盛夏を過ぎても一向に秋の気配はおとずれず、日が暮れてもうだるような暑さが続いていた。風はなく、庭に蕾をつけている女郎花は微動だにしない。
先程まで鳴いていた蝉もあまりの暑さに疲労困憊したのか、今はただ静寂が広がっていた。
(暑い……)
口にすれば余計に暑くなると思い気を逸らそうとするが、暑いものは暑い。団扇を手にしてみるが、気休めのように生温かい風が微かに首筋を撫ぜるだけだった。
蝶子が染乃国に嫁いできて間もなく二ヶ月が経つが、相変わらず日々の生活は己の部屋と小さな庭の中で完結していた。
蝶子が言葉を交わすのは桔梗らお付きの侍女くらいで、あとは思い出したように時折訪れる夫だけだった。
(喉が渇いたわ)
暦が変わってもずっと残暑が続いているが、今日は殊に暑い。日差しがきついというのもあるが、じっとりと重い空気が停滞しているせいで余計に暑く感じられた。
「桔梗」
水を持って来てもらおうと声をかける。暫く待ってみたが、応答はない。先程よりも少し大きな声で侍女の名を呼んでみたが、やはり蝶子の部屋の襖は開かなかった。
つい今しがたまで傍に控えていたが、どうやら席を外してしまったようだ。いないとなると余計に喉の渇きが増して、蝶子はついに立ち上がった。
そっと襖を開き、廊下に向かって遠慮がちに侍女の名を呼ばう。けれども薄暗い廊下には、人の気配は感じられなかった。
その瞬間、唐突に一匹の蝉が大音響で鳴き始めた。その渾身の鳴き声につられたかのように、一斉に他の蝉たちもあとに続く。
城内の人気のなさと庭の蝉の存在感が対照的で、何故だか急に恐ろしくなった蝶子は、ぐわんぐわんと響く鳴き声を振り切るように廊下を歩き始めた。
「茜子……」
無意識のうちに、蝶子は懐かしい名を呼んでいた。自分の発したその音に、急激に郷愁が湧き起る。ふらふらと廊下を歩く蝶子は、もはや誰を探しているのか分からなくなっていた。
「うわっ!」
意識の片隅でどたどたと激しい足音を聞いていたが、蝶子は構わず歩みを進める。すると角を曲がって来た足音の主が蝶子の姿を認めて、驚きの声を発した。
「姫さ……、奥方様。いかがなさいましたか?」
呼びかけられた声に微かに反応した蝶子が見上げると、そこには日に焼けた大柄な男が立っていた。逞しい体躯は圧倒的な存在感を示しているが、不思議と威圧的には感じられない。
そんなことを考えていると、視界がじわじわと暗くなってくる。ああ、倒れる。そう思った瞬間、蝶子の足元がぐらりと揺れた。
「奥方様! 奥方様、しっかりされよ!!」
慌てて駆け寄った男に倒れる寸前で支えられたものの、既に力が入っていない蝶子の体はぐにゃりと崩れた。
「おい、そこにおられるのだろう? 早く姫さんを部屋へ。俺は桔梗と伊織を呼んで参る」
「はっ!」
蝶子を抱えている大柄の男が声をかけると、物陰から小柄な男が現れた。大柄な男は彼に蝶子を託すと、大股で去って行った。
小柄な男の方は見かけによらず軽々と蝶子を抱き上げると、彼女の部屋へと向かった。その腕の中、ゆらゆらと揺れる意識の片隅で、蝶子は不思議な懐かしさを感じていた。
「……う、蝶」
微かな風が、頬を優しく撫ぜる。
「蝶子」
春先の霞のようにぼんやりとした意識の中で、懐かしい声がした。誰かがわたしを呼んでいる。そう思いながら目を覚ますと、幼い頃から見慣れた顔が覗き込んでいた。
「このようなところで昼寝をしていると、干からびてしまうぞ」
「……兄上?」
部屋の中がどうにも暑く、風の通りの良い縁側に出て涼んでいたところ、いつの間にかうとうとしていたようだ。どれくらい眠っていたのだろうか。
先程までと変わらぬ高さから日は照りつけ、蝉の声は弱まることはない。蝶子は僅かに乱れた髪を整えながら、ゆっくりと起き上った。
「此度はどちらへ?」
