「姫様、どちらへ行かれていたのですか?」
部屋に戻ると、寝床の準備をしていた茜子の小言が待っていた。父に呼ばれて部屋を訪れたものの、一向に戻って来ない蝶子に彼女はやきもきしていたようだ。
「月を、見ていたの」
今宵は綺麗な月夜だと伝えると、同い年の侍女はあからさまに眉をひそめた。
「まあ、お戻りが遅いと思ったら、庭に出ておられたのですか。春になったとは言え、夜はまだまだ冷えます。風邪を召されては大変ですので、せめて衣を重ねてからにして下さい」
「それほど寒くなかったわよ。茜子は心配性ね」
「姫様が用心しなさすぎるのでございます」
幼い頃から蝶子についてくれている茜子は、その血筋を辿れば微かに紅野家に繋がっている遠縁の娘だ。
昔からしっかり者で面倒見が良く、蝶子はこの侍女を姉のように母のように頼っていた。
「茜子」
そう呼びかけると、先程まで蝶子が繕っていた着物と裁縫道具を片づけながら、侍女は気軽にはいと答えた。
「わたくしの嫁ぎ先が決まりました」
「……さようで、ございますか」
当然、茜子も城内で広がっている蝶子の嫁ぎ先に関する噂は耳にしており、その折での領主からの呼び出しとなれば輿入れの話かとおおよそ予想がつく。
侍女は覚悟を決めたように、静かに尋ねた。
「して、そのお相手は」
「染乃国の、蒼山伊織様です」
主が告げた夫となる人物の名は、やはり意外だったのだろうか。
常に冷静な侍女が見せた幾分強張った表情はやがて、驚きや憤りや、様々な感情がないまぜになった何とも言えない色を湛えた。
物音ひとつしない静寂な空間に、ふたりの沈黙が落ちる。やがて茜子が、すっくと立ち上がった。
「どこへ行くの?」
部屋を出て行こうとする侍女に驚いて蝶子が尋ねると、振り返った茜子は泣きそうな表情を浮かべた。
「お屋形様のところへ参ります。姫様の婚儀のお話は、なかったことにして頂きます」
「茜子」
驚いて蝶子が茜子の手を掴むと、予想以上に強い力で振り払われた。
「お屋形様のお考えは分かります。わたくしも早く戦が終わることを願っております。なれど、なれど姫様の嫁ぎ先が蒼山家とは、あまりにも殺生でございます」
「茜子も知っているでしょう。父上が一度決めたことは、決して覆らないのです」
蝶子の祖父である先代に比べ決断力があるとは言えない父だが、一度決めたことは熟考の末なので決して曲げることはない。
ましてや、目に入れても痛くないほどに可愛がっていたひとり娘を敵国に嫁がせるのだ。何度も何度も逡巡した上での決断だろう。
だからこそ蝶子は、父の頑なな背中を見るまでもなく、蒼山伊織に嫁ぐことから逃れることはできないと思った。
耐えられないと思っても、耐える道しか蝶子は選ぶことができないのだ。
「……申し訳ございません」
やがて茜子は俯くと、そう言ってすすり泣いた。
「どうして茜子が謝るの?」
「申し訳ございません」
ほぼ同じ背丈の茜子の背中をそっと撫ぜると、彼女はひたすらに謝罪の言葉を繰り返した。
今回の政略結婚に関しては当人であっても蝶子が抗えるものではなく、ましてや侍女が何とかできる話ではない。
もしもこのまま茜子が部屋を飛び出して当主に意見したとすれば、首をはねられてもおかしくないのだ。
「わたくしとしたことが取り乱してしまい、失礼いたしました。姫様は冷静でいらっしゃるというのに……」
覆らない現状と蝶子の覚悟を理解したのか、やがて茜子は何度目かの謝罪の言葉と共にそっと彼女を抱きしめ返した。
その優しい温もりにぷつりと糸が切れた蝶子の目から、はらはらと涙が零れ落ちる。
それ以上は互いに何も語ることはなく、ただふたり、夜が更けるまで静かに泣き続けた。
春の夜明けは早い。
