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の居る場所



 夕凪の章  壱


 目が覚めると、見慣れぬ天井があった。
 ――ああ、ここは染乃の城だ。
 ゆるゆると覚醒する意識の中で、蝶子は己がいよいよ染乃国に嫁いで来たことを思い出した。



 蝶子が染乃城に入ったのは、すっかり日も暮れ空には星が瞬く刻限だった。穂積国を発った蝶子たち一行は初日、二国間にそびえる山の中腹にある寺で一晩を過ごした。 そして夜が明けると間もなく出発し、昼前には染乃国に入ると、蝶子の夫となる人が住まう城をただひたすらに目指した。
(まだ揺れているようだわ)
 体の節々が痛むのを感じながらゆっくりと立ち上がると、蝶子はふらりと倒れそうになり思わず屈み込む。平坦な道は駕籠で、山道は馬。 この二日間常に揺られていた蝶子は疲労困憊して昨晩は泥のように眠ったのだが、目覚めた今もまだその揺れは体に染みついていた。けれども、いつまでもこうしてはいられない。 午後からはいよいよ蝶子と蒼山伊織の婚儀が執り行われるのだ。
 はじめての長旅でまだ疲れが癒えているとは言えないが、紅野の姫として失態を見せるわけにはゆかない。 そう気合を入れると、蝶子は注意深く立ち上がった。

 昨晩は無事に城に着いたことに安堵して、倒れる寸前の体はただ睡眠を欲していた。だから案内された部屋を見回したのは、今がはじめてだった。 与えられた部屋は、穂積で過ごした部屋とほぼ同じ広さだ。華美ではなく、かと言って質素でもない。 恐らく一日の大半を過ごすことになるであろう己の部屋が存外快適そうであることに、とりあえず蝶子は胸をなでおろした。
 やがて蝶子は、隙間から朝日が差し込む戸口へと向かう。引き戸に手をかけると、大きな音の割には簡単に開いた。
「まあ……」
 予想外の景色に、蝶子の口から思わず感嘆の声が漏れる。そこには小さな庭があり、夏の花たちが咲き誇っていたのだ。
 幼い頃に母から聞いた話では、染乃国では簡素なものに美を見出し、穂積の者たちのように花を愛でる習慣がないとのことだった。 それを聞いて蝶子は子供心につまらない民だと蔑み、今回の輿入れに絶望した大きな要因のひとつとなっていた。
 けれどもどうして、目の前には百合や梔子の花々が咲いている。 穂積城の蝶子の庭ほど広くはないが、こじんまりとしたその空間がしっかりと手入れされていることは明白で、美しい花の姿に蝶子はすっかり疲れが癒えたような気がした。

「蝶子様、お目覚めでございますか?」
 蝶子が庭の花を眺めていると、襖の向こうから遠慮がちに声をかけられた。恐らく引き戸を開ける音を聞きつけたのだろう。 短く返事をすると、失礼しますと言ってひとりの娘が静かに入って来た。
「昨晩はお疲れでございましたので、ご挨拶は控えさせて頂きました。これより蝶子様に仕えさせて頂きます、桔梗にございます。 今後何かございましたら、わたくしにお申しつけ下さいませ」
 蝶子よりも幾分年かさであろう。桔梗と名乗る侍女の声に温度は感じられず、その所作は見た目より遥かに落ち着いて見えた。
「こちらのことは何も分かりませぬ故、これから宜しくお願いします」
「では早速でございますが朝餉を用意しますので、それから婚儀のご準備をお願いいたします」
「分かりました」
 淡々と話す侍女に対し、自然と蝶子の口調も同じような調子になる。 比べること自体が愚かなことだと思いつつ、時に厳しく時に優しく接してくれた茜子のことを、蝶子は既に恋しく感じていた。

