蝶子が義兄である栄進の部屋を訪れたのは、輿入れの五日前のことだった。
「蝶子とゆっくり話がしたいと思っていたのですが、なかなか時間がとれずすみませんでした」
「滅相もございません。義兄上はいつもお忙しくていらっしゃいますから」
今回の政略結婚で染乃国とは和平交渉が行われ、出陣する必要は当然なくなったが、後処理に追われて多忙を極めていると聞いている。
だから蝶子が栄進と言葉を交わすのは、蝶子の輿入れが決まったあの夜以来のことであった。
「せっかく可愛い義妹ができたと思っていたのに、寂しくなりますね」
茶をすすりながら、そう言って義兄が優しく笑った。剣に秀でた男らしい体躯の忠孝や守之介に比べ、線の細い栄進は常に柔らかい印象を与える。
彼の実父である船越豪進は野心家であり、六男である栄進を養子にと押しつけられた時はどんな豪胆な男がやってくるのかと、紅野家の家臣たちは戦々恐々としていたものだ。
けれども、やって来たのは整った顔立ちに華奢な体つきをした青年だった。
穂積国の者は皆、はじめは船越家に乗っ取られるかと警戒し、次に優男だからと少し馬鹿にしながら安堵し、今はその冷静な政治手腕を信頼するようになっていた。
「蝶も、素敵な義兄上ができたと思っておりましたのに残念にございます」
可愛いという言葉尻をとらえて無意識に頬が火照るのを感じながら、それをごまかすように蝶子も軽口で返した。
「蝶子には犠牲を強いて、本当にすまないと思っています」
「これは父上がご決断なされたこと。そしてそれは穂積の民の為であり、義兄上が蝶に頭を下げられる理由は一切ございません」
「なれど、あの蒼山伊織に嫁がずとも、他にも方法があったでしょう……」
そう言って悔しそうにその美しい顔を歪めた栄進に対し、蝶子も思わず黙り込んでしまった。そうなのだ。穂積国を守る方法としては、もうひとつあったのだ。
そしてそれは蝶子に犠牲を強いる方法ではなく、むしろ蝶子が望んでいることでもあった。
忠孝の死後、後継者問題を突如抱えることとなった紅野家に手を差し伸べたのは、穂積国の南に横たわる強国の船越家であった。
実の息子を送り込んで紅野家の養子にさせ、己の傀儡にしようという魂胆はあからさまで、けれどもその力関係から紅野家に拒否権はなかった。
近い将来、穂積国は船越家に乗っ取られてしまうだろう。
誰もがそう思いながらも受け入れる以外に手立てはなく、家臣たちは幾日も続いた評定で争うだけ争って、結局は栄進を受け入れざるを得なかったのだ。
けれどもやって来た男は切れ者で、徐々に家臣たちの栄進を見る目が変わってゆく。
当初は穂積国に害を成す者と決めつけていたが、意外にも彼は船越家に有利に動くことななく、常に義父である和孝をたてていたのだ。
最初は油断させる為かと警戒していたが、栄進の考えは常に合理的で、穂積に利があれば船越家と手を結ぶがそうでなければその要求に屈しなかった。
そんな強気な交渉は実子である栄進にしか不可能である。恐らく直系とはいえ六男であれば当主の座は遠く、それよりも確実に当主となれる穂積国でのし上がってゆくことを決めたのだろう。
家臣たちはそう納得し、自分たちは素晴らしく良い人物を迎え入れたのではないかと思い始めていた。
「わたくしが蒼山家に嫁ぐことこそが、穂積にとって最善の策にございます」
まるで己に言い聞かせるように、蝶子は静かに言い放った。そんな義妹の顔を、義兄はまるで見透かすようにじっと見つめてくる。
負けじと蝶子も、真っ直ぐに兄の目を見つめ返した。
栄進が次期当主にふさわしいと認められるにつれ持ち上がったのは、蝶子と栄進を結婚させるという話だった。
紅野の血を引いていないが人物としては申し分ない栄進が蝶子を妻とすれば、紅野の血はしっかりと守られるのだ。
和孝は娘の蝶子を可愛がっており、手元に娘が残るのであるから尚良いであろうと、誰もが蝶子と栄進が婚儀を結ぶと信じて疑わなかったのである。
「貴女は強いですね」
懸命に笑みを浮かべていた蝶子の口元が、そのひと言に一瞬だけ微かに震えた。自分は強くなんかない。けれども、強くあらねば己を保つことができないのだ。
家臣たちの声は、蝶子の耳にも届いていた。当然、義兄も耳にしていたことだろう。
忙しい栄進と言葉を交わす機会はさほど多くはなかったが、姿を見かけると、自分はこの人の妻となるのかと次第に義兄ではなくひとりの男として見るようになっていた。
