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ぎ出すカエル



 番外編  カエルと帰る 7


 空調の効いた寝室には、穏やかな時間流れていた。
 疼く体をもてあましたふたりは、バスルームで汗を流すとそのまま寝室へと移動した。付き合い始めてもどこか遠慮がちだった聡と果恵ははじめて互いの気持ちを曝け出し、いつにもまして激しく体を重ねた。
 そして今は、先程までの熱はようやく引いて、ふたりの満ち足りた気持ちが部屋中を支配している。


「そう言えば先週、駅で果恵を見かけたよ」
 ふと思い出したように、聡は腕の中の恋人に囁いた。聡の住む部屋は果恵がはじめて訪れたあの冬の日以来何も変わっておらず、リビングも寝室にも相変わらず単身用の家具しか置かれていない。 ベッドも長年使用しているシングルタイプで、ふたりは密着して横たわっていた。
「いつ? どこで?」
 聡があの日の状況を説明すると、案の定、果恵はどうして声をかけてくれなかったのかと口を尖らせた。
「一緒にいた人と親しげだったから、妬いていたんだ」
 妬いていたというよりも怯えていたのだけれど、さすがにそれは恥ずかしいので自分だけの秘密にしておく。一方、聡からいじけたようにそう告げられた果恵は、一瞬目を丸くしたのちに吹き出してしまった。
「彼はわたしの同期だよ。出張でこっちに来ていたから、レストランのチーフも交えて久しぶりにお茶していたの。そうだ、筒井くんも一度会っている筈だよ」
 果恵の答に、だから親しげに見えたのかと聡は納得する。けれども聡自身が彼と顔を合わせた記憶はない。 もしかするとホテル・ボヤージュに宿泊した際にチェックインやチェックアウトを担当してもらったのかも知れないが、さすがにその程度の接触では覚えていなかった。
「彼は北町で働いているの。去年の三月にわたしが大失態をやらかして筒井くんに北町に宿泊してもらった時に、チェックインをしてくれたのが彼だよ」
「ああ、あの時の……」
 さすがに顔までは覚えていないが、あの時のことはよく覚えている。どういう経緯でオーバーブッキングになったのか詳細は聞いていないが、果恵が必死で頑張っていた。 一身に責任を負い、冷静に誠実に失敗をカバーしようとしている姿に、聡は自分自身の仕事ぶりを省みたものだ。
「同期は特別だけど、彼には可愛い奥さんと子供がいるからやきもちの心配はいらないよ」

 やはり杞憂だったと、悩んでいた自分が滑稽になる。彼の妻も果恵と同期入社らしく、入社当時の話を聞かせてくれる彼女の瞳には微塵もやましさが見当たらなかった。
「疑ってごめん」
 彼女の頬に流れた一筋の髪を耳にかけてやりながら、聡は詫びた。 あの時素直に告げていればこんなに悩むことはなかったのに、浮気などではないと分かっていながらも、心の底にじわじわと広がる不安をコントロールできなかったのだ。
「怖かったんだ。また捨てられるのではないかと、別れを切り出されることにずっと怯えていた」
 黙って髪に触れられながら、果恵は真っ直ぐに聡を見つめ返していた。
「前の彼女に別れを告げられた時、俺は悪くないと言われたんだ。悪いところは直すからと言っても、自分が悪いの一点張りだった。じゃあ、何故俺では駄目だったんだ?  言えなかっただけで何か致命的な欠点があったのか、悪いところはなくとも一生一緒にいることが難しいと判断されたのか。 いっそ欠点をあげ連ねてくれた方が良かったのに、婚約を破棄してまで選んだ男と自分の何が劣ってたのかが分からないことが、ずっと不安だったんだ」
 だからいつか、果恵も別の男を選ぶかも知れない。果恵と再会してもう一度恋愛をしようと一歩踏み出したものの、そんな漠とした不安が幸せな気持ちに水を差し、やがてじわじわと心に浸食していったのだ。

「努力家なところが、好き」
 重くならないように告げたつもりだが、知らぬ間に悲痛な表情になっていたのだろうか。黙って耳を傾けていた果恵が、やがて手を伸ばすと聡の頬にそっと触れた。
「誠実なところが、好き。落ち着いた雰囲気が、好き。でもたまに意地悪な冗談を言うところも意外で、好き。冷静に見えて情熱的なところも、好き」
「もういいよ」
 聡を好きな理由をあげてゆく果恵を、彼はいたたまれなくなって制止した。照れくさくて嬉しくて切なくて、胸の奥が締め付けられるような気がした。
「働くわたしの姿を認めてくれたところが、好き」
 そう告げると、果恵は僅かに体を起して聡に口づけた。そして尚も、耳元で何度も好きだと繰り返す。 鼓膜を震わせる優しい告白に、聡は心の奥に重く圧し掛かっていた不安が溶けてゆくのを感じていた。
 ―― 何があっても一生、果恵を大切にしよう。
 湧き上がる幸せな想いはいつしか熱い情欲を伴い、起き上った聡は彼女をそっと組敷いた。

