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ぎ出すカエル



 番外編  カエルと帰る 8


 カーテンの隙間から差し込む陽の光に、聡はぼんやりと目を覚ました。
 青空を見るのは何日ぶりだろうか。未だ覚醒しきっていない頭でそんなことを考えながら、聡はベッドからそっと抜け出すと机の上に置いていた眼鏡をかけた。
 シングルベッドに大人がふたり、体を寄せ合って眠っていたので全身がすっかり固まっている。軽く伸びをしながら首を回す。タオルケットにくるまっている果恵は、未だすやすやと寝息をたてていた。
 果恵は寝起きが悪い方ではないので、普段は聡が起きると彼女も自然と目を覚ます。けれども今日は一向に目覚める気配がなく、目の下にうっすらと見える隈に余程疲れているのかと聡は思った。 残業が続いたせいか、昨晩自分が求めすぎたせいか。恐らくは両方だろう。心の内で小さく反省しながら、もう少し眠らせてあげようと聡はそっと部屋を出た。

 聡はシャワーを浴びると、朝食の準備を始めた。残業が続くとついつい外食になってしまうので冷蔵庫の中は空に近いが、幸いにも食パンと卵はある。 トーストと目玉焼きにしようとそれらを取り出したところで、背後から物音が聞こえた。
「おはよう」
「おはよう。ごめん、寝すぎちゃった」
 もともと果恵は此処に泊る予定ではなく、着替えを持たない彼女の為に彼は自分のTシャツとハーフパンツを枕元に用意していた。 それらに気づいたようで、大きめの服を着た果恵が申し訳なさそうにキッチンの入口に立っていた。
「今から朝食の準備するから、その間にシャワー浴びておいで」
「ありがとう」
 寝起きの果恵はいつもよりも無防備で、素直に頷くとバスルームに消えて行った。心の中に、満ち足りた気持ちがひたひたと沁み渡る。朝起きると青空が広がり、そして愛しい人が傍にいる。
 幸せの正体はとてもシンプルで、聡は鼻歌でも歌いたい気分で熱したフライパンに卵を割り入れた。


「今日は、これからどうする?」
 朝食を食べ終え、牛乳をたっぷり注いだカフェオレを飲みながら果恵が尋ねてきた。 本当は昨日の夜に予定を決めて今日はどこか遠出をするつもりだったのだが、間もなく十一時を指すこの時間ではあまり遠くへは行けないだろう。
 けれども、もし早起きをしていたとしても、聡の中で行きたい場所は既に決まっている。砂糖もミルクも入っていないコーヒーを飲み干すと、聡は言った。
「買い物に行こう」
「良いけど、何か欲しい物があるの?」
 意外な提案だったのだろう。同意しながらも、果恵が不思議そうに尋ねてくる。
「果恵にプロポーズする為の、指輪を買いに行く」
「え?」
「それから、ふたりで暮らす為の家具や家電も」

 未来がどうなるかなんて誰にも分からない。それならば、一緒にいたい人と一緒にいよう。怯んで恐れて迷って、臆病な聡が結局辿りついたのは結婚という選択だった。
「嫌?」
 驚いた表情のまま固まって言葉を発しない果恵に対し、聡は笑いながら尋ねた。余裕ぶって作った表情とは裏腹に、声が情けなく震えた。
「嫌なわけない。でも、良いの?」
「良いよ」
 きっぱりと言い切る果恵の答に安堵した彼は、その後に続いた彼女の懸念をあっさりと肯定する。果恵が一緒にいてくれるのならそれで良い。 大切なのは彼女の気持ちであって、それ以外の問題はふたりで話し合って解決してゆけば良いのだ。

「知ってると思うけど、わたしの仕事は不規則だよ」
「大変な仕事だとは理解しているつもりだよ」
「生活のリズムが違うから、一緒に暮らすと迷惑をかけることもいっぱいあると思うよ」
「最初はぶつかることもあるかも知れないけど、ふたりでルールを見つけていけば良いよ」
 果恵の仕事が変則的だからこそ、結婚したいのだ。同じ家で暮らせば、朝の短い時間でも眠る前の僅かな間でも、一緒に過ごす時間をつくることはできるから。
「働いている果恵に惹かれたから、だから働いている果恵を応援する。将来的に家族が増えたとしたら、その時はまた生活スタイルを変えてゆけば良い。 仕事を続けても良いし、辞めても良いし、パートに切り替えても良いし。時間が経つごとに価値観も考え方も変わると思うから、悩んだらその時にちゃんとふたりで話し合って俺たちの形を見つけていこう」
 もしかしたら、以前の婚約者はふたりの未来が漠然としすぎて不安だったのかも知れない。ふとそんな考えがよぎった。 彼女のことはもちろん大切に思っていたし、だからこそ多少のことは自分が受け入れれば良いと思っていた。けれども彼女にとって、優しいだけの聡に具体的な夫婦像が描けなかったのかも知れない。 今となっては、知る由もないけれど……。
「一緒にいよう。不安も不満も喜びも嬉しさも、いつも伝え合おう」

