虎之新が言った通り、すぐに水と濡らした手拭いを持って桔梗が駆けつけた。いつもながら無駄のない動きで蝶子の汗を拭い、水を飲ませてくれる。
少し眠って気分は良くなっていたが、水分を摂るとすっかり落ち着いた。
「ありがとう。随分と楽になったわ」
「いえ。奥方様のご気分がすぐれないことに気づかず、申し訳ございませんでした」
そう言うと侍女は、深く頭を下げた。いつも通り淡々とした物言いだが、そこには微かに後悔の色が滲んでいた。
「謝らないで頂戴。昼までは別段いつもと変わりはなかったの。暑さで立ちくらみを起こしただけだから気にしないで」
蝶子の言葉に戸惑いの表情を浮かべながら何かを言いかけた侍女だったが、部屋の外から声をかけられた為に、結局そのまま口をつぐんでしまった。
「倒れたと聞いたのだが、具合はいかがか?」
やって来たのは、夫である伊織だった。
「もう大丈夫でございます。お騒がせしてしまい、申し訳ございません」
そう言いながら布団から起き上がろうとすると、まだ寝ているようにと制された。
「無理をされるな。知らぬ土地に御身ひとつで参られて、更にはこの暑さだ。慣れぬ環境に疲れてしまったのだろう」
「少し横になりました故、本当に大丈夫でございます」
蝶子ひとりで嫁いで来るようにと、茜子らの帯同を禁じたのはそちらの方だろう。蝶子は内心むっとしながら、夫の制止を無視して起き上った。
少し寝乱れた髪を手櫛で整えていると、伊織が遠慮がちに声をかけてきた。
「夕餉は食べられそうか?」
日は沈みかけ、そろそろ夕餉の時間だ。いつもほど食欲はないが、少しなら食べられそうだ。
病弱な母に似ず蝶子も兄も健康で、たまに風邪をひいてもすぐに元気になるふたりを両親はいつも褒めてくれたものだ。
少しだけ食べると伝えると、伊織は傍に控えていた桔梗にふたり分の膳を用意するようにと命じた。
「え?」
「私もここで頂こう。嫌か?」
「滅相もございません」
嫌だと言える筈もなく、蝶子は大きく頭を振って否定した。一体どういう風の吹き回しだろう。名目上の妻とはいえ体調を崩した蝶子に多少は同情しているのか、それとも単なる気まぐれか。
切れ長の涼しげな目からは一切の考えは読めず、蝶子は困惑しながら膳が運ばれて来るのを待っていた。
間もなく、桔梗ともうひとりの侍女が蝶子の部屋へ夕餉を運んで来た。
「ご苦労であった。下がって良いぞ」
手際良く膳を並べて茶の準備をした桔梗らに対し、伊織はあっさりと下がるように命じた。部屋に残されたのは、蝶子と伊織のみ。
これまでも蝶子をないがしろにしない程度には彼女の元を訪れていた伊織だったが、食事はいつもひとりで、夕餉を夫と共にするのはもちろんはじめてだった。
「では、頂こうか」
「はい」
そう促されて、蝶子は手を合わせると箸をとった。いつもより少なめにと桔梗に頼んでおいたので、椀には少量の雑炊がよそわれている。この量なら完食できそうだ。
そう思いながら椀を口に運ぶ。
ふと目の前に座る伊織を見やると、蝶子のものよりもひと回り大きな椀を手に雑炊を口にしていた。
はじめて見る当主の膳の内容に、これだけかと蝶子は訝しんだ。もしかして、体調を崩した蝶子に合わせてくれているのだろうか。
「どうかされたか?」
「あ、いえ……」
「口に合わぬか?」
蝶子の視線に気づいて、伊織が尋ねてきた。やはり食欲がないのかと心配されて、観念した蝶子は素直に疑問を口にした。
「お屋形様のお膳は、わたくしに合わせて下さっているのかと思いまして。もしそうならば、お気遣いは無用にございますので……」
言葉を選びながらそう伝えた蝶子に対し、伊織は一瞬不思議そうな表情を見せた。やがて自分の膳と蝶子の膳を見比べながら、静かに口を開いた。
「もしや、蒼山家の膳は紅野家よりも貧しかったか?」
夫の問いに、失言だったと蝶子は己の発言を悔いた。