 桔梗が蝶子に対する態度は明らかに、与えられた役割だと割り切ったものが透けて見えた。 やはり敵国の姫にはよそよそしいかと、ある程度予想はしていたものの、蝶子は息が詰まるような気がしてそっと嘆息した。 けれども親しみは感じられないが、桔梗が有能なことはすぐに分かった。 昼から始まる婚儀の身支度の為にされるがままだったのだが、彼女が年若い侍女たちに出す指示に無駄はなく、蝶子は身を清めて花嫁姿になるまでの間に彼女によって重臣たちの名まで頭に叩き込まれていた。

「それでは、ご案内いたします」
 相変わらず素っ気ない口調でそう告げられ、蝶子は短く返事をすると紅をさした唇をきゅっと引き結んだ。いよいよ、夫となる人物との対面である。 昨晩は到着後すぐに部屋に案内されたので、侍女以外の者には会っていない。だから伴侶となる人の姿を見るのはこれがはじめてだった。
 蒼山家当主である伊織は切れ者だが冷徹で、作戦を完遂させる為には手段を選ばない鬼のようだという噂は、穂積の城内で何度か耳にしたことがある。 卑怯な手段で兄を殺した男はどのような顔をしているのか。蝶子の脈はどくどくと波打ち、己の心の臓の音が聞こえてくるような気がした。
 長い廊下を歩き、やがて先を行く桔梗が大広間の前で足を止めた。無表情の侍女からは、敵将に嫁ぐ蝶子の吐き気がするような緊張感に対する気遣いは微塵も見られない。 白を重ねた花嫁衣裳がずしりと重く感じられる。やがてゆっくり大きく息を吐くと、蝶子は静かに広間に足を踏み入れた。

 結局は結婚の儀の間、蝶子が夫の顔を見ることはなかった。 常に頭を垂れていた為に、隣に座る夫のみならず、目の前の親族や一門の者たちの顔を誰ひとりとして確認することはなかった。
 やがて始まった宴では酒が入り、陽気な男たちの声が広間に響き渡る。ここにいる者たちは蝶子を歓迎しているのかしていないのか、その腹の内は読めない。 宴の喧騒をどこか遠くに感じながら、蝶子は穂積の姫として醜態を晒さぬようにと、ただその一点に集中していた。確認はできないが、送り役として武藤長吉郎もどこかに控えている筈だ。 婚儀が無事に終わるのを見届けてから国へ戻る重臣は、蝶子が立派に務めを果たしたことをきっと父や義兄や、穂積の者たちに伝えてくれるだろう。 それを唯一の糧に、己の意識が常に左側に座るその人に向いているのを嫌という程に感じながら、蝶子は凛と座していたのだった。



「では、失礼いたします」
 宴は終わり、ようやく蝶子は重い白無垢から解放された。緊張が緩みほっとしたのも束の間、桔梗に湯殿へ連れられて、そこではじめて大切な務めが残っていることを思い出した。 紅野の姫として、穂積が貶められるような振る舞いだけはしたくない。結婚の儀をつつがなく終わらせることばかりに気をとられ、愚かにも蝶子はそのあとのことを失念していたのだ。
 清められてさっぱりと身体とは反対に、心はどんどん憂鬱になってくる。居心地悪く部屋の隅に小さくなっている蝶子に対し、桔梗は己の仕事は終わったとばかりに一礼した。
「あの……」
「何か?」
 部屋を出て行こうとしている桔梗に反射的に声をかけてしまったが、何も用はないので聞き返されても答えることができない。
「いえ、何でもないわ」
「それでは、おやすみなさいませ」
 用意されてた寝床の脇で明らかに固くなっている蝶子に気づいているのかいないのか、侍女は表情を変えることなく部屋を出て行った。 当然のことながら、蝶子の務めは白無垢を着て蒼山伊織の隣に座ることだけではない。準備された寝床を前に、蝶子はこくりと唾を飲み込んだ。
「失礼いたします。お屋形様のお成りにございます」
当主付きの者だろうか。蝶子の部屋の外から静かに声がかけられる。努めて冷静を装いながらはいと答えると、覚悟を決めた蝶子は頭を垂れながら夫を待った。