うとうととしては目覚めることを繰り返した蝶子は、木戸の隙間から日が差し込むのを確認すると、ゆっくりと布団から起き上がった。
昨晩は泣きすぎたので、恐らく目が腫れているのだろう。そっと瞼に手をやると、少し熱をもっているような気がした。
もうじき茜子がやって来るだろうから、井戸水で冷やした手拭いを頼んだ方が良さそうだ。
泣き腫らしたこの顔を義兄に見られるのは嫌だなと思いながら、父には見せてやりたいという醜い思いが微かに湧いてくる。
昨晩は蝶子の代わりに、茜子が憤り悲しんでくれたので、感情を抑え込まずに済んだ。けれども、若い娘ふたりが泣き明かしたところで政略結婚が覆る筈もなく、事態は何ら変わらない。
父の立場も考えも理解はできるが、それを容易に受け入れられるかと問われれば蝶子は否としか答えられず、自分にこのようなことを強いる父に当てつけたい気持ちにかられてしまうのだ。
(蝶は穂積の姫なのに、簡単に民の犠牲になれないのです。失望されますか、兄上……)
そっと木戸を開けると、眩しい朝の光が差し込んできた。光の先に居るであろう兄にそう話しかけたものの返事はなく、代わりに蝶子と同じく瞼を腫らした茜子が朝の挨拶と共に部屋に入って来た。
昨晩は人生が変わってしまったような気がしたが、一夜明けても実際は何も変わらなかった。
もちろん嫁いでしまえば様々なことが大きく変わってしまうだろうが、今は嫁ぎ先が決まったというだけで他は何も変わらない。朝餉を済ませると、蝶子は庭に出た。
穂積の春は色鮮やかだ。次々と種類の異なる花が咲き乱れ、華やかに城下を彩る。
それは蝶子が住まう城の中も同じで、特に父が自慢としている庭は常に美しく整えられ、そこは彼女が城の中で最も好きな場所であった。
――次の春にはこの花々を眺めることはないのだな。
池の脇に咲く黄色の花にそっと触れると、ふと感傷的な思いが込み上げてきた。結婚という事実が、急に実感を伴って迫ってくる。染乃の城に美しい庭はあるだろうか。
蝶子はそう問うてみたものの、恐らくこの庭ほど花が咲き乱れる美しい庭はないだろうと即座に打ち消した。
蒼山伊織のような人物が、美しい花を愛でるという気持ちを持ち合わせているとは思えない。
きっと殺風景な城だろう。そう思うと、蝶子の気持ちは更に落ちた。
やりきれない思いに深く息を吐いた瞬間、庭の片隅で微かに人の気配がした。
蝶子は身を固くし、まるでそこだけ雪が積もったかのように白い花をつけている雪柳の先をじっと凝視した。
「誰?」
そよと吹いた風が葉を揺らす音だけが微かに聞こえる静かな庭に、蝶子の強張った声が響く。蝶子とて、穂積国を治める紅野の姫だ。
少しでも危険から己の身を遠ざけられるよう、日頃から周囲の気配に注意を凝らすように厳しく指導されて育ってきた。
だから今、美しい春の庭ののどかな空気を乱す見えない人物に対し、蝶子は警戒心を募らせていた。
「さすがは蝶姫だ」
へらりと笑いながら姿を現したのは、無精髭を伸ばした小柄な男だった。
「……守之介」
蝶子の口から吐き出されたのは、男の名前と安堵の溜息だ。
「もう、驚かせないで頂戴」
「いやあ、ちょいと野暮用で登城していたのだが、姫さんの姿が見えたから隠れたのさ」
「何故、隠れるの?」
「そりゃあ、こんな薄汚い裏切り者と姫さんが接触したら駄目だろうよ」
そう言って皮肉な笑みを浮かべる男に対し、蝶子は眉をひそめた。
「誰がそんな失礼なことを言うの?」
「誰も言わないさ」
「じゃあ、裏切り者だなんて不快な言葉で自分を貶めないで」
蝶子の鋭い視線を黙って受け止めていた男だったが、やがて纏っているやさぐれた空気が微かに緩んだ。
「相変わらず蝶姫は真っ直ぐだな……」
「姫様!」
不意に背後から、殺気立った声が響いた。
「……武藤」
