老を代々務める武藤家の薫子は、穂積国で最も美しいと称えられる姫君だ。
二歳年上の彼女とは何度か顔を合わせたことがあるが、美しい上に頭も良く、義兄と並べばさぞかし似合いの夫婦となるだろうと蝶子は思った。
「落ち着いたら改めて姫にも文を書くので、くれぐれもよろしく伝えて欲しいとのことだ。当家より早速祝いの品を贈るが、姫も義兄上に祝いの言葉を贈って差し上げよ」
「はい」
何を動揺しているのかと、蝶子は故郷からの知らせに衝撃を受けている己に対してそっと嘆息した。近いうちに義兄が誰かを娶るということは、分かり切っていたことなのだ。
紅野の血を守る為に誰もが蝶子を栄進の妻とするだろうと予想していたが、当主である父は蒼山家との政略結婚を優先した。
紅野の血を引かない栄進が家督を継ぐとなれば、その嫁は紅野家の遠縁の娘になることは暗黙の了解で、そうなれば候補は限られてくる。
代々家老職を務める田辺家と武藤家はその系譜を辿れば紅野家に繋がり、花嫁候補は両家のいずれかから出るのが順当だ。
蝶子の輿入れの際に送り役を務めた長吉郎の妹である薫子は、武藤家の長女である。
近々別の家へ嫁ぐことが決まっていると聞いていたのでいささか驚いたが、武藤家の他の娘はまだ幼く、田辺家に至っては亡き守之介をはじめ全員が男であった為に彼女に白羽の矢が立ったのは必然であった。
すべて予想していたことなのに、蝶子が蒼山家に嫁ぐことが決まってからずっと覚悟していたことだったのに、この期に及んで狼狽している己が情けなくなった。
「穂積の華やかな庭を見慣れている姫には、我が庭園は珍しかろう?」
不意に隣から問いかけられ、蝶子ふと我に返った。知らぬ間に夫がこちらを見つめていたから、さりげなく目を逸らす。
「ええ、隣の国だというのに随分と趣が異なります」
そのことをつまらないと思っていたのに、少しだけ面白いと思えるようになったのは、間違いなく雪寿尼の影響だろう。
「そうだな。近い筈なのに、異なることや知らぬことは多い」
その淡々とした口調は単に蝶子の言葉に同意しただけかも知れないが、何故だか蝶子は突き放されたような気がした。
――異なることが多いから、だから一生相容れないだろう。
生まれ育った土地の慣習と移り住んだ土地の慣習と、ふたつの文化に触れられるということは遠方に嫁ぐ女子の特権かも知れない。
そう前向きに考えようとしていたけれど、生まれ育った土地を守ってゆかねばならない男子にとってそのような意識は皆無なのだろうか。
もともと政略結婚なのだから相容れる必要などないし相容れたくもないと思っていた筈なのに、伊織の何気ない言葉に蝶子は何故だか少し落胆した。
義兄は美しい姫と結婚し、自分は夫から触れられることもない……。
やがて伊織は人と会う約束があると言って、蝶子を残して去って行った。ひとりぽつんと残された蝶子は、再び庭を眺めてみるも、心がざわついてもはや静寂は感じられなかった。
* * * * * * * * *
女は誰もいない廊下で柱の陰に身を隠すと、崩れるように座り込んだ。胃からせり上がってくるような吐き気を感じながら、けれどもえずくだけで何も出てこない。
相変わらず昼間は残暑が続いているが、全身に悪寒が走り指先が冷えてゆくのを感じていた。
特に変わったものは口にしていないが、何かにあたってしまったのだろうか。それとも風邪でも引いてしまったか。
気を逸らす為に考えてみるが、そのどちらでもないということはもう分かっている。かれこれ二ヶ月以上、女には月のものが来ていなかった。
女は太い柱に身をあずけるようにして大きく息を吐くと、そっと己の腹を撫でた。子を孕んだことはないが、そこに微かな生命が宿っているという確信めいたものがあった。
愛しいあの人は、自分が身籠っていることを告げたらどういう表情をするだろうか。喜ぶだろうか、疎むだろうか。鬼灯様と、女は口の中で小さく男を呼ばった。
優しい男はふたりきりになると、いつか女を娶ると夢のようなことを言っていた。本当に叶うかも知れないと期待する気持ちと、自分では身分が釣り合わないと諦める気持ちがいつもある。
女は男に抱かれる時、永遠に幸せが続くことを願いながら、いつこの幸せが途切れても受け入れる覚悟をしていた。
「顔色がすぐれぬようだが、大丈夫か?」
闇に身を隠すように女の部屋を訪れた男は、顔を見るなりそう尋ねた。
「大丈夫でございます」
「本当か? そなたは働き者故、無理をしすぎていないか心配だ」
そう言いながら顔を覗き込まれると、女は一気に頬が火照るのを感じた。ひどい吐き気で食事も殆ど喉を通らなかったが、少し横になって昼間より気分は楽になっていた。
「鬼灯様……」
「何だ?」
勝手知ったる様子で部屋に入って来た男に茶を出すと、女はそっと名を呼んだ。
「いえ、何でもございません」
けれども、その先に言葉は続かなかった。優しいこの人は、恐らく子が宿ったことを喜んでくれるだろう。
しかしながら女を孕ませたという事実は、男にとって良い影響を及ぼすとは考えられない。
自分を気遣う労わりの言葉に、一瞬真実を告げようかと迷ったものの、この人の枷になりたくないという思いが結局は女の口を閉ざしてしまった。
「お屋形様のご様子も、相変わらずのようだな」
黙り込んだ女を無理に追求することなく、その細い肩を抱きながら男はまるでひとりごとのように呟いた。
こうして甘えさせてくれる優しさが心に沁みる程嬉しくて、その肩に女はそっと頭をあずける。
「はい。何事もないように振る舞っていらっしゃいますが、おひとりの時は横になられることが多いです」
「ゆっくりお休みになっていただきたいのだが、戦の後処理が残っていてなかなかそうも言っていられないのが歯痒いな」
愛娘と和平を引き換えにする決断を下した当主は、今は疲弊した国の立て直しに忙殺されている。
家臣もそれは同じなのだが、一国一城の主にかかる責務は大きく、最近は明らかに疲れが溜まっているのが見てとれた。
「薬湯も何度かお出ししたのですが、私共を心配させぬ為か、自分には不要だと笑って口にはされぬのでございます」
「そうか……」
並んで座っているので、女からは男の表情は見えない。けれど、その声がひどく寂しそうに聞こえて、女は己の肩に回されている男の手にそっと触れた。
「どうした?」
「いいえ、何でもございません」
女にとって優しい男はまた、他の者に対しても優しかった。彼の豊富な薬草に関する知識は、身分に関わらず、城内で体調を崩したすべての者を癒しているのだ。
だからこの人の優しさが、当主にも届けば良いと女は切に願っていた。
「何とかして、お屋形様に薬湯を召し上がっていただきます」
「頼もしい言葉だな」
勢い込んで宣言すると、男が楽しそうに笑った。彼は誰と接する時も常に微笑みを絶やさないが、自分に見せる笑顔は殊に甘いと感じるのは自惚れだろうか。
男の長い指に己の指を絡ませながら、この人の笑顔は必ず自分が守ってみせると、女は密かに心の中で誓いを立てた。