汁ばかりの雑炊が毎食続き、玄米に一汁一菜という食事を当たり前だと思っていた蝶子は、自分だけが質素な食事を強いられているのかと少し疑っていたのだ。
けれども今の伊織の反応からして、染乃国ではこの内容が普通のようだ。
「いえ、同じにございます。ただ、お屋形様も同じものを召し上がっておられることに、少しばかり驚きました。どうかご無礼をお許し下さいませ」
蒼山家の面子を立てて、小さな嘘を織り交ぜる。穂積国では紅野家のみならず有力な家臣たちももう少し豊かな食事をとっていたが、当主の膳のみが少しばかり贅沢だったように脚色した。
そうかと、夫は納得したように頷いた。咄嗟に機転を利かせたが、果たして切れ者の伊織に蝶子の嘘が通用したかどうかは疑問だった。
「染乃の土地は姫の生まれた穂積国とは異なり、農業には不向きでな」
椀を空にすると、伊織はそう言いながら箸を置いた。
「この土地は収穫の時期になると嵐がおとずれ、川が氾濫してせっかく育った稲や野菜をなぎ倒してゆくのだ。
我らの先祖たちはそれに屈せず毎年田畑を耕し続けたが、ある時、旅の僧が藍の苗を染乃の地にもたらした」
「藍の苗を?」
尋ね返した蝶子に、伊織はそうだと頷いた。
「藍の収穫は、嵐がおとずれる前に行われる。藍の収穫時期は、この地に合っていたのだ。里から少し離れた荒れ寺に居を構えた僧は、染色の技術を人々に伝授した。
やがて美しい藍染を生み出す職人たちがこの地に育ち、多くの商人たちが藍染を買い付けに染乃の地へやって来るようになったのだ」
蝶子は黙って相槌をうちながら、夫の説明に耳を傾けていた。知らないことが大半で、その内容はとても興味深かった。
「藍染ではどの国にも負けぬ自信はあるが、それだけで腹は満たされぬ。長年戦を続けて民たちに我慢を強いてきて、我らだけが贅沢な暮しをするわけにはゆかぬだろう」
だから当主である伊織も、質素な食事をしているというのか。敵国の姫だから己だけが粗末な食事を与えられているのかと疑った自分を、蝶子は心底恥ずかしく思った。
たまたま蝶子の故郷である穂積国は農業が盛んであった為に食べる物には困らなかったが、主産業が染乃国のように食に直結しないものであれば同じ状況になっていただろう。
伊織は敢えて口にしなかったが、もともと隣国である穂積と染乃の商人の行き来は盛んで、戦のせいで流通が途絶えてしまったことは蝶子でも容易に想像がつく。
穂積は藍染が手に入らなくても生活に支障はないが、染乃に米や野菜がもたらされなければたちまち生活は困窮してしまうのである。
「姫にも我慢を強いることになる。すまないな」
どうやら伊織にごまかしは通用しなかったようだ。たとえ小国であっても肥沃な土地に豊かな田畑を持つ穂積国では、食べる物に困ることはなかったであろうとお見通しだ。
せめて嫌がらせを疑った自分の醜い気持ちだけは知られたくないなと思いながら、蝶子はきっぱりと告げた。
「わたくしは贅を求めて嫁いで来たわけではございません」
贅沢など興味はない。兄を殺した人物の元へ嫁いだその理由は、戦を終わらせることに他ならない。
常に平和で豊かな国を望んでいた亡き兄の意志を継ぐ為に、ひとり敵国までやって来たのだ。目の前に座る兄の敵は、我が夫ながら未だその人柄は見えない。
けれど、民の幸せを願う気持ちは本心のように感じられた。
「わたくしがこの地に参ったのは、戦を終わらせる為。穂積の民が憂いなく暮らす為に、お屋形様のお力を借りに参ったのです。
お屋形様がわたくしをお迎え下さったのも、同じお気持ち故と存じます。ならば今一度、穂積と染乃で交易を結んで下さいませ。さすれば双方豊かになることでしょう」
蝶子の言葉に一瞬瞠目した伊織は、やがて切れ長の目を細めた。いつも顔色を変えない夫が微笑んだように見えて、蝶子の鼓動が僅かに早まった。
「約束いたそう。愚かな諍いは終わりにし、穂積国と共に平和な国を目指すことを」
力強く宣言した伊織に対し、蝶子は違和感をおぼえた。それならば何故、兄との和平交渉を決裂させたのか。