「表を上げよ」
 宴の間に聞き馴染んでしまった落ち着いた低い声に促され、そろそろと顔を上げる。すると目の前には、切れ長の涼しげな目をした男が胡坐をかいていた。
(鬼では、ない……)
 思わず心の内で、当たり前のことを呟いた。 鬼のように冷酷だという噂を聞いてどんな恐ろしい容姿をしているのかと案じていたが、実兄の男らしさとも義兄の美しさとも違う、整った顔立ちが真っ直ぐに蝶子を見つめていた。
「遠路はるばる、よう参られた」
「紅野和孝が娘、蝶子にございます。至らぬ点は多々あるかと存じますが、以後、宜しくお願いいたします」
 表情を変えないまま労いの言葉をかけた伊織に対し、蝶子は深々と頭を下げた。
「昼間の婚儀にて、我らは夫婦となった。そのように堅くならずとも良い」
 その言葉が蝶子の胸に刺さる。ああ、自分はいよいよ正式に蒼山伊織の妻となってしまったのだ。 固めの杯を交わしても尚、顔もまともに見ていない相手の妻になったという実感が湧かなかったのだが、本人に夫婦だと宣言されることは予想以上に蝶子へ衝撃を与えた。
「ありがとうございます」
 己の気持ちを隠すよう、蝶子はそっと微笑んだ。この国に蝶子を守ってくれる者はいない。相手が鬼でも人間でも、従順であらねばならなかった。

 やがて、ふたりの間に沈黙が落ちる。呼吸をすることすら躊躇うくらいに、周囲は夜の静寂に包まれていた。
(ああ、これから自分はこの男のものになるのだ)
 どこか冷静な思考の隅で、蝶子はそう思った。夫となった人に触れられ、誰にも見せたことのない己の全てを暴かれる。 今この瞬間の、外部から遮断されてしまったかのような静寂は窒息してしまいそうなくらいに重苦しかった。
 だから、伊織はもう蝶子の夫なのだから、いっそさっさと好きに奪い去って欲しい。緊張が最高潮に達した蝶子は、ついにはそんななげやりな気分になっていた。

「姫……」
 どれ程の間、黙って向き合っていたか。やがて意を決したように、伊織が新妻にそっと手を伸ばす。その瞬間、言い知れない嫌悪が蝶子の背筋をぞくりと這い上がった。
 目の前に座る夫は、鬼でも物の怪でもない。その体躯は男らしく、顔立ちは整い、声は低く落ち着いている。けれども、それが蝶子には逆に恐ろしかった。 いっそ見るからに残虐そうな妖であった方が覚悟ができたかも知れない。穏やかで冷静そうに見える男が、和平交渉に赴いた蝶子の兄を殺したという事実が何よりも恐怖に感じられたのだ。
「あの、申し訳ございません……」
 思わず引きかけた体を、そっと戻す。涙が滲みそうになる。きっと伊織は、蝶子が契りを交わすことに緊張しているのだと思うに違いない。 そう祈りながら己の恐怖心を悟られぬよう、蝶子は夫の無骨な手がそっと髪に触れるのに耐えた。

「今宵はゆっくり休まれよ」
 ひと房すくった髪をさらりと梳いたのち、伊織はおもむろに立ち上がった。
「え?」
「長旅と婚儀で疲れているであろう。暫くは無理をされるな」
 表情を変えぬままそう言うと、伊織はすらりと脇差を抜いた。まさか自分は初夜に殺されるのか。 青白く光る刃をただ茫然と眺めるだけで、蝶子の体は硬直して声を発することもできなかった。 そんな新妻の様子に気を留める風もなく、夫は左手の親指の腹に刃をあてる。ぷつりと皮が切れ、すぐに赤い血が盛り上がってきた。 血を絞り取るように指を押さえると、用意されていた寝床の白の上に鮮やかな赤が数滴散った。
 やがて静かに立ち上がると、伊織は蝶子の部屋をあとにした。立ち去る夫の広い背中を、新妻はただぼんやりと見送った。

 


2014/08/26 


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