異性と接触する機会はほんの僅かで、親が決めた相手の元へ嫁ぐことが定めとなっている姫君は恋を知らない。
だから蝶子は、義兄の姿を見かけると鼓動が早まり、言葉を交わすと体温が上がる理由を知らなかった。
ただ、父にも茜子にさえも言えなかったが、この婚儀が正式なものになれば良いと心の内で密かに願っていたのだった。
「強くはございません。ただ、紅野の姫としての務めを全うするだけにございます」
蝶子を蒼山家に嫁がせるという父の決断は、家臣たちに驚きをもって迎えられた。
人は良いのだが、いつも優柔不断で厳しい決断ができず、蝶子は知らないが城下では戦が長引いている理由のひとつは当主にあるだろうという声も囁かれている。
そんな和孝が、愛娘を敵国に差し出すことを決めたのだ。船越家と良い均衡を保っている今、染乃国とも和平を結べば暫くは安泰だ。
そして、蝶子が蒼山伊織に嫁ぐということは栄進の妻の座が空くこととなり、家臣たちにとっては己の娘を嫁がせて当主と姻戚関係を結ぶまたとない好機となるのだ。
蝶子の染乃国への輿入れを反対する者は、誰もいなかった。
「離れても、蝶子が私の大切な義妹であることには変わりはありません。何か困ったことがあれば、すぐに知らせてください」
「ありがとうございます」
今回の婚儀に関し、紅野家の姫として生を受けた者の務めだと理解はしているが、おいそれと受け入れられるほど蝶子は大人ではなかった。
けれど、他に道はない。ならば潔く嫁ぎたかった。
拒んでも受け入れても、義兄とは一緒になれないという結果が同じなら、変わらない現実を潔く受け入れて少しでもいい女であると思われたかったのだ。
あの夜、義兄は蝶子をもらいたかったと言ってくれた。それは紅野家における己の地位を確固たるものにする為か、それとも本当に蝶子を欲しいと思ってくれていたのかは分からない。
けれど、あの優しさと哀しみがないまぜになった低い声を、蝶子は一生忘れないだろうと思っている。
夕闇に紛れ、この世でたったひとり蝶子だけに捧げられたその言葉を、敵国で生きてゆく糧にしようと彼女は密かに心に決めていた。
「それにしても、蒼山殿は何を考えておられるのか……」
やがて空になった湯呑みを置くと、溜息まじりに栄進がそう呟いた。
「こちら側の付き人を、すべて拒んだと言うではないですか。我らは戦に負けたのではなく、対等な立場で和平交渉を結ぶその証として蝶子が蒼山家へ参るのです。
見知らぬ土地に嫁いで来る妻の付き人を排除するなど、身勝手にもほどがあります」
「茜子らを不要だと申されたのは、蒼山伊織様にございますか?」
眉を寄せて不満げに語る義兄に、蝶子は驚いたように問い返した。蝶子はてっきり、蒼山家からの信頼を得る為に父が決めたことだと思っていたのだ。
「すみません。蝶子の夫となる人物を悪くは言いたくないのですが、隣国から嫁ぐそなたへの配慮に欠けていると我慢がならないのです。
数名の侍女や付き人が従うことは当然のことだと義父上には申し上げたのですが、慎重に事を進められておられる故、蒼山殿の意向を汲んでしまわれたのです」
「さようでございましたか……」
兄を殺した残虐な男は、傲慢な男でもあるのだろう。妻に付き従うたった数名の供さえも、彼は許さぬというのだ。
「だから蝶子は、どんな些細なことでも良いから文を寄こしなさい。茜子の方が色々と相談しやすいのであれば、それでも良い。とにかく、何かあれば我慢をせずに知らせるのですよ」
気遣わしげな表情で告げられた言葉は、蝶子の胸に沁みた。蝶子の身の上を案じてくれる優しさが嬉しくて、そんな義兄と二度と会えなくなることが哀しくて。
思わずその胸に飛び込んでしまいたい衝動を抑えながら、蝶子は背筋を伸ばしはっきりと答えた。
「蝶はどこでもやっていけます故、ご心配は無用にございます。なれど、文は差し上げたく存じます。染乃国での暮らしを綴ります故、義兄上もお暇な時にお返事を下さいまし」
「もちろん、必ず返事を書きましょう。紅野家のことは私が守る故、蝶子は己のことだけを考えなさい」
穏やかにそう言うと、義兄はそっと蝶子の頭を撫でる。それは、彼がはじめて紅野家に養子としてやって来た時から何度もなされてきた行為。
実兄の忠孝を失って哀しみに沈んでいた蝶子を癒してくれたのは、その慈愛に満ちた義兄の手だったのだ。
