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の居る場所



 春暁の章  伍


 蝶子の母が亡くなったのは、彼女がまだ幼い梅雨の日のことだった。
 もともと体が丈夫ではなかったが、桜が葉をつける頃から床に臥せるようになり、じめじめとした長雨に体力を奪われるように衰弱していった。 そうして、霧雨が音もなく降り続く夜更けに、幼い蝶子を残して呆気なく逝ってしまった。

 紅野家の筆頭家老を務める田辺家の傍系の出であった母はもの静かな女性で、年の離れた夫にいつもそっと寄り添っていた。 幼い蝶子が兄の忠孝や、母の生家の本家筋の嫡男である守之介のあとを追いかけて遊んでいる姿を微笑みながら見守ってくれていて、そんな優しい母が蝶子は大好きだった。
 けれども同時に、彼女は厳しくもあった。未来の紅野家の当主となる忠孝に対してはもちろん、蝶子にも学問や裁縫などの習得に努めるよう熱心に指導した。 そんな母が幼い蝶子に語った言葉が、彼女は今も忘れられずにいる。

 それは母が床に臥せるようになる直前、城内に花が咲き乱れている春のことだった。 その頃から体調は思わしくなかったのだろうが、幼い蝶子に心配をかけないように、母は機嫌良く庭を歩く娘に手を引かれながらあとをついていた。 蝶子は色とりどりに咲く花の美しさに心が弾み、ついには母の手を解いて庭を駈け出しまう。 城の庭を何よりも自慢に思っていた父は、同じく庭が大のお気に入りの蝶子の様子をいつも嬉しそうに眺めていたが、その名の通り花から花へ飛びまわる娘を母も愛おしそうに見つめていた。 やがて満足した蝶子は母の元に戻り、ほんのりと花の匂いをさせながらぎゅっと抱きついた。
「蝶は本当に花が好きですね」
「ええ、大好きです。綺麗なお花に囲まれていると、嬉しい気持ちになれるのです」
 満面の笑みで見上げながらそう答えると、母は優しく頬を撫でてくれた。その手はひんやりと冷たくて、母は少し疲れたように座りましょうかと娘に促した。
「蝶が一番好き花はどれですか?」
 庭の端にある大きな石に腰かけると、母はほっと小さく息を吐いて蝶子に問いかけた。
「あの黄色が好きでございます。でも、あちらの白い小さな花も可愛らしゅうございます。それから、向こうの薄紅色の花も……」
「どれかひとつを選ぶとすれば?」
 一番はどれかと尋ねられながら次々と花を指差す娘に対し、母はもう一度尋ね直した。
「蝶は、ひとつを選べません……」
 難しい問いに困り切った蝶子は、そう小さく答えるとしゅんと下を向いた。そんな娘を眺めながら、母は静かに口を開いた。

「この世でたった一輪の、おまえだけの花を見つけなさい。華やかでなくとも良い。芳香を放たずとも良い。おまえだけに甘い蜜を与える、そんな花を見つけなさい。 そして愛しく思うその花を、蝶の居場所とするのです」
「はい」
 母が言い放った言葉の意味は、幼い蝶子には理解できなかった。ただ、その声は凛と澄んでいて、大切なことを教えられているのだということだけは分かった。 だから蝶子は、懸命にこくりと頷いたのだった。
「その為には、曇りのない目が必要です。誰が己にとって大切なのか、他人の声に惑わされず本質を見抜く目を養いなさい」
 そう告げると、真剣な表情で見つめ返してくる幼子に対し母が頬を緩ませる。 そのことに安堵しながらも、蝶子は子供心に母がどこかへ行ってしまうような不安に駆られ、思わず縋りつくように抱きついた。
「母はそなたの父上に出会えて幸せでした。蝶にも、そんな大切な花が見つかりますように……」
 優しい母の祈りの言葉を聞きながら、蝶子の瞼がうとうとと落ちてくる。 離れてしまわないようにと小さな手で母の着物の袂をしっかりと握りながら、やがて蝶子は眠りに落ちてしまっていた。