 小さなテーブルを挟んで向かいに座っている果恵は、いつしか俯いてしまった。手を伸ばし、マグカップを握りしめる彼女の手にそっと触れると、やがて細い指が聡の指と絡まった。
「果恵のことは付き合い始めた時からずっと大切に思っていたけど、結婚して果恵を幸せにする自信がなかった。でも、昨日の夜に、一生大切にしたいと心底思ったんだ。 さっき朝食を作っている時に、こうやって少しでも一緒に過ごしたいと思ってしまったんだよ」
 だから、買い物に行こうよ。そう言って聡がぎゅっと果恵の手を握りしめると、熱い滴がぽたりと彼の手の甲に落ちてきた。
「……もう既に、これが立派なプロポーズじゃない」
 プロポーズする為の指輪を買いに行くという、先程の聡の言葉を指しているのだろう。すんと鼻をすすると、果恵は小さく笑った。
「ああ、そうかな。でも、うんと言ってくれるまでは何度もするよ」
 性格上あまり気障な演出はできないが、お互いTシャツにハーフパンツ姿で簡単な朝食を食べてからのプロポーズはさすがに悪いなと思っていた。 だけど一度決意してしまうと、言わずにはおれなかったのだ。
「それに、同じ苗字にならないと、名前で呼んでくれそうにないから」
 熱に浮かされたように何度も呼んでくれた名前は、平熱を取り戻すと再び苗字呼びに戻っていた。それを寂しく思っていた聡がからかい気味にそう言うと、果恵は頬を赤く染めた。
「聡さん、よろしくお願いします」
 負けず嫌いの彼女は、恥ずかしそうにしながらも、返事の前に敢えて聡の名前を呼ばう。 思わず吹き出すと、つられるように果恵も笑った。その表情は目を見張るくらいに幸せそうで、無意識に身を乗り出した聡はテーブル越しにそっと果恵に口づけた。




 ここ数日ずっと鉛色の雲が重く垂れこめていたが、今日は青い空が広がっている。久しぶりに顔を出した太陽につられるように、マンションの敷地内の公園には小さな子供たちが飛び出していた。
 唐突なプロポーズのあと、手早く食器を片づけて身支度を整えたふたりは、買い物に行く為に外に出た。 大きな買い物になるのでとりあえず今日は下見にしようという果恵の提案をのんだものの、できるだけ早く環境を整えたいと聡は思っていた。 ファミリー向けの間取りに単身用の家具を置いたアンバランスな家に一年以上も住んでおきながら、全く現金なものだと自分でも思う。
「今日は湿度が低いね」
「ああ。いつもこんなだったら良いのに」
 昨日までと違い、微かにそよぐ風は爽やかだ。天気予報では明後日から再び梅雨空が戻るだろうと言っていたが、早く梅雨が明ければ良いのにと聡は空を見上げる。不意に、甘やかな匂いが鼻孔を掠めた。
「くちなしの花が満開だね」
 アプローチの両脇に咲く白い花を見やりながら、果恵が言った。
「くちなし?」
「うん、この白い花。良い匂いがするでしょ?」
 名前は聞いたことがある気がするが、花の種類には疎いのではじめて名前とその姿が一致した。改めて白い花を見ると、その根元に花の名前が書かれたプレートが刺さっているのが目に留まった。

「どうしたの?」
 足を止めて花壇を凝視している聡に対し、果恵が訝しげに尋ねてきた。
「何でもない。ただ、俺のことだなと思って」
 昨日までは甘ったるくて不快だった匂いが今は幸せな甘さに感じられて、聡は自分の単純さに苦笑いを浮かべた。あんなにも忌々しかった花が愛らしく感じられ、帰りたくなかったこの家が大切な場所に思えてくる。 全ては隣にいる果恵のおかげだ。満ち足りた気分で愛しい人の横顔を盗み見た。
「どういう意味?」
「内緒。さあ行こう」
 不思議そうな表情を見せている果恵の手をとり、聡は歩き出す。アプローチ脇の公園からは、相変わらず子供たちの歓声が聞こえていた。

 そう遠くない未来、此処がふたりの幸せの場所となるだろう。
 果恵の元に帰る、果恵の帰りを待つ、果恵と共に帰る。そんな大切な場所になるだろう。 想い合うふたりを出迎える白い花の根元には、小さなプレートがある。花の名前と種別が表記され、その下には花言葉も添えられていた。
 ―― クチナシ  アカネ科クチナシ属   花言葉 : わたしは幸せ者


< 完 >

 


2013/12/31 


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