目次

の居る場所



 春暁の章  壱


 この世でたった一輪の、おまえだけの花を見つけなさい。
 華やかでなくとも良い。芳香を放たずとも良い。おまえだけに甘い蜜を与える、そんな花を見つけなさい。
 そして愛しく思うその花を、蝶の居場所とするのです。



* * *   * * *   * * *



「蝶子、おまえの嫁ぎ先が決まった」
 蝶子が部屋に入ると、書物に目を落としたまま父が言った。薄暗い部屋を仄かに照らす小さな炎が父の横顔にゆらゆらと影をつくり、彼女からはその表情は読めない。
「さようでございますか。して、わたくしの夫となる方はどなたでしょう?」
 父の唐突な宣言に驚くでもなく、蝶子は静かに問い返した。
「蒼山伊織殿だ」
「え……?」
「知らぬ筈はなかろう。染乃国を治める蒼山家の当主、伊織殿だ」
 父に相手を問うたものの、蝶子は自分の夫となるひとの目星をつけていた。 この頃、城内で囁かれている噂話。この穂積国を治める紅野家の姫を誰が娶るのかという推測は、当人である蝶子の耳にも届いていた。
 殆どの家臣たちは蝶子の夫候補に同じ人物を挙げており、彼女自身もそうなるのだろうと思っていた。 けれども、たった今父が告げたその名は、蝶子が一番聞きたくない人物の名前だった。

「父上、それは誠にございますか?」
「このようなこと、嘘をついてどうする」
「されど……」
 母が父に輿入れした年齢となり、蝶子はいつ自分に縁談の話がきてもおかしくないと思っていた。領主の娘である以上、どのような相手でも嫁ぐ覚悟はできていた。 けれども嫁ぎ先が蒼山家であることだけは、蝶子にとって容易に受け入れられそうにない。蒼山伊織に嫁ぐのならば、鬼や物の怪に嫁いだ方が余程ましだ。
「これはわしが決めたことだ。反論は許さぬ」
 いつも温和な父が、きっぱりとそう言い放つ。結局、最後まで目を通していた書物から顔を上げることはなく、向けられた背中がその意思の固さを表していた。 取りつく島もなく、蝶子は唇を噛んだまま頭を下げると父の居室を辞した。



 妻になる。あの蒼山伊織の、妻に……。
 衝撃的なその事実を受け止め切れず、蝶子は自室には戻らず庭に出た。先程までは庭の杉の木よりも低い位置で輝いていた月が、今はもう、空の高いところまで移動している。 月明かりを頼りに歩みを進めると、やがて蝶子は庭の池のほとりで足を止めた。
 蝶子の父である紅野和孝が治める穂積国と、蒼山伊織が治める染乃国はもう何年も戦を繰り返していた。二国の間には山がそびえ、その中腹には豊かな水をたたえる泉がある。 民の大半が田畑を耕し作物を育ている穂積国と、織物が盛んな染乃国はどちらもその産業に水を必要とし、治水権を巡って争ってきたのだ。
 もともと穂積国は貧しくはないがさして大きな国でもなく、このまま二国間で戦を繰り返して疲弊してゆくと、間違いなく近隣の大国に攻め込まれてしまうだろう。 恐らくそれは敵国である染乃国も危惧していることで、だから政略結婚の話が持ち上がってもまったく不思議ではない。むしろ、遅すぎるくらいだ。

 池の水面には、夜空にある月とまったく同じものが浮かんでいた。その美しさに無性に苛々とさせられて、蝶子は足元の小石を投げ入れた。 静かな庭にぽちゃりと小さな音が響き、水面に映る美しい月が瞬く間に大きく歪んだ。
 蝶子とて、この政略結婚がどれだけ重要かということは分かっているつもりだ。 戦国の世に生まれながらいつもどこかのんびりとしている父が、いつも蝶子を慈しんでくれた父が、敵国へ嫁げと命じたのだ。 それだけこの国の状況が良くないのだろう。 領主の娘がどれだけ重要な駒となるかは認識しているつもりだし、自分が望む望まざるに関わらず、紅野家に生を受けたその瞬間から与えられた役割なのだとも理解していた。 けれど、どれだけ相手の身分が違おうと年が離れようと構わないが、あの男のもとに嫁ぐことだけは蝶子は耐えられないと思った。