 先程の口づけに、口づけで返す。額に、頬に、瞼にと、ゆっくり場所を移しながらキスを落としてゆく。
「俺も、果恵が好きだよ」
 耳に唇を寄せながら、世界中で本人にしか聞き取れない大きさで囁く。
「もっと言って」
 恥ずかしげな表情を見せるかなという予想を裏切り、聡の両肩へと手を伸ばした果恵がまるで幼い子供のようにねだってきた。
「負けず嫌いなところが、好きだ。凛とした雰囲気が、好きだ。責任感が強いところが、好きだ。仕事を頑張っているところが、好きだ」
「わたしも、不安だったよ」
 彼女を真似て好きな理由を羅列する聡を遮り、果恵が小さく呟いた。
「まだ前の婚約者のことを忘れられないんじゃないかって、ずっと不安だった。彼女と暮らす為に選んだ大切な場所だから、家にも呼んでくれないのかなって。 働くわたしを認めてくれたから仕事を頑張りたいと思う一方で、不規則なシフトのせいで迷惑ばかりかけているから、いつか愛想をつかされるんじゃないかと不安だった」

 三十歳を超えたいい大人の、何と恋愛下手なことか。好きという気持ち故に不器用で臆病で、結局ふたりとも同じ気持ちを抱えていたのだ。
「無神経でごめん。不安な思いをさせて、本当にごめん」
「わたしこそ、ごめんなさい」
 額と額を寄せるようにしてそう聡が詫びると、果恵も同じく謝罪の言葉を返してきた。 大人になって経験を積めばもう少しスマートに恋愛をこなせるかと思っていたけれど、大人だからこそ余計なことを考え過ぎてなかなか素直になれない。 優等生タイプのふたりには難しいが、もっと互いに甘えたり我儘を言うことが案外上手くいく秘訣かも知れないな。そう考えながら、聡は果恵にひとつの提案をした。
「これからは不安があれば言って。我儘も言って。仕事が大変な時はもっと甘えてよ」
「うん、そうする」
 果恵も同じことを感じていたのだろうか。聡がそう言うと、あっさりと頷いた。
「勝手に相手の気持ちを決めつけて、忙しいだろうとか大変だろうと遠慮するのはやめよう。もちろん大変な時は、ひとりで頑張らないで教えて欲しい」
「うん、分かった。筒井くんもちゃんと守ってね」
「もちろん。じゃあ早速、遠慮しないから」
 悪戯ぽくそう宣言すると、聡は深く果恵に口づけた。

 中学生の聡は中学生の果恵に対して、確かに淡い気持ちを抱いていた。幼かったあの頃は何も告げられず、都会の高校で何度か彼女のことを思い出したこともあった。 けれども時が経ち、様々な出会いがあり、当然のことながら初恋は甘酸っぱい思い出へと変わってゆく。
「果恵」
 熱をもった掌で柔らかな左の乳房を包み、右を口に含む。遠慮しないという言葉とは裏腹に、聡は壊れ物を扱うかのようにいつも以上に大切に果恵の体に触れた。
 結婚が破談になった時、聡は何故自分がこんな目に合うのかと投げやりになり、半ば女性不審に陥った。 もう恋愛はこりごりだ。大人になってからは思い出すことも稀になっていた果恵との再会を果たしたのは、仕事にもプライベートにも消極的になっている時だった。 少女の頃と変わらず一生懸命な果恵の姿に懐かしさと眩しさを覚え、やがてそれは仕事へのやる気を取り戻させた。そして、淡い恋心が大人の恋情へと変化するのにそう時間はかからなかった。
「果恵、熱いよ」
「やだ……」
 果恵の胸に刺激を与えていた聡の手は、曲線を描く彼女の体を優しく這いまわり、やがて熱で疼くその場所へと到達する。つい先程も繋がっていたそこは熱く潤い、やすやすと聡の指を受け入れた。 自分が与える刺激に微かな声を洩らす果恵を、聡は愛しく思う。
 果恵への気持ちを自覚したものの、聡は身動きがとれずにいた。一度だけ食事をした時は、数えるくらいしか言葉を交わせなかった中学時代が嘘のように会話を楽しめた。 けれども、ふたりの間には相変わらず距離がある。行動範囲が制限された学生時代に比べると自由だが、それぞれの場所で仕事を持つ身なので想いを告げるには覚悟が必要だ。 いや、それは単なる言い訳で、聡にはもう一度誰かと恋愛関係を結ぶ自信がなかったのだ。

「果恵、好きだ」
「わたしも。わたしも聡が好き」
 熱を分け合い体をひとつにして律動を刻みながら、うわごとのように繰り返す。無意識のうちに口から零れる言葉は偽りようがない本音で、果恵の口からも熱い吐息に紛れて同じ言葉が返ってきた。
 結局、臆病な聡は、自ら想いを告げることができなかった。果恵が東京に転勤したと聞いた時は告白する勇気もないくせにチャンスだと思い、けれども覚悟を決めた果恵が行動を起こすまで何ひとつ動けずにいたのだった。 彼女の予想外の告白は奇跡のようで、果恵を自分のものにしてしまいたいと心底欲した聡はその場で彼女の全てを手に入れた。 意気地なしのくせに手だけが早くて、だから付き合い始めてからは大切にしようといつも心に誓っていた。
「果恵を愛してる」
 素面ではなかなか恥ずかしくて言えない愛の言葉は存外簡単に唇から零れ、受け止めた果恵が嬉しそうに笑ってくれた。幸せだ。そう思いながら彼女の奥深くへ己を刻むと、そのまま聡は果恵を抱きしめた。

 言葉だけでは伝わらない。体だけでも伝わらない。
 今夜ふたりは、言葉と体で互いの想いを伝え合ったのだった。

 


2013/12/9 


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