十日ぶりに戻った兄に怪我がないことを確かめながら、蝶子は控えめに尋ねた。
「鏡泉山のふもと、染乃国との国境にある泉水村だ」
「何か心配事でも?」
事情が分からなくとも、敵対している染乃の名が出てくるだけで身構えてしまう。蝶子は思わず眉を寄せた。
「いや、此度のことに染乃国は直接関わりはない。我が国の問題だ」
「それは、どういう意味にございますか?」
攻め入られたわけではなさそうなのでとりあえず安堵したが、困惑した兄の表情を見ていると面倒なことが起こっているようだ。
「戦のたびに男手をとられる村人たちが、その負担に耐えかねて蜂起したのだ」
「まさか!」
長引く戦に不満はくすぶり、もともと火種はあったのかも知れないが、反乱が起こるほど深刻だとは正直思っていなかった。
つい今しがたまでのんきに昼寝をしていた自分が、蝶子は急に恥ずかしくなった。
「して、その村の者たちは?」
「無論、即座に鎮圧したさ」
恐らく情報は掴んでいたのだろう。武器を持たぬ農民たちが立ち上がったところで、領主である紅野家率いる武士たちにかかればひとひねりだ。
半日も経たないうちに、哀れな農民たちの反乱は制圧されてしまったとのことだった。
「村人たちはどうなったのです? 首謀者は?」
「蝶は、どうするのが正解だと思うか?」
矢継早に質問すると、逆に静かな声で問い返されてしまった。正直なところ、蜂起した村人たちは愚かだと思う。
そのようなことをしても己の首を絞めるだけで、下手をすれば染乃に付け入られてしまう恐れさえあるのだ。
けれど、蝶子には想像すら及ばないが、そこまで彼らを追い詰めるほどに状況は切迫していたのだろう。
恐らく彼らも成功するなどとは思っていなくて、ただ、たとえ殺されたとしても自分たちの苦しい状況を知らしめたかったに違いない。
「首謀者四人は捕えて、牢に入れている」
「殺すのですか?」
「さて、どうしようか」
どっちつかずの兄の答に、蝶子の胸がざわついた。他の村人たちを巻き込み、もしかしたらそそのかしたかも知れない浅はかで愚かな者たち。
けれど、人殺しや盗人と違い、彼らを処刑することは違うと思う気持ちが心にあるのだ。
「蝶、俺は穂積を平和な国にしたいのだ」
「はい」
「領土を広げようとは思わない。武力を誇りたいとも願わない。ただ、民たちが何の憂いもなく暮らせる国にしたいだけなのだ」
その考えは、領土を広げようと戦を繰り広げている時代にあって異端なのかも知れない。けれども蝶子は、そう堂々と宣言する兄が眩しく思えた。
「父上も同じお考えだ。なれど、家臣たちが皆同じ考えなわけではない。俺は穂積の田畑の為に、泉の水さえ引ければそれで良いと思っている。
染乃国が独占しなければ、奴らが染色に使おうとも構わない。なれど中には、染乃の国力を抑える為に治水権を奪い取ってしまえと声高に訴える者たちもいるのだ」
内部の意見を統制するのが難しく、だから戦が長引いているのだと言って兄は溜息をついた。
「けれども、もうそのようなことを申している場合ではない。民たちはいよいよ我慢の限界であり、彼らを侮っているといつか足元をすくわれるやも知れぬ」
そう言うと、兄は真剣な表情で蝶子を見つめた。
「俺はこの穂積国の次期当主となる。この国の為に、俺はどんな犠牲も厭わない。国を守る為ならば、蝶子、おまえのことも紅野の姫として容赦なく利用するぞ」
兄上は既にお覚悟ができている。蝶子はそう思った。それならば、蝶子も紅野の姫としての覚悟をせねばならぬのだろう。
自分がどのように利用されるかは分からぬが、兄が決断することならば間違いはないと思った。
「承知しております」
そうきっぱりと言い放ち、真っ直ぐに兄の目を見つめ返す。ふたりの間を、微かな風が吹き抜けてゆく。
「さすがは我が妹。誇りに思うぞ」