もしもあの時に受け入れていれば、兄は死なずに済んだし双方の民たちも戦の負担から早くに解放されることができた筈だ。
「そのお言葉に安堵いたしました。ありがとうございます」
そう頭を下げながら、蝶子は混乱していた。彼の言葉に偽りは感じられないが、穂積国で聞いていた人物像とは乖離がある。
蒼山伊織とは一体どのような人物なのだろうか。蝶子はますます夫のことが分からなくなっていた。
* * * * * * * * *
虎之新が蝶子の部屋を訪れたのは、彼女が倒れた二日後のことだった。
「やあ姫さん、すっかり顔色が良くなられたな」
桔梗に通された虎之新はずかずかと入ってくると、蝶子の顔を見て破顔した。世話になった虎之新に礼を言いたいと、夫を通じて時間をつくってもらうよう頼んでいたのだ。
「ええ、お陰様でもう元気です。その節は、河合殿に迷惑をかけました」
「いや俺はたまたま通りかかっただけだ。何もしておらぬ故、礼のお言葉は不要にござる」
「何を仰います。ここまでわたくしを運んで下さったのは、河合殿でございましょう」
そう蝶子が反論すると、大柄な男は口の中で何やらもごもごと言いながら黙り込んでしまった。どうやら諦めたようだ。
「今年の夏は長かったが、じき秋がおとずれる。さすれば、今よりも過ごしやすくなるであろう」
虎之新の言葉に、蝶子は小さく頷いた。昨日今日は、朝夕の暑さが幾分和らいでいる。昼間の日差しは相変わらずだが、夜の寝苦しさから解放されただけでも随分と楽だ。
「染乃の秋は美しい。まだ少し先にはなるが、この城の庭園の紅葉は燃えるように紅く染まるのだ。姫も是非、ご覧になられよ」
「それは楽しみでございますね」
如才なく相槌を打ちながら、蝶子はこの城に到着した時に一度だけ見た庭を思い出していた。
砂利が敷き詰められた庭園には所々大きな苔むした岩があるだけで、一輪の花も咲いていなかった。
濃い緑の木々が涼しげな空間を生み出してはいたものの、その灰色と緑だけの色彩は単調で、花をこよなく愛する蝶子は心底失望したのだった。
あの木々の中に紅葉の木もあり、鮮やかに色づくのだと虎之新は言う。けれども、蝶子にはさして魅力には感じられなかった。
「姫さんは自室に篭ってばかりおられるようだが、少しは外に出た方が良いのではないか?」
従兄だから血は繋がっている筈なのに、伊織と虎之新はあまり似ていない。無口な夫に比べ、虎之新は饒舌だ。
蝶子の当たり障りのない返事に、庭園へは行かぬと踏んだのだろう。
部屋に引き籠っているから体力不足で倒れるのだと言外に含まれているようで、蝶子は苦笑いを浮かべながらそうですねと返した。
「姫さんは蒼山家の正室だ。伊織を支える為に、もっと人に会われるべきだし城内のこともこれから把握してもらわねばならぬ」
自室に一日中引きこもり、己の好きなことをして気楽なものだ。最初は大目に見ていた城内の者たちも婚儀から二ヶ月が過ぎた今、そろそろ蝶子を値踏みしているのは知っている。
先程までの人好きのする顔のまま、虎之新はずけずけとそこに踏み込んできたのだ。冗談とも本気ともつかない物言いに、食えない男だと蝶子は思った。
「それは、お屋形様のお考えにございますか?」
蝶子がしれっと尋ねると、虎之新は垂れ目の奥に微かに失望の色を浮かべた。一国を統べる領主の妻とあらば当然、虎之新が今言ったことを行うのが務めだろう。
それを伊織には言われていないと匂わせたのだから、阿呆の姫が言い訳しているのだと思われたに違いない。
「わたくしが表に出ても、本当によろしいのですか?」
重ねて蝶子が問いかける。蝶子とて、このまま自室に籠っていれば穀潰しと言われても仕方がないと思っている。
けれど、もしも伊織が心に決めた人を側室にと考えているのなら、今蝶子が表に出てその立場を築いてゆくのはまずいだろう。
「姫さん……?」