「蝶子」
 ゆらゆらと揺れる水面を眺めながら立ち尽くす蝶子の背中に、穏やかな優しい声がかけられた。
「……義兄上」
 振り返る前にひとつ息を吐き、呼吸を整えると小さく笑みを浮かべながら蝶子は声の主を見上げた。
「義父上と話をされたのですか?」
「はい」
 蝶子が短く肯定すると、義兄はその美しい顔を哀しげに歪めた。自分のせいでそんな表情をさせてしまっていることが蝶子にとって辛く、そして微かに嬉しくもあった。
「申し訳ありません……」
「何故、義兄上が謝られるのですか?」
「義父上に、蝶子を染乃国へはやらぬようお願いをしたのですが、聞き入れてはもらえませんでした。私の力が至らず、貴女には犠牲を強いることになって本当にすみません」
 そう言うと、遠慮がちに義兄が蝶子の髪に触れた。 とくりと心臓が音をたてる。その細い指は刀や弓を持つとは思えないほど繊細で、髪を撫ぜる際に微かに頬に触れた部分はひんやりと冷たかった。


 義兄である栄進は、一年前に紅野家の養子となった。もとは海原国を治める船越家の六男であったと聞いている。
 穂積国と染乃国は東西に位置し、その二国の南に横たわる大国が海原国だ。 温暖な気候は農業に適しており、更に海に面している為に海運が盛んで、各地域の商人が集まる要所としてこのあたりでは最も力を持つ国である。 小国である穂積国の最大の脅威は海原国であり、船越家の機嫌を損ねないよう常に細心の注意を払ってきたのだ。
 その船越家の栄進が紅野家の養子になった理由は、嫡男である蝶子の兄が子を成す前に亡くなったからだ。 紅野家に生まれたのは兄である忠孝と蝶子のふたりだけで、世継である兄が死に、紅野家は唐突に後継者問題を抱えることになった。 様々な思惑が渦巻き城内は混乱したが、結局、有力な家臣の中から蝶子の婿に迎え、ゆくゆくは家督をとらせようということで収まった。

 それに横槍を入れたのは、海原国の当主である海原豪進である。同盟を結んでいる紅野家の混乱は人ごとではなく、何とか手を貸して助けたい。故に、海原家の六男を紅野家の養子として差し出そう。 そうもっともらしいことを言って、海原家の直系の人間を紅野家に送り込んできた。 船越豪進が紅野家と縁戚を結んで穂積国を支配しようとしていることは明白で、家臣たちの間ではこれを機に船越国との関係を深めようという意見と、大国に乗っ取られるという危機感から染乃国と同盟を結ぼうという意見に二分された。 けれど、穂積という小国が、領土も財力も二倍以上ある大国に逆らうことができようか。
 もともと争うことが苦手な蝶子の父は、結局、栄進の養子縁組の話を受け入れたのだった。


「義兄上、そのようなお顔をなさらないで下さい。父上が決断されたことなれば、きっとこれが正しき道なのでしょう。 わたくしが染乃国に嫁ぐことで和平がおとずれるのなら、それは民にとって喜ばしいことでございます」
「無力な己が悔しいですが、今回のことが覆ることはないでしょう。されど蝶子、私の前では無理をしなくても良いのです。不満も不安も、すべて私にぶつけてくれて構わないのですよ」
 それしか自分にはできないのだから。そう哀しげに呟くと、栄進は触れていた蝶子の髪から手を離しぐっとこぶしを握った。
 蝶子が本音とは正反対の綺麗事を吐いたのは、穂積の姫として我儘を通すことはできないことを知っていたからだ。 覆すことができないならば、義兄には聡い義妹であったと思われたい。国の為に潔く犠牲となる、そんな健気な女でいたかった。

「私が、貴女をもらいたかった」
 僅かな沈黙のあと、ふたりしかいない夜の庭に義兄の呟きが零れ落ちた。ああ、それは口にしないで欲しかった。俯いた蝶子は小さく首を振ると、ぎゅっと目を閉じた。
「義兄上にはふさわしい方が、たくさん名乗りをあげていらっしゃるではないですか。その方と義兄上がこの穂積国を繁栄させて下さることを、蝶はお祈りしております」
「ああ、そうですね。この栄進が、必ずや紅野家を守ると約束しましょう」
 やがて蝶子が顔を上げると、義兄は真っ直ぐにこちらを見つめていた。月よりも美しいと思いながら無理矢理に笑みを浮かべると、義兄もその美しい顔を微かに綻ばせた。
「夜風が冷たくなってまいりましたので、そろそろ戻ります」
 これ以上一緒にいると呼吸ができなくなりそうな気がして、蝶子はそう告げた。日が暮れて、少し冷えてきたのは事実だ。
「風邪をひかぬよう気をつけなさい」
 そう気遣ってくれる義兄におやすみなさいと告げると、蝶子は自分の部屋へと戻って行った。相変わらず青白い月が、煌々と義兄の佇む庭を照らしていた。

 


2014/06/14 


目次