家臣ひとりが死んだところで、蝶子の日常に何ら変わりはなかった。
守之介が死んだという一報を受けて田辺家は当然動揺したとのことだが、城内はいつもと同じ時間が過ぎていった。
彼は嫡男ではあったものの、父親である当主が健在で後継問題に猶予があるということと、田辺家には他にも男子が四人いるということが混乱をまねかなかった理由だ。
しかし最たる理由は、守之介の死因が事故によるものだと判断されたからだろう。
蝶子が耳にした噂によると、高いところから落ちたせいでその顔は判別がつかなかったが、体には誰かに襲われたり切られたりした形跡は残っていなかったという。
殺しでなければ騒ぐ必要もない。役立たずの男に相応しい間抜けな最期だと揶揄されながら、彼は土に葬られていったのだ。
「姫様、火をお持ちいたしました」
知らぬ間に周囲は暗くなっていた。もはや薄闇に紛れてしまい文字を追うことができなくなった書物をそっと閉じると、蝶子は仄かに夕日の赤色が滲む庭を見やった。
「随分と日が長くなったわね」
「さようでございますね。つい先日は夜の方が長かったのに、季節が進むのは早うございます」
そう言いながら、茜子が皿に注いだ油に火を灯す。薄暗かった部屋が、ぼんやりと明るくなった。
明け放した戸の向こうには菖蒲の花が夜の色に同化しながら、凛と姿勢良く咲き誇っている。
つい先日まで城内に雪が積もったように咲き乱れていた雪柳の花は、既に散ってしまっていた。
「ねえ、茜子。人も花も、命は儚いものね」
ぼんやりと庭を見つめながら、まるでひとりごとのように蝶子は呟いた。
「守之介様のことにございますか?」
そう静かに尋ねながら立ち上がると、侍女はそっと障子を閉めた。
「守之介も、兄上も母上も」
「ええ。ご立派な方々の命ほど、尚更儚いものにございます」
山に踏み入って命を落とした家臣も、和平交渉に赴いて敵に切られた兄も、それから病で呆気なく逝った母も。
蝶子の大切な人たちは皆、別れの言葉をかける間もなく黄泉の国へと連れ去られてしまったのだ。
「そうね、茜子の言う通りだわ」
主から少し離れた部屋の端に静かに座った茜子に同意した蝶子だったが、やがて何を思ったのか可笑しそうにくすりと笑った。
「いかがなされましたか?」
「いえ、守之介にご立派という言葉は似合わないなと思って」
「確かに」
幼い頃から城に入り蝶子に仕えている茜子もまた、守之介のことはよく知っている。飄々とした掴みどころのない男にには似つかわしくない形容に、ふたりは口を押さえて笑った。
くすくすと笑い合っていたふたりだが、やがて沈黙が落ちる。静かな空間に、ゆらりと小さな火が揺れていた。
「守之介は、何故あのような山に入ったりしたのかしら?」
「さあ。あのお方は少しばかり常人と異なるところがおありでしたから、わたくしには何とも……」
茜子の率直な物言いに、苦笑いを浮かべながら蝶子はそうねと頷いた。
守之介はもともと我が道を行くところがあったが、それでも武術に長けて学問にも秀で、同年代の者たちからは一目おかれていたと聞く。
けれども兄の死後はどこか他者との間に壁を作っているようなところがあり、飄々としながらも優しかった目には時折昏い色が差すようになっていた。
それがいつも蝶子には気にかかっていたのだ。
「常人とは異なっておりましたけれど、誰よりも忠孝様に忠義を尽くしておいででした。だから城内の口さがない者たちの言い様は、わたくしには少々不愉快にございます」
「ええ、わたくしもです」
立場上あまり軽率なことが言えない蝶子に代わり、ふたりだけの時にはたまに茜子は大胆な発言をする。
憤慨した様子を見せる茜子に蝶子は安心すると共に、彼女が自分の侍女で良かったとつくづく思った。
「確かに守之介様には幼少の頃より失礼なことを山のように言われてまいりましたが、あの方は忠孝様と共にいつも民の幸せを考えておいででした。
そのような方の死を悼むことのできない浅はかな人間には、わたくしはなりたくはございません」
幼い蝶子と茜子を、子猿のようだといつもからかってきた守之介。
けれど、普段は口の悪い男だったが忠孝に対する思いは真っ直ぐで、だからこそ主を死なせてひとり戻って来た守之介は痛々しいくらいに己を責めていた。
何故主を守らなかったのかと、腰抜けやら腑抜けやらと聞えよがしに陰口を叩かれていたが、彼は決して反論することはなかった。
けれども蝶子は知っているのだ。戻って来た守之介の胸元には以前はなかった大きな十字の傷があり、それは兄を守る為につけた傷であることを。
恐らく敵の人数はこちらを遥かに上回っていて、守之介たち少数の家臣では守り抜けなかったことを。
