はじめて聡が果恵を意識したのは、中学三年の若葉の頃だった。
果恵とは三年で同じクラスになるまでは、一切の関わりは無かった。さほど生徒数の多い学校ではないので顔は知っていたが、互いの教室は離れていたし委員会などでも一緒になったことはない。
最終学年になってはじめて彼女とクラスメイトになったものの、それを嬉しいとか嫌だとか思える程の情報を、聡は一切持ち合わせていなかった。
聡の両親はスパルタではないが、今思えば教育熱心ではあったのだろう。母親が教員免許を持っていることもあり、小学生の頃から宿題の他に母が作成した問題を解かされていた。
テストで百点をとると先生や両親から褒められるのが嬉しく、級友から羨望の眼差しを受けるのも心地良かった。もともと負けず嫌いの性格だったこともあり、一度築いたポジションを他人に譲る気はない。
誰に強要されるでもなく、聡は己のプライドと自己満足の為に予習と復習を繰り返すことがいつしか日課となっていた。
クラスが変わってはじめての定期テストは、ライバルを見極める絶好の機会だ。三年生に進級して新しいクラスに馴染んだ頃に行われた中間テストでも、聡は五教科全てで安定した成績を残した。
けれども教科によっては他の生徒との点差は殆どなかったりするので、油断はできないと気持ちを引き締め直す。聡が苦手とする英語は特に気が抜けない。
返却された解答用紙を眺めながら間違った箇所を確認している女子生徒を、聡はこっそりと観察していた。
中学最後の一年は瞬く間に過ぎてゆく。つい先日進級したばかりだと思っているとすぐに夏休みに入り、あっという間に二学期を迎える。
夏休みの間、冷房の効いた図書館に通い受験勉強を続けていた聡は、夏休み明けに行われた実力テストでどんな結果が出るか非常に楽しみにしていた。
次々に返される答案用紙は満足のゆくもので、相変わらずクラスでトップの地位をキープしていた。
一番苦手な英語の結果は、五教科の中で最後に発表となった。聡たちの学校では上位五人の点数を発表し、以下は出席番号順に返却してゆく。
一番先に名前を呼ばれるのは、苗字があ行の生徒ではなく最も良い点数を修めた者なのだ。
「じゃあ、お待ちかねの実力テストを返すぞ。トップは佐々木」
自分の名前が呼ばれることを半ば当然のことのように思っていた聡は、教壇に立つ英語教師を一瞬呆けたように眺めた。
やがて名を呼ばれた張本人である果恵に目をやると、彼女も驚いたような表情を見せている。やがて弾かれたように立ち上がり、クラスメイトからの視線を少し恥ずかしそうにかわしながら解答用紙を受け取っていた。
結局、聡は五点差で二番だった。悔しいな。夏休みは苦手科目克服に力を入れた筈なのに、悔しい。
ちらりと廊下側の果恵の席を見やる。すると、こちらを見ていた彼女の視線とぶつかった。努力が実った満足感か聡を破った嬉しさか、隠し切れていない喜びがそこにはあった。
目が合うとは思っていなかったのだろう。一瞬びくりと驚いて、やがて平然を装い何事もなかったかのようにそっと視線を逸らした。
けれども、尚も聡がライバルの様子を観察していると、満点に近い点数が余程嬉しかったのか、彼女はもう一度解答用紙に目を落として小さく微笑んだ。
―― 可愛いな。
もちろん負けたのは悔しい。悔しい筈なのに、聡はそう感じてしまったのだった。
変わらない毎日の中で、聡たちは粛々と‘最後’に向かっていた。最後の体育祭を盛り上げ、最後の文化祭を成功させ、最後の遠足を楽しんだ。
夏休み明けの実力テスト以来、聡は果恵を観察することが多くなった。彼女は典型的な文系で、数学と理科を大の苦手にしているらしい。
けれども夏休みはかなり勉強したようで、苦手科目と得意科目の点差がかなり縮まったようだ。文系教科はもともとトップクラスだったが、特に英語が好きなのか更に成績が伸びている。
努力が点数に現れた時の喜びは分かりすぎるくらいに分かっているので、彼女があの日見せた嬉しそうな表情には共感した。
それどころか可愛いとさえ思ってしまったのだが、だからと言って自分が二番の位置に甘んじるつもりはない。聡は心の中で密かに果恵をライバル認定し、苦手な英語の克服に多くの時間を費やした。
ふたりの英語の成績はいつも僅差で、順位は常に入れ替わっていた。果恵が一位になった時の満足気な表情も、聡が一位をとり返した時の悔しそうな顔も、どちらも可愛かった。
いつしか聡は果恵を視線で追うのが習慣となり、彼の中で確実に彼女は特別な存在となっていた。そして同時に、果恵からの視線も感じていた。