「姫様、穂積の恥晒しであるこのような男と言葉を交わしてはなりませぬ。この庭はおぬしのような薄汚い者が居る場所ではない。即刻立ち去れ!」
声の主である恰幅の良い男はずかずかと蝶子に近づくと、雪柳の傍らに立つ守之介を睨みつけた。
「武藤、やめて頂戴。わたくしが守之介に声をかけたのです」
「何と、姫様はお忘れでございますか? この男が忠孝様を見捨てた腰抜けであることを」
「守之介は、幼き頃より兄上が文武を競い合った親友です」
明らかに守之介を見下した笑みを浮かべる目の前の家臣に対し、静かに反論したのは蝶子だった。
「これはこれは。紅野家の筆頭家老である田辺殿のご嫡男は、主を死なせてもまだ寵愛を受けることができるのですな」
「言葉を慎みなさい、武藤。守之介への侮辱は、守之介を無二の親友と信頼していた兄への侮辱となるのですよ」
毅然とした蝶子の言葉に武藤が一瞬言葉を失うと、それまで黙っていた守之介が口を開いた。
「蝶姫、武藤殿は何も間違ったことは言ってないさ。そんなに睨むと眉間の皺が消えなくなって、せっかくの美人が台なしだ」
「やれやれ、ご嫡男がこれでは田辺殿も先が思いやられますな」
無精髭をひと撫でしながらへらりと笑う守之介に武藤も気勢をそがれたのか、呆れたように溜息をついた。
「姫様が忠孝様の親友を庇いたいのは分かりますが、親友であるのに見捨てたのはその男ですよ。姫様は蒼山家への輿入れも決まった大事な身。
そのような者と関わるべきではないという年長者からの助言を、聞き入れてもらえると嬉しいのですが」
武藤はそう言うと、大げさに困ったような表情を見せた。しぶしぶ蝶子が心に留めておくと答えると、恭しく頭を垂れて城門の方へと歩いて行った。
「姫さんは阿呆だなあ」
「阿呆は守之介です」
「阿呆の俺を庇って武藤殿に説教されたのだから、姫さんの方が阿呆だろうよ」
先程の武藤の呆れたような表情を思い出したのだろうか。だらりと着崩した着物の袂に手を突っ込んでぼりぼりと腹を掻きながら、守之介はひとり愉快そうに肩を揺らした。
はだけた着物の合わせから、胸元にある大きな刀傷がちらりと覗いている。
「武藤も田辺も紅野家に忠義を尽くしてくれるのはありがたいけれど、もう少し両家とも仲良くやってくれないかしら」
紅野家に古くから仕える田辺家と武藤家は反目することが多く、先程の武藤長吉郎も日頃から田辺家を目の敵にしているのだ。
疲れたように蝶子がそう愚痴ると、守之介はまるで人ごとのようにしれっと言い放った。
「確かにうちと武藤家は先祖の代から仲が悪いが、長吉郎殿が俺を嫌っているのは田辺家と武藤家の話云々じゃないさ。姫さんも分かっているだろう?」
軽い調子でそう言いながら、守之介はじっと蝶子の目を見つめた。蝶子は、つい今しがた武藤が発した言葉を思い返す。
「分かっているわ。守之介が誰よりも兄上に忠誠を誓っていたことを」
春の暖かい風が、優しくふたりの間を吹き抜けていった。蝶子の言葉に、守之介は驚いたように一瞬目を見開いた。
「やはり姫さんは阿呆だ……」
だから、不器用な守之介の方が阿呆なのにと思ったが、それは口にはしなかった。
さわさわと風が蝶子の黒く長い髪を揺らし、それはまるで、兄も彼女の意見に同意しているかのようであった。
「長居しすぎてしまったな。蝶姫、俺はそろそろ行くぞ」
「ええ」
そう告げると、守之介は雪柳の向こう側へ戻って行った。雪のように白い花の陰にその小柄な姿が消えそうになった瞬間、不意に彼は蝶子の方を振り返った。
「なあ、姫さん」
「何?」
「蝶姫は曇りのない目を持っている。染乃国に嫁いだらその目で、誰が己にとって害をなす人物で、誰が己にとって大切な人物かを見極めるんだ」
それだけ言い捨てると、守之介の姿は蝶子の視界から消えてしまった。