そして、それなのに守之介は兄の墓前でいつまでも、頭を垂れ続けていたことを蝶子は知っているのだ。
「姫様」
そっと窺うように、茜子が口を開いた。
「何?」
「これからも茜子は、姫様のお傍にお仕えしてもよろしいでしょうか?」
「え?」
侍女が口にした問いは、蝶子が何度か口にしようとしながらなかなか言い出せなかった願いだった。
「良いの?」
「わたくしは一生、姫様にお仕えしとうございます」
見知らぬ国に嫁いでゆくのはとても不安で、できれば気心知れた茜子について来て欲しかった。
けれども、一度嫁いでしまうと恐らく穂積の土を再び踏むことは許されず、それは付き従う者たちも同様だろう。
だからこそ蝶子は、茜子に家族との別れを強いてついて来てくれることを頼むのを躊躇していたのだ。
「ありがとう、茜子」
大切な人を失った時、傍にいてくれたのはいつも茜子だった。蝶子の代わりに哀しみ、蝶子の分まで憤ってくれた。そんな茜子が一緒なら、見知らぬ敵国に嫁ぐのも少しは心強い。
家臣が死んだことに関係なく粛々と進められる自分の輿入れの準備に、蝶子は少しだけ希望の光が見えたような気がした。
* * * * * * * * *
「このような遅くに呼び出してすまぬ」
「滅相もございません」
夜の闇に紛れて女が足音を忍ばせながら松の木の下までやって来ると、男はその姿を隠すように己の腕の中に抱きしめた。月は雲に隠れ、物音ひとつしない。
「ずっとそなたに触れたかった」
「勿体ないお言葉にございます」
男が女の背に回している腕に力を込めると、彼女はうっとりと熱に浮かされたように男の顔を見上げた。
「まるで夢のようにございます」
「何がだ?」
誰にも聞かれないようにそう小さく囁くと、女は男の胸に顔を埋める。男が不思議そうに短く尋ねた。
「あなた様がわたくしのような者に気をかけて下さることにございます」
「私のことは鬼灯と呼んでくれと頼んだ筈だ」
「鬼灯様……」
「ひと目見た時から、私はそなたに魅かれていた。夢であったら私が困る」
不意に足元の草をさわさわと揺らしながら、風が吹き抜けてゆく。雲が流れ、少しだけ月がその姿を現しかけていた。
「して、先日の話は受けてもらえるだろうか?」
「わたくしには、身に余るお話にございます」
男が女の耳元で尋ねると、彼女は困惑したように、けれども微かに嬉しさを滲ませながら俯いた。
「すまぬ。やはり危険すぎたな……」
「いえ、そうではございません。染乃国には参りますし、間者の務めも果たします。なれどそれ以上のお話は、わたくしの身分でお受けすることは……」
「そのようなこと気にせずとも良い。私には、そなたしかいないのだ」
男の甘い囁きと共に、熱い吐息が女の耳に触れる。足元がおぼつかなくなって、女は男にくたりと自分の体をあずけた。
「姫の輿入れの際には、何名かの女房とお付きの者が染乃国に赴くことになる。そなたにはそのひとりとして城に入り、染乃の内情を探って欲しいのだ。
そなたを敵国になぞやりたくはないのだが、このままでは穂積に安寧はおとずれない」
「わたくしのことは構いません。なれど、お屋形様にはお考えがあって蝶姫様の婚儀を決められたのではないでしょうか?」
「お屋形様は、蒼山伊織の恐ろしさをご存じないのだ。あの男は戦を終わらせようと尽力されていた忠孝様を陥れ、そのお命を奪った。そのような男を信じることができようか?」
そう低く尋ねた男に対し、女はいえと小さく首を振った。男はそんな女の様子に満足げに頷くと、更に言葉を続けた。
「このままでは姫を人質にとられ、穂積は染乃にいいようにされるだけだと私は危惧している。冷酷な敵将と交渉するには、お屋形様はお優しすぎるのだ」
「蝶姫様はどうなさるおつもりですか?」
「もちろん、時機をみてそなたと一緒にお助けする。その為にも、そなたの力が必要なのだ」
その強い眼差しに、女は吸い込まれるように見入った。誰よりもこの国を憂い、誰よりもこの国の和平を願ってくれる人。
この人の為なら、自分はどのような危険も顧みないと心に決めていた。
「そなたが染乃の内情を探ってくれたら、それを元に一気に攻め入って戦を終わらせる。それからそなたと姫を助け出して、共に穂積に帰るのだ。
そうして平和になった穂積の地で、私はそなたを貰い受ける」
だから夫婦になって、末永く共に暮らそう。そう甘く囁きながら、男はそっと顔を寄せた。
「鬼灯様……」
そう女が呼ばう声は、男の唇によって封じられる。甘い夢かも知れない。けれど、そんな未来を夢見たいと女は思った。
一瞬、月がその姿を現しかけていたが、再び風に流された雲がその淡い光を遮っている。ふたりを包むのは、漆黒の闇と恐ろしいくらいの静寂だった。