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の居る場所



 春暁の章  参


 蝶子の兄である紅野忠孝が死んだのは、稲穂が深く頭を垂れ、国中が黄金色に染まる秋の頃だった。
 穂積国と染乃国は、長きに渡り戦を繰り返してきた。 国境にある泉の治水権を巡っての争いというのが大義名分であったが、親を殺された子が染乃を恨み、子を殺された親が穂積を恨み、国力が拮抗している為になかなか勝敗がつかず積年の恨みだけが戦を長引かせていた。
 そんな中、忠孝は戦で民が疲弊してゆくのを憂いていた。早く戦を終わらせたい。 もともと争いごとを好まぬ父も戦が終わることを望んでいたが、ここで引くことはできぬという一部の家臣に押し切られ、ずるずると戦が続いていたのだ。
 秋の刈り入れの時期は束の間の休戦期間で、その日、忠孝は数名の家臣を引き連れて朝からどこかへ赴いていた。 女子である蝶子が父や兄の行動を把握できる筈はなく、その日も兄の行き先を別段気に留めることもなかった。
「蝶、出かけてくるぞ」
 馬上からそう笑顔を向けられたのが、蝶子が兄と言葉を交わした最後だった。

 その夜帰らぬ兄にふと不安がよぎったが、父が泰然と構えていたので行き先が遠いだけかと納得した。 三日が経つと俄かに城内が焦り出し、けれども蝶子には悟らせまいとしているのが見てとれた。 五日が経つと蝶子の周囲は取り繕うことができないくらいに慌ただしいものとなり、七日目には諦めにも似た空気が漂い始めた。 そんな中、忠孝に付き従っていた守之介が傷だらけで戻って来たのだが、それは彼らが城を出て十日目の夜更けであった。
「申し訳ござりませぬ」
 重臣たちを前に、ただ守之介は泣きながら謝り続けていたと蝶子が聞いたのは、一体誰の口からだったか。
 戦を終わらせる為に、忠孝は染乃国との国境にある寺を訪れていたという。そこで穂積国と染乃国双方の話し合いの場を設ける予定だったのだ。 けれどもその道中で染乃国の奇襲に遭った忠孝らは帰らぬ人となり、守之介だけが一命をとりとめてひとり戻って来たとのことであった。

「父上は兄上の敵を討たぬのですか?」
「敵?」
「さようでございます。兄上を殺した染乃の者を、蒼山伊織を討たぬのですか?」
 父上が討たぬのならわたくしが討ちますと、父の部屋に押しかけて蝶子は低く吠えた。
「そうだな。だが、まずは真実を知らねばならぬ。真実を知らねば道を誤り、再び誰かを犠牲にしてしまう。わしはもう、これ以上誰かを死なせたくはないのだ」
「兄上がお亡くなりになった、それが真実でございます。戦を終わらせる為に染乃へ赴き、卑怯者の蒼山伊織らに殺されたのが真実でございましょう?」
 蝶子は、子供の頃から優しい父が好きだった。 どこかおっとりしていて、一部の家臣たちから頼りないと陰口を叩かれているのも知っているが、それでも穏やかな空気を漂わせる父が好きだった。
 けれども今は違う。息子を殺されても動かぬ父を、蝶子ははじめて歯がゆく思った。
「ならば蝶子は、蒼山殿が死ねば満足か? その首をはねれば、それで恨みが晴らせると申すのか?」
 常にない父の強い言葉に、蝶子は押し黙った。分かっている。敵を討ったところで、兄はもう帰って来ないのだ。 けれども、だからと言って、このやりきれない思いを消し去る術を蝶子は持ち合わせていなかった。

 結局、穂積国が敵将の蒼山伊織を討ち入ることはなく、かと言って兄の願いどおりに戦が終わることもなかった。 忠孝が死んでも二国間の戦はこれまでと同様に、多くの民を犠牲にしながらだらだらと続いていた。
 小国の穂積がとるべき道は、蝶子が蒼山家に嫁いで染乃国と和解するか、蝶子が紅野家の養子である栄進と結婚して海原国の傘下に入るか。 どちらにしろ危うさは常に伴い、身動きのとれない穂積国において蝶子の役割は日に日に重要度を増していた。