* * *   * * *   * * *



 母が眠る墓の脇には、紫陽花の花が咲いている。同じ藍色でも花によって濃淡が異なり、今年も美しく咲きましたねと、蝶子は心の内でそっと母に語りかけた。
 紅野家の菩提寺である永香寺を、蝶子は母の月命日に必ず訪れている。忌日である今日は更に特別な日で、そして恐らく蝶子が母の墓前を訪れる最後の日であった。 春に決まった紅野家と蒼山家の婚儀の準備は着々と進み、梅雨が明け次第、蝶子は染乃国に嫁ぐ手筈となっているのだ。
 明け方まで降っていた雨はやんでいるが、空は未だ灰色の雲に覆われている。 じっとりと湿った空気の中で膝を折ると、蝶子は在りし日の母の面影を求めるようにじっと墓石を見つめた。
「母上、蝶は花のない場所へ参ります」
 これまでの長きに渡り幾度も刃を合わせてきた染乃国に嫁ぐということは、敵に囲まれて生きてゆくということだ。そこに愛でる花など、あろう筈がない。 敵国に嫁ぐと言うことは、これまで花に囲まれて育ってきた蝶子が、花と決別するということであった。
「父上や兄上が守ってこられた穂積の地に二度と染乃国が攻め入らぬよう、蝶は努めるつもりでございます」
 先程、同じ境内に眠る兄にも伝えた決意を、再度母にも告げる。それは政略結婚という道しか進むことが許されない己に対し、覚悟を促す作業でもあった。

 やがてゆっくりと立ち上がると、蝶子は傍に控えていた侍女を振り返った。
「茜子、参りましょう」
「もうよろしいのですか?」
「これ以上ここにいても、名残惜しさが増すばかりです」
 気遣うように尋ねてきた茜子に対し蝶子が寂しそうに微笑を浮かべると、侍女は黙って主を見つめた。 母と兄に対し蝶子が深く頭を下げると茜子もそれに倣い、労わるようにそっと主に寄り添う。 住職に挨拶をして寺をあとにすると、絹糸のように細い雨が、再び音もなく降り始めていた。



 翌日は久しぶりに薄日が差していた。 いつまでもぐずぐずと雨が降り続けることは憂鬱だったが、梅雨明けが近づくということはすなわち蒼山家に輿入れする日が迫っているということで、久しぶりに見た陽光を蝶子は手放しで喜ぶことはできなかった。
「姫様!」
 自室で蝶子が夏の着物を整えていると、足音が近づいて来て勢いよく襖が開いた。鋭い呼びかけに驚いて振り返ると、いつも冷静な茜子が明らかに動揺した様子で立ち尽くしていた。
「そのように大きな声をあげずとも聞こえています。一体何があったのですか?」
「姫様……」
 訝しげに問いかけたものの、侍女は蝶子を呼ばうばかりでそのあとの言葉を続けない。蝶子は手にしていた針を戻すと、着物をたたんで茜子に向き直った。
「茜子?」
「姫様、わたくしはずっと姫様のお傍に仕えとうございます。なれど、なれどお屋形様が……」
 そう言って唇を噛む茜子の目は、うっすらと潤んでいた。動揺している侍女からようやく事の次第を聞き出した蝶子は、衝撃のあまり思わず立ち上がっていた。

「父上!」
「何だ蝶子。紅野家の姫ともあろう者がそのように足音をたてて、はしたないと思わぬか」
 自室から真っ直ぐ父の居室へと向かった蝶子だったが、憤りのあまり足音荒く城内を歩いていたようだ。
「今しがた、茜子より聞きました。茜子をわたくしの侍女から外す理由をお聞かせ下さい」
 蝶子は父の言葉を無視して射抜くように見つめると、単刀直入にそう質した。幼い頃から蝶子に仕えてくれている茜子。 今回の輿入れの際も染乃国までついて来てくれると言われて、どれだけ蝶子が嬉しく心強かったかは言葉に言い尽くせない。 けれども父は、蝶子が輿入れしたあとも引き続き茜子が仕えることを許さないと言うのだ。

