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の居る場所



 夕凪の章  弐


 染乃国での暮らしは、ひどく単調であった。
「奥方様、朝餉をお持ちいたしました」
 朝起きて身支度を整えると、まず蝶子は庭に出た。たった一晩の間でも、蕾が膨らんだり花がしおれたりと日々変化するので、毎日観察しても一向に飽きなかった。 そうこうしていると、桔梗が朝食を運んで来てくれる。
「ごちそうさまでした」
 殆どが汁という椀の底をさらうように雑炊を食べ終えると、蝶子は手を合わせた。 紅野家も決して裕福ではないが、玄米に一汁一菜という食事に慣れていたので、はじめて汁ばかりの雑炊を出された時はこれだけかと思わず尋ねそうになってしまった。 ほぼ同じくらいの石高であると思われていたが、食事に関しては蒼山家の方が遥かに貧しい。 但し常にひとりで食事をとっている蝶子には、染乃国の食事事情が悪いのか己の膳だけが質素なのかは知る由もなかった。

 食事が終わると本を読んだり裁縫をしたり、たまには穂積への文を書いたりして時間を潰した。 穂積にいた頃は、古くからの重臣である武藤家や他の家臣の娘たちを招いたり逆に招かれたりもしたのだが、ここでは蝶子を訪ねて来る者はいない。 訪ねたい相手も場所もないので、城外に出ることが許されるのかどうかを確認したことすらなかった。
 ちらりと庭を見やると、相変わらず強い日差しが降り注いでいる。地面に落ちる濃い影の長さは先程眺めた時と変わらず、時間がさほど進んでいないことを物語っていた。
(言葉を、忘れてしまいそうだわ……)
 会話をするのは、桔梗と他の侍女数名のみ。そして彼女たちは皆、口数が少なく雑談をすることもない。婚儀の際に覚えた家臣たちの名も、会うことがないので一向に呼ぶ機会がなかった。
 敵国に嫁いだ姫たちは、皆このような生活を送っているのだろうか。 夫である蒼山伊織はたまに義務のように蝶子の部屋を訪れるが、彼女に触れることは決してなく、当然会話が弾むようなこともなかった。



「よう、桔梗。姫さんの塩梅はどうだ?」
 桔梗がよく磨かれた廊下を音もたてずに歩いていると、背後から大きな声で呼び止められた。
「虎之新様……」
「伊織に尋ねても答えやしない。なあ、姫さんは染乃に少しは慣れたのかい?」
「慣れたかどうかは、わたくしには何とも」
 日に焼けた大柄な男の屈託のない問いに、桔梗は表情を変えず言葉を濁した。日がな一日自室に籠っている姫が、この国での生活に慣れたかどうかを見極めるのは難しかった。
「婚儀から城内で姫さんの姿を見かけた者が殆どおらず、本当にこの城に住んでいるのかと家臣たちの間で噂になっているぞ」
「書物を読まれたり文を書かれたり、元気でお過ごしになられています」
 新しい主は身の回りのことは自分で行い、桔梗の手を煩わすことは殆どない。だから必然的に傍にいる時間も少なく、交わす言葉もごく僅かだ。
「桔梗は、伊織がおまえを姫さんのお付きにしたことを、まだ不満に思っているのか?」
「不満に思ったことなどございません」
 顔色ひとつ変えずに言い放った侍女に対し、虎之新と呼ばれた男は呆れたように小さく笑った。
「伊織はあまり姫さんの元へ通っていないようだし、おまえはそんな調子だし。姫さんはそのうち喋り方を忘れてしまうかもな」
「ご心配ならば、虎之新様が奥方様をお訪ねになればよろしいではございませんか」
 そう言って、桔梗は目の前の大男をちらりと睨む。彼女の表情が微かに変わったことに気づいた男は口角を上げると、口髭を撫でながら飄々と答えた。
「伊織に殺されたくはないからなあ」
 どこまでが本気でどこからが冗談か分からない男の様子に、侍女はそっと溜息をついた。

 空気を震わせるように大音量で鳴き続けていた蝉が、示し合わせたように唐突に鳴きやんだ。廊下から臨む庭園には、濃い緑と白い砂利が静粛な空間を生み出している。
「姫さんは、あの庭を気に入られたか?」
 桔梗が声の主を見上げると、先程までの掴みどころのない様子が嘘のように、真剣な目がこちらを見つめていた。
「ええ、恐らく」
 色彩が限られた庭を見慣れた桔梗には、蝶子の部屋の庭は鮮やかすぎて落ち着かない。もちろん花は綺麗だが、例えば一輪だけ飾っている方が、格段に美しいと思うのだ。 けれども隣国から嫁いで来た姫にはそうではないようで、よく庭に下りて飽きもせず眺めているようだった。
「我らのご当主の大切な奥方様だ。せいぜいしっかり仕えることだ」
「承知しております」
 そんなことは分かっている。感情を込めずに平坦な声音で答えると、それはいつものことなので男は気にする風もなく、豪快に足音をたてながら大股で去って行った。
 ――伊織がおまえを姫さんのお付きにしたことを、まだ不満に思っているのか?
 つい先程投げられた問いが、耳の奥で蘇る。不満に思わないわけがない。先程己が口にした答とは正反対の感情が、桔梗の腹の中に昏く渦巻いていた。

