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の居る場所



 春暁の章  漆


 染乃国より迎えがやって来たのは、蒼穹広がる夏のはじめのことだった。
 朝到着した一行は、案内された広間で酒を飲みながら蝶子を待っているようだ。もっとも蝶子の支度はとうにできているのだが、花嫁は先方を待たせるのがならわしらしい。 もともと彼女とて気乗りのする話ではないので、さっさと出立して輿入れを待ち望んでいたのかと誤解されても不本意だ。 宴が開かれている賑わいから一線を画した自室で、蝶子はぼんやりと庭を眺めながら時間をつぶしていた。
「今年も朝顔が綺麗に咲きましたね」
 静かに部屋に入って来た茜子が、そっと茶を出しながら声をかけてきた。
「つい先日桜が咲いたと思ったら、いつの間にか朝顔が蕾をつけていたわ。月日が経つのは早いこと」
「じき、蝉も鳴き出すことでしょう」
 梅雨が明けて厚い雲が晴れると、一気に夏がやってくる。今はまだ静かな庭も、あと数日もすれば蝉の鳴き声で賑やかになるだろう。 そう思いながら、蝶子は侍女が淹れてくれた茶をすすった。

 別れの言葉は、昨夜既に告げている。暇乞いの儀において父や義兄、親族や家臣たちとの対面を済ませ、この城で蝶子のすべきことはもう残っていない。 輿入れが決まってから今日までの期間は長いようで短く、これまで世話になった多くの人たちともっと話をしておけば良かったと今更ながら後悔する。 けれど、たとえ夜通し語り合ったとしても、いざ穂積を発つとなればきっと心を残すことになるのだろう。そう己を納得させながら、蝶子はそっと湯呑みを置いた。
「姫様、こちらを」
 そう言って茜子がおもむろに小さな紙片を取り出すと、すっと蝶子の目の前に差し出した。
「これは?」
「栄進様よりお預かりいたしました」
「義兄上から……」
 暇乞いの儀には大勢の者たちが列席していた為、義兄とは型通りの挨拶を交わしただけだった。 恐らく今は広間で父と共に染乃の一向を歓待しており、このあと蝶子の出立は見送ってくれる予定だが、きちんと言葉を交わすのは義兄の部屋を訪れたあの時が最後となるのだろう。 半紙を小さく折りたたんだそれを受け取ると、蝶子はそっと帯に挟み込んだ。
「蝶姫様、お時間にございます」
 そしてついに、襖の向こうから声をかけられた。いよいよ出立のようだ。蝶子がそっと庭を見やると、朝のうち涼やかに咲いていた朝顔は既にしぼみかけている。
「参ります」
 短くそう答えると、蝶子は颯爽と立ち上がった。

 幼い頃からずっと過ごしてきた思い出深い部屋を出ると、そこには仕えてくれていた侍女たちが並んでいた。
「世話になったわね」
 そう声をかけると、彼女たちは揃って頭を下げた。
「蝶姫様!」
 歩き出した蝶子を、上ずった声が呼び止めた。振り返ると、一番年若い娘が緊張に震えながらこちらを見つめていた。
「恐れながら申し上げます。蒼山伊織様にはくれぐれもお心を許されぬよう、お気をつけ下さいませ」
「これ、小菊!」
 思いつめたような表情で言葉をかけてきた侍女に対し、長年仕えている侍女頭が慌てて窘める。 けれども蝶子はそれを制し、真剣な侍女の瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら逆に問うた。
「小菊は何故そのように思うのですか?」
「蒼山様は亡き忠孝様の和平交渉を決裂させた、国の平和を顧みない思慮浅い人物。更に蝶姫様のお輿入れに際し、供の一切を拒否する無礼なやり方は信頼に値いたしませぬ」
「蝶姫様の夫となられるお方です。口を慎みなさい!」
「罰ならばいくらでも受けます。なれど、これだけは言わせていただきたく存じます」
 必死に訴える侍女に対し、蝶子は続けるよう促した。
「どうぞ姫様自身で、御身をお守り下さいませ。叶うことならばわたくしは染乃国でも蝶姫様にお仕えし、少しでもお力になりとうございました。 なれどそれが許されぬのなら、せめて姫様がご出立なされる前にそれだけはお伝えしたかったのでございます」
 声を震わせながらもきっぱりと言い切ると、侍女は体をふたつに折って深々と頭を垂れた。黙って事の成り行きを見守っていた他の侍女たちも、年若い小菊に倣って頭を下げる。
「ありがとう」
 侍女たちがどれだけ蝶子を想ってくれているのかを知り、胸が熱くなる。そして同時に、蝶子の夫となる人物が穂積の人間にいかに信用されていないかも露呈された。
「おまえたちが傍にいないのは寂しいし不安だけれど、穂積の姫として、おまえたちに誇りに思ってもらえるよう努めるつもりよ」
 それは、自分を案じてくれる侍女たちを安心させる為の言葉であると同時に、いよいよ国を離れる自分を奮い立たせる言葉でもあった。 侍女頭が目頭を押さえるのが視界に入り、そっと目を逸らす。堪え切れずすすり泣く侍女たちの声に己の涙腺も緩みそうになるが、やがて蝶子はきっぱりと口を開いた。
「参ります。皆、達者で」