妹の言葉に、兄は口元を緩めた。蝶子は忠孝がいつもの優しい顔になったことに安堵して、先程の質問の答えを再び求める。
「兄上」
「何だ?」
「反乱を起こした首謀者たちは、いかがなさるおつもりですか?」
蝶子には、どうしてもそれが気がかりだった。
「暫くは牢に入れておく。処刑はしたくないが、もちろんすぐに釈放はできぬ。今回のことが伝わって、他の地でも同じことが起これば致命的だ。
そうだな、一刻も早く戦を終わらせ、平和がおとずれたら奴ら四人も釈放してやろう」
その言葉に蝶子は安堵するとともに、兄の偉大さを改めて痛感したのだった。
* * * * * * * * *
「奥方様、お気づきになられたか?」
起きていた筈なのに、気づけば蝶子は横になっていた。色黒の大柄な男が体を折るようにして、心配そうに覗き込んでいる。
「兄上は……?」
掠れた声でそう口にした瞬間、夢を見ていたのだと気づいた。蝶子の兄はこの世にいない。そして蝶子が今いるのは、兄の命を奪った者が住まう国なのだ。
懐かしい夢を見たと思いながら、蝶子はふるふると頭を振ると体を起こした。
「姫さ、いや奥方様、まだ起き上がってはならぬ。じき、桔梗と伊織も参る故」
「わたくしはもう大丈夫です。暑さで少し眩暈をおこしただけですので、そのように大袈裟にしないで頂戴」
恐らく倒れて僅かしか経っていないのだろうが、夢を見るくらいに熟睡していたようだ。
先程までの不快な倦怠感はなくなっていたが、起き上がった蝶子はすぐさま大柄の男に布団へ押し戻されてしまった。
見やるとその手には先程まで蝶子が使っていた団扇があり、夢の中で吹いていた風は彼によってもたらされたものだと気がついた。
「失礼ですが、そなたは?」
居心地の悪さを感じながら、蝶子は横になったまま男に短く尋ねた。
「蒼山家家臣、河合虎之新にござる。以後、お見知りおきを」
そう言って腰を折った男の名を、蝶子は乾いた口の中で小さく反芻する。その名は、確かに聞き覚えがあった。
「お屋形様の側近で、従兄にあたる方でございますね」
記憶の糸を手繰り寄せながら蝶子が尋ねると、男は驚いたように目を見開いた。
「よくご存知で」
「桔梗より聞き及んでおります」
「なれど、お会いしたこともないのに名前を聞いてよく従兄だとすぐに思い出された」
「お屋形様を支えておられる家臣の名を知っておくのは当然のこと。それに、婚儀にも出席されていたでしょう。お顔は拝見できませんでしたが、会話は聞こえておりましたので」
婚儀の前に桔梗が教えてくれた重臣たちの名前。さすがに宴の間は顔を伏せていたので家臣たちの姿を確認することはできなかったが、当然会話は聞こえてくる。
意識して耳を傾けていると、誰と誰が反目していて友好的なのかがうっすらと透けて見えた。
桔梗が与えてくれた客観的な情報に加え、蝶子は己が耳にした主観的な印象を加味していたのだった。
男はにやりと笑うと、団扇でゆっくり風を送ってくれた。もともと垂れ目気味で、だからこそ大柄な体躯の割に威圧感を与えないのだが、笑うと目じりが余計に下がった。
「伊織の母君である先代の奥方様が、俺の父の妹になります。二歳下の伊織とは幼い頃から兄弟のように育ってきました」
「そうですか」
当主を呼び捨てにするのは、余程ふたりの間が親しいのだろう。河合家は代々蒼山家の家老職を務めており、その嫡男である虎之新は名実ともに夫の右腕なのだろうと蝶子は思った。
「伊織の嫁さんが姫、いや奥方様で良かった」
「好きに呼んでいただいて結構ですよ」
どうやら彼は、堅苦しいのが苦手なようだ。先程から何度も奥方と呼び直している虎之新に蝶子がそう告げると、彼は少し照れたように笑った。
何だか懐かしい雰囲気を感じるなと思いながら、悪い人ではなさそうだと蝶子は感じていた。