その真意を探るかのように、虎之新がじっと主の妻である蝶子を見つめていた。
やがて虎之新が口にしたのは、意外な要望だった。
「姫さんの庭を見せて下さらぬか?」
小さな庭では、女郎花の蕾がようやく開きかけていた。
夏から秋への季節の変わり目なので咲いている花は少ないが、色彩に乏しい城内の広大な庭園よりも、美しい花が咲くこの小さな庭の方が蝶子にとっては何よりの癒しであった。
ふたり揃って庭に下りると、物珍しそうに眺めながら虎之新が尋ねてきた。
「姫さんは、この庭がお好きか?」
「はい」
即答した蝶子に少し驚いたような表情を見せた虎之新だったが、すぐに嬉しそうに目尻を下げた。
花々の愛らしさよりもより簡素なものに美を見出すという染乃において、このような庭があるのは正直驚きだった。
偶然かどうかは知らないが、その庭に面する部屋が蝶子の自室となったことは何よりも幸運だったと思っている。
やがて咲き出すであろう秋の花々に思いを馳せていると、自然と蝶子の表情には笑みが浮かんでいた。
「姫さんがどう思っておられるかは存じ上げぬが、伊織も我ら家臣も、蒼山家に必要なのは蝶子姫だと思っておる」
「河合殿……」
「我らの間の遺恨が残っていることは隠しようのない事実で、それらを容易に消し去ることができぬのもまた事実だ。なれど、少しでもそれを薄めることはできるだろう」
俺はそう信じている。そう告げた虎之新は相変わらず笑みを浮かべたままで、けれどもその言葉には熱が感じられた。
兄を殺したこの国の人たちを、夫を、自分は許すことができるのだろうか。憎しみや嫌悪や恐怖がないまぜになった負の感情が、いつかは和らいでゆくのだろうかと蝶子は自問した。
黙ったまま突っ立っているふたりの間を、風が吹き抜けてゆく。先程よりも少し低い声で、虎之新が蝶子に呼びかけた。
「なあ姫さん。いずれ明らかになるだろうから、今伝えておく」
何を伝えるつもりだろうか。見当もつかないままに、蝶子は虎之新を見上げながらこくりと小さく頷いた。
「俺には竜之新という兄がいて、当然兄が河合家を継ぐ予定だった」
てっきり虎之新が嫡男だと思っていたが、どうやら違ったようだ。何となく嫌な予感がしながら、蝶子は遠慮がちに尋ねた。
「兄上は、今はどちらに?」
「穂積との戦で死んだ。そして兄の許嫁が、桔梗だった」
思わず蝶子は部屋の方を振り返った。部屋に控えている侍女は先程まで蝶子と虎之新が飲んでいた茶を片づけており、蝶子の視線には気づいていない。
兄がいながら虎之新が跡継となっている状況から鑑みて竜之新とやらが死んだということは予測できたが、桔梗の許嫁であったということは思いもよらなかった。
けれどもこれで、蝶子に対する桔梗のあまりに素っ気ない態度に合点がいく。
許嫁の敵ともいえる蝶子に仕えるとは、どれ程の苦痛であろうか。兄の敵に嫁がねばならなかった蝶子は、いっそ侍女に同情してしまった。
「わたくしは、それを聞いて何と申し上げればよろしいのでしょうか?」
これは二国間の戦での話だ。紅野家の姫が容易に詫びるわけにはゆかないし、同情の言葉をかけることも違う。何よりも、自分だって大切な兄を奪われたのだという気持ちが強かった。
だから蝶子の口から出た言葉は突き放したものになってしまったが、虎之新から返ってきたのは意外な答だった。
「別に、何も」
「え?」
「早晩このことは姫さんの耳にも入ると思った故、先に知らせておこうと思っただけだ」
何でもないことのようにあっさりそう言うと、虎之新は百日紅の枝に手を伸ばした。蝶子には到底手の届かない高さにある赤い花の房を手折ると、言葉を続けた。
「姫さん。俺は昔からものぐさで、だから誰かを憎み続けるなんて気力のいる芸当なんざできない性質なんだよ」
小さな赤い花をつけた枝を蝶子に差し出すと、虎之新はそう言って豪快に笑った。
日に焼けた顔をくしゃりとさせるその笑顔を見上げながら、蝶子は黙ってその枝を受け取った。