「姫様……」
 未練を断ち切るように早足で歩く蝶子の背中に、ひとり最後までついている茜子が遠慮がちに声をかけた。
「茜子がいてくれて良かった」
 廊下を曲がったところで足を止めると、蝶子はぽつりと呟いた。母を亡くした時も兄が逝った時も、一緒にいてくれたのはこの同い年の侍女だったのだ。 本当は茜子の目を見ながら告げたかったけれど、そうすれば恐らく涙が堪えられなくなってしまうだろうから、だから視線を逸らして柱に刻まれた美しい細工をじっと見つめていた。
「わたくしも蝶姫様にお仕えできて、本当に幸せにございました」
 父や義兄や多くの者たちと別れの言葉を交わし、いよいよ茜子が最後だ。迎えの者たちが待っているので早く行かねばと思いつつ、足が止まったまま動かない。
「姫様」
 幼い頃から何度も呼びかけられた声。これで最後だと思いながら、蝶子は茜子を振り返った。
「小菊はあのように申しましたが、わたくしは蒼山伊織様が姫様にとって生涯に渡り良き伴侶となられることをお祈りしております」
「……茜子」
「もちろん、安易に心許せるお相手ではございません。わたくしがお伴することも叶いませんので、姫様にはくれぐれも慎重に行動して頂きたいと存じます。 なれど、あのお方が姫様の夫君になられるのはもはや変えようのない事実。ならばわたくしは、蒼山様に姫様を大切にして頂きたいのです。 たとえ忠孝様を殺めた鬼であったとしても、姫様のことだけは愛される、そんなお方であって欲しいと願っております」
 はらりと涙が一滴、蝶子の頬を零れ落ちる。そっと指で拭うと、掠れた声でありがとうと呟いた。




 出立まではあんなにものんびりとしていたけれど、いざ発つとなれば呆気ないものだ。 言葉を交わしたい人はたくさんいるのに、かけたい言葉は山のようにあるのに、けれども身支度を整えた蝶子の口からは何も出てこなかった。
「蒼山殿の妻として、しっかりと務めるように」
 沈黙の中、父の口から零れたのは嫁ぐ娘のこれからを気遣うものではなく、務めを果たすことを念押しする言葉だった。 結局、敵国に娘を嫁がせることを決めた父は最後まで言い訳も詫びの言葉も口にすることなく、蝶子を溺愛していたかつての姿が思い出せないくらいに淡々としていた。 自分はもう、父に疎まれてしまったのだろうか。蒼山伊織に嫁ぐことを言い渡された時に湧き上がった不安が、今はもう抑え切れないくらいに膨れ上がっていた。

「慣れぬ地でくれぐれも無理をせぬよう、体には気をつけなさい」
 父の言葉に小さく返事をしたまま俯きかけた蝶子の頭上に、優しい言葉が降ってくる。ほっとして見上げると、そこには義兄の柔らかい笑顔があった。
「蝶子の頑張りを無駄にせぬよう、私がこの紅野家を繁栄させると約束します」
「よろしくお願いいたします。どうぞ義兄上も、お体にはお気をつけ下さいませ」
 もう二度とその美しい顔を見ることも穏やかな声を聞くこともできないのかと思うと、蝶子の胸は張り裂けそうになって、先程の紙片を忍ばせた帯にそっと触れる。 嫌だ行きたくないと幼子のように駄々をこねたい衝動に駆られながら、それができないと知っている分別がより胸を苦しくさせた。
「それでは皆様、お達者で」
 ゆっくりと思いを込めて一礼すると、蝶子は用意されている籠へと向かった。

「蝶子」
 背を向けた蝶子に対し、声をかけたのは父だった。
「染乃にも、美しい花は咲いている」
「父上……」
 振り返ったその時には、父はもう踵を返して歩き出していた。その広い背中が見えなくなるまで見送ると、蝶子は花嫁を待ちわびている籠に乗り込んだ。

 


2014/08/16 


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