「茜子だけではない。おまえは、その身ひとつで蒼山殿の元へ嫁ぐのだ」
「え?」
「おまえは蒼山家の人間になる。その為には、いつまでも穂積の者たちを仕えさせるわけにはゆかぬだろう」
「そんな……」
 今回の輿入れの際には、茜子をはじめ数名の侍女と従者が共に染乃国に赴くことになっていた。けれども父はそのすべてを必要ないと言い、蝶子ひとりで敵国に嫁げと言っているのだ。
「なれど、敵国にわたくしひとりで嫁ぐなど……」
 いくら政略結婚であっても、身の回りの世話をする者を数名は自国から従えて行くのが常だ。まして今回の婚儀において、穂積国と染乃国は対等な筈である。 染乃国も和平を望んでいるので蝶子を粗末に扱ったりはしないだろうが、所詮人質であることには変わりない。二国間の均衡が崩れれば、真っ先に命を狙われるだろう。 そんな危険な場所で供もつけず、たったひとりで生きてゆけと父が娘に命じるのだ。

 開け放した戸から微かに風が吹き込むものの、その空気は重く湿っていてじっとりと汗ばんでくる。蝶子と父は身じろぎもせず、黙って対峙していた。
「十日後、染乃国よりお迎え役が参られる」
 やがて、父が静かに口を開く。その毅然とした眼差しに、口調に、蝶子は父の決意が変わらぬことを悟った。
「承知いたしました」
 諦めにも似た気持ちで頭を下げると、力なく立ち上がる。これ以上ここにいれば、父を詰って傷つけてしまいそうだ。
 紅野の姫として生まれた以上、政局の手駒になる覚悟はあった。けれども侍女のひとりも連れて行けないとは、あまりに横暴すぎて納得できないのだ。 白状するならば蝶子の心の奥底には、娘にこのようなことを強いる父をありったけの残酷な言葉で責めてやりたい気持ちが渦巻いている。 けれども、彼女にはそれ以上に父に愛された優しい思い出があるのだ。 だから、互いに傷つけ合ってこの地を離れたくはない。花咲かぬ未来の暮らしの中で、花に溢れた父母と兄との思い出を心の糧にしたかった。
「蝶子」
 部屋を出ようとしたその瞬間、父に名を呼ばれた。その声には複雑な色が滲んでいて、感情を読み取ることはできない。
「はい」
「……いや、何でもない」
 蝶子が期待を込めて振り返ると、父は我に返ったように小さく首を振り、やがて背を向けて書物を取り出した。 諦め切れなくて暫くその見慣れた背中を眺めていたが、欲しい言葉はかけられず、やがて蝶子は父の居室を辞した。


 この城で過ごすのはあと十日。そう思うと、自室へ向かう長い廊下の途中で蝶子の足が止まった。
 兄や守之介と駆け回った廊下も、父母と眺めた庭も、茜子と語り合った自室も。当たり前に過ごしていたこの空間が、二度と過ごすことのできない思い出になってしまうのだ。 不意に、涙が零れ落ちそうになった。

 ――俺はこの穂積国の次期当主となる。この国の為に、俺はどんな犠牲も厭わない。
    国を守る為ならば、蝶子、おまえのことも紅野の姫として容赦なく利用するぞ。

 不意に、耳の奥で兄の声がした。いつも蝶子には優しかった兄の、一度だけ見せた厳しい表情。
 蝶子が幼い頃から尊敬していた兄は誰よりもこの国への想いが強く、次期当主としての責任感が強く、染乃国との戦に終わりが見えず民が疲労困憊していた時にそんなひと言を放ったのだ。 その時は、何となく意味を理解しながらも自分が和平交渉の駒になるという実感はなくて、ただ兄の真剣な表情につられて力強く頷いたことだけは覚えている。
 きっと生きていれば、兄も今回の父の決断に賛成しただろう。だから泣くまい。俯きかけていた蝶子は、真っ直ぐに顔を上げた。 自分は国の犠牲となる可哀想な姫ではない。この役目は蝶子にしか果たせないもので、それは亡き兄の意思を継ぐ、紅野家の姫として誇り高き務めなのだ。
 見慣れた廊下を目に焼きつけるようにして見つめていると、いつしか滲んだ涙は乾いていた。やがて蝶子は背筋を伸ばすと、足音もたてず颯爽と自室に向かって歩いて行った。

 


2014/07/21 


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