女子のように華奢な栄進だけれども、その掌の大きさは兄や守之介と同じく節くれだっていて、優しく撫でるその温もりに触れてみたいと蝶子は思った。
けれど、それは一生叶わない。蝶子はそっと目を閉じると、やがて栄進を見上げて微笑んだ。
自分は充分にその声の優しさと、掌の温もりと、柔らかな眼差しを胸に刻み込んだ。だから栄進も、蝶子の精一杯の笑顔を覚えていて欲しい。
いつか誰かを妻に娶っても、彼の心の片隅に住んでいたいと願っていた。
* * * * * * * * *
「お役に立てず、申し訳ございません」
ぼんやりとした灯りの中、女がそう言って頭を下げた。
「そなたのせいではない」
長雨がやみ、久しぶりに姿を見せた月を眺めていた男が小さく笑った。その様子に、女がほっと胸をなでおろす。
「蝶姫様は、おひとりで大丈夫でしょうか?」
「蒼山伊織もそこまで馬鹿ではない。当面は姫をそれなりに大切に扱うだろうが、何せ和平交渉に赴いた忠孝様を陥れた男だ。いつ掌を返すか分からぬから、それが気がかりだ」
男がそう低く説明すると、女がひゅっと息をのむ音がした。湿った風が微かに吹き込み、油に灯した炎が頼りなさげに揺れる。
「お屋形様に今一度、何とかわたくしだけでも蝶姫様と共に染乃国へ参れるようお願いしてみます。他の者たちも皆、蝶姫様があまりにもお気の毒だと申しております」
「いや、それは難しいだろう。こちらは蒼山家の要望に対し、既に姫がひとりで嫁ぐことを了承している。今更覆すことはできぬ」
「蒼山伊織とは、何と傲慢な男。そのような男の元へ嫁がねばならぬ姫様がおいたわしい……」
己の無力を嘆きながら、女は力なくうなだれた。
人はもちろん、夕刻まで鳴いていた鳥も蛙も今は眠りについている。夜の闇がもたらす静寂の中でふたりは黙りこくっていたが、やがて女が静かに口を開いた。
「わたくしに何か、できることはないでしょうか?」
「そなたには果たしてもらいたい大きな役目があるが、まだその時ではない。今は出立を控えた姫に、くれぐれも蒼山伊織に心を許さぬようお伝えして差し上げなさい」
「承知いたしました」
真剣な表情で頷く女に、男は頬を緩める。やがて静かに手を伸ばし、女の肩を抱き寄せた。
「そなたは優しい女だ」
「滅相もございません」
驚いたように頭を振る女の髪を、男の指が優しく梳かす。やがて女は、遠慮がちに男の胸に顔を埋めた。
「わたくしだけが幸せで、蝶姫様に申し訳ない気持ちです」
「幸せなのはそなただけではない。姫に申し訳ないのは、そなたを手に入れたわたしの方だ」
自虐的に笑う表情は昼間に見せるものよりも妖しい色気があって、女はぞくりと背筋が震えるのを感じた。
蝶子の輿入れに付き従う侍女のひとりとして選ばれた時は、彼女の為に精一杯努めようと思っていた。
それは自分に染乃国で間者としての働きを望む男の為であるが、顔も知らぬ残虐な男の元へ人質として嫁がねばならぬ哀れな姫の支えとなりたかったのは本当だ。
けれども、ひとりで嫁がねばならなくなった蝶子に同情しながらも、心のどこかで良かったと思っている自分がいる。
男の肌の温度を知ってしまった今、その温もりから離れて生きてゆくことは女にとって身を切られるように辛いことなのだ。
何と薄情な女だろうか。そう己を責めてみても、この先も男の傍にいられる喜びを取り繕うことはできない。女はためらいがちに顔を上げると、潤んだ瞳でねだるように男を見つめた。
「わたくしのお役目とは、何でしょうか?」
熱い口づけの合間、思わず漏れそうになる声をごまかすように女は掠れた声で問いかけた。
「今はまだ言えぬ」
「わたくしに務まりますでしょうか?」
熱が上がりつつある体をそっと離し、不安げに女が尋ねた。
「私が信頼しているそなたなら、絶対に大丈夫だ」
「勿体ないお言葉にございます」
愛されている上に、信頼されている。女としてこれほどの幸せはあるだろうか。再び繰り返される口づけに我を忘れそうになりながら、この信頼を失いたくないと女は思った。
今はまだ何を考えているかは分からないが、この人ならばきっと道を間違えることはないだろう。だから自分はついて行くだけだ。
いつの間にか押し倒され、男の手が乱れた着物の裾から入り込んでいる。甘い痺れを感じながら、女はこの人の為ならばどんな危険も厭わないと心に誓っていた。