 桔梗が生まれたのは代々蒼山家に仕える家だ。母や姉に倣って幼い頃から城に上がった彼女は、もともとは先代の奥方付きの侍女であった。 先代が病死して奥方が仏門に入ったのを機に侍女の役を辞したのだが、現当主が隣国から姫君を娶ることとなり、そのお付きとなるよう呼び戻されたのだった。
 敵国から嫁いで来るのはどんな高慢な姫かと危惧していたが、やって来たのは大人しい娘だった。さして豊かでない染乃国では、当主と家臣たちとの垣根はさほど高くはない。 どうやら同じくらいの国力である穂積国もそれは変わらないようで、蝶子は贅を好むでもなく我儘に振る舞うでもなく、ただ静かに暮らしていた。 これが豊かな海原国の姫であればこうはいかなかっただろうが、桔梗のとりあえずの気がかりは杞憂に終わったのだった。
 けれども、だからと言って敵国の姫に親しみを覚えるわけではない。 たったひとり知らぬ土地に嫁いで来ることを気の毒に思わなくもないが、自分に比べれば遥かに幸せだろうと、桔梗は敵国の姫の存在を苦々しく思っていた。

「桔梗、奥方様のご様子は?」
 蝶子の部屋より下げて来た膳を片づけていると、侍女頭が鋭く声をかけてきた。
「いつもと変わりございません。今は書物をお読みでございます」
「そう……」
 桔梗が短く報告すると、現当主が生まれる前から城に詰めているという侍女頭は、やや不服そうに顔を曇らせた。
「奥方様は、城内のことに興味がないようですね。 当初は慣れぬ土地での暮らしに気が張っておいでだろうと思っておりましたが、一向に蒼山家の正室としてのお務めを果たそうとする気配がない。 お屋形様のお渡りも少ないようですし、やはり穂積の姫君では荷が重すぎたようだわ」
「お屋形様は、何か仰っておられるのでございますか?」
 自分も穂積の姫には良い感情を抱いていないくせに、他人の愚痴は聞いていてあまり気分が良くない。 何かにつけて不満ばかりを口にする侍女頭が日頃から苦手な桔梗は、同意を求めるような口調に質問で返した。
「特に何も。穂積国との和平を保つ為、奥方様のお立場をないがしろにはできません。なれど、時期を見て側室についても考えねばならないでしょうね」
 当主は何も言っていないのに、この思い込みの激しい侍女頭は早くも紅野の姫君に対し正妻として相応しくないという烙印を押してしまったようだ。 彼女の言うように、そろそろ表に出て奥方としての務めを果たすべきではないかと思わなくもないが、彼女とて好きで敵国に来たわけでなし、大人しく控えめに過ごしているのならばそれも良いではないのかと思ったりもする。
「紅野の当主は決断力のない人物と聞いています。我が殿の正妻となったのはそんな人物の娘なのですから、お付きであるおまえがしっかりと教育なさい」
「承知いたしました」
 桔梗の反応が薄かったことが気に入らなかったのだろうか。 怒りの矛先を自分に向けられてしまった桔梗はとんだやつあたりだと思いながら、けれども反抗できるわけはないので、従順を装って頭を下げた。

 長引く戦で民たちは疲弊し、不満が高まっていたのは事実だ。だからこそ当主の伊織は、和平交渉を結ぶ為に敵国の姫を迎え入れる決断を下したのだろう。 彼自身が妻のことをどう思っているのか、桔梗は知らない。無事に初夜は済ませたようだが、伊織が戦の後処理で多忙を極めているということもあり、あまり夫婦の接触はないようだ。 だから、蝶子が輿入れしてまだ間もないというのに、侍女頭のように側室の話を持ち出す輩もちらほらと現れているのだ。
 いずれにしても、桔梗にはあずかり知らぬことだ。己が正室付きであるにも関わらず、膳を片付けた彼女はそう思いながらさっさと立ち上がった。 伊織が何故よりによって自分を蝶子の侍女としたのか、それは敢えて考えないようにして、桔梗は淡々と主に出す茶の準備を始めた。

 


2014/09/04 


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