 海原国の当主である船越豪進は近隣国の覇権を狙う野心家だと恐れられているが、その息子である栄進は、武芸よりも読書を好む物静かな男だった。
 海原国が栄進を送り込むとなった時は、いよいよ船越豪進が穂積国を自らの手中にしようと動き出したと、城内が上へ下への大騒ぎとなった。 染乃国と和解して船越家の介入を阻止しようと訴える者と、海原国の権威を上手く利用して戦国の世を渡ってゆこうと考える者に意見は二分され、更に家臣たちの派閥の問題などが複雑に絡み合って話し合いは紛糾した。
 そんな中、己が重要な駒であることはうっすらと自覚しながらも、蝶子は蚊帳の外にいた。詳細は何も知らないままに、ただ染乃国と手を組むことは嫌だと思っていた。 兄を殺した蒼山伊織と手を結ぶくらいなら、大国の威を借る小国で良い。少しくらい船越家から内政干渉を受けたとて、それで穂積国と紅野家が続くのであればそれで良いのだ。 それは政を知らぬ小娘の、私情を挟んだ浅はかな発想であった。
 幸いにも、豪進が紅野家の養子にと送り込んできた栄進は聡明な人物で、船越家の権威をかさにきることはなく、警戒していた家臣たちもとりあえずは安堵した。 これで安寧がおとずれる。兄が望んでいた平安を、今度こそ義兄が叶えてくれる。いつしか蝶子は兄を亡くした哀しみを、義兄がもたらす希望によって癒されていた。
 けれども結局、苦渋の決断を迫られた紅野家の当主が選んだのは、息子の敵である蒼山伊織に娘を嫁がせる道の方だった。



* * *   * * *   * * *



 翌朝、ある男が村はずれの山に山菜を採りに入っていた。男の背後からは朝日がのぼり、朝露に濡れた草木をきらきらと照らしてゆく。 やがて腰に下げていた袋を山菜でいっぱいにすると、男は水音がする方へと向かって行った。朝から歩きまわり、喉が渇いたしそろそろ腹も減ってきた。 空腹を紛らわす為に水を飲もうと沢へ下りると、川上に黒い影が見えた。動物の死骸だろうか。食えるものかどうか見極めるように、男が湿った土の上を注意深く近づいて行く。
「うわああああ!」
 爽やかな春の朝、男の悲鳴は村まで響いた。


 田辺守之介が死んだという知らせが蝶子のもとに届いたのは、その日の夕刻だった。
「それは誠にございますか?」
 蝶子が守之介と言葉を交わしたのは、つい一日前のことだ。飄々とした声はまだ耳の奥に残っていて、俄かには信じがたい思いで彼女は父に詰め寄った。
「残念ながら、間違いはない。今朝、村の者が岩穂岳の奥で倒れているのを見つけたらしい。 崖から落ちたようで顔は潰れていたが、背丈は同じで奴の胸元にあった傷と同じ十字の刀傷があり、守之介で相違ないとのことだ」
 父の言葉に、蝶子は目を閉じて息を吐いた。嘘であれば良い。そう祈っていたのに、蝶子も知っているあの傷が同じとあれば、もう諦めるしかないだろう。
「何故……」
 まるでひとりごとのように、蝶子の口から疑問の言葉が零れる。村人が見つけたのは朝だったが、亡くなったのは恐らく夜だろうとのことだ。 何故ひとりで、何故あのような山の中にいたのだろうか。
 忠孝と同い年の守之介は筆頭家老の嫡男ということもあり、幼い頃から未来の当主に付き従っていた。文武を競い穂積国の未来を語り合う姿は、主従を超えた親友のように蝶子の目には映っていた。 真面目な兄とは対照的にいつも飄々と掴みどころのない性格で、それ故に疎む者もいたが、蝶子は昔から守之介が嫌いではなかった。 幼い頃はよくからかわれたりもしたが、もうひとりの兄のように慕っていたのだ。

 この国は、どう進んでゆくのだろう。
 父の居室を辞すると、蝶子は夕焼けに赤く染まる庭を見つめた。兄と守之介、この国を明るい方へ導いてくれると、幼い頃から蝶子が信じていたふたりはもういない。
 ――蝶姫は曇りのない目を持っている。
 不意に、守之介の声が耳の奥で響いた。そんなものは、持っていない。わたしには何も見えやしないと、沈んでゆく夕日に照らされながら蝶子は力なくうなだれた。

 


2014/07/04 


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