負けず嫌いな彼女の視線に含まれているのは、負けたくないという気持ちと、そして聡に対する微かな憧憬の念だ。そこに恋心は見えない。
けれども、聡の自惚れでなければ尊敬の色は感じられ、それが彼にとっては何よりの喜びであった。
彼女の中で特別な存在でありたい。少年だった聡にとっては、努力をする彼女以上の努力をして上位の成績を修めることこそが、果恵の特別でいられる唯一の方法だったのだ。
父の転勤が決まったのは、冬の足音が聞こえてくる頃だった。
海が好きな聡は、海を臨む汐見高校を志望していた。もちろん理由はそれだけでなく、公立校ではあるものの進路に応じた細やかな補習授業や講習が用意されていることが魅力だった。
有数の進学校なので合格するのは容易ではないが、それなりの準備は積んできている。そして、最近の成績を見ていると果恵も汐見を狙っているのではないかと聡は密かに期待していた。
同じ高校に入学し、また一緒に学びながら切磋琢磨することができるかもしれない。自分でも呆れるくらいに単純だが、彼女の存在が聡の受験勉強の効率を上げていることは明白だった。
けれども、そんな甘い予感は非情な現実に打ち砕かれる。両親の配慮で何とかクラスメイトたちと一緒に卒業できることになったが、春からはひとり遠く離れた都会の高校に通わなければならないのだ。
所詮、親に保護されている身分である中学生なんて無力だ。どうしようもないことに対して反抗し親を困らせる程、聡は子供ではない。
けれども、別れという現実を認めたくないが為に引越すことをクラスメイトに告げられないくらいには、彼もまだ充分子供だった。
―― この一年、ずっと君のことを見つめていたよ。
まともに口もきいたことのない相手に、二度と会うことのない相手に、気持ちなんて告げられる筈がない。思春期の少年が抱いた淡い気持ちは、誰にも知られることなくそっと胸の内にしまわれた。
* * * * * * * * *
金曜日も、朝から雨だった。
「どうした、やけに今日は気合入っているな」
聡から処理済みの書類を受け取った同僚が、少し驚いたように尋ねてきた。全社から回ってきた申請を聡がチェックし、各担当へ振り分けてゆく。
今日は意地でも定時で上がりたい聡がもくもくと仕事をこなしていると、渡された書類を片手に同僚がにやりと笑った。
「今日はデートか?」
「うるさい。おまえも仕事しろよ」
「お、図星か」
肯定も否定もしない聡に対し質問攻めにする構えを見せていた同僚だったが、絶妙のタイミングで内線電話が鳴り、渋々デスクの上の受話器をとった。
聡がちらりと見やると彼もこちらを見ていて、不敵な笑みを浮かべた顔には今度追求するからなという文字が見えた気がした。
婚約を破棄した当初は、遠慮のない同僚たちもさすがに聡に対して腫れ物に触るようで、彼に恋愛話をふることはタブーのようになっていた。別にわざわざ果恵と付き合い出したことは言っていない。
それなのにデートなのかとからかわれたのは、それだけ時間が経ったのか、それとも単に聡が分かりやすいだけなのか。恐らく両方だろうなと思いながら、聡は手元の書類に視線を落とした。
聡がほぼ定時にタイムカードを押して外に出ると、相変わらず細い雨が降り続いていた。果恵は上がれただろうか。そう思いながら、待ち合わせ場所に向かうべく聡は足早に駅へと向かった。
ぶるぶるとポケットの中が振動したのは、ホームで電車を待っている時だった。スマートフォンを確認すると、期待通り果恵からのメールだ。けれども、その内容は期待を大きく裏切っていた。
夜のアルバイトが当日欠勤したので、チェックインの数が落ち着くまで帰れそうにない。待ち合わせに来れないことを知らせる文面には、最初と最後でごめんねを何度も繰り返していた。
けれどもそこには、待っていて欲しいという言葉はなかった。
仕事の分担が明確な聡の職場では、もし仮に休んだとしても溜まった分の仕事を翌日自分で処理することになる。
しかし果恵たちサービス業では例え誰かが急に欠勤したとしても、当然のことながらその場にいるスタッフでいつもと同じ業務をこなさなければならないのだ。
だから果恵が帰れないのは仕方のないことで、何時に上がれるか分からない彼女が待っていて欲しいと言えないことも理解できた。
だから、今日の待ち合せはキャンセルしようと自分が言えば良い。明日も会えるんだから気にしないで良いよと、聡の方から言ってあげなければならないのだ。
がらんとした部屋に帰るのが嫌で、そのまま電車に乗った聡は待ち合わせ場所である駅のひとつ手前で降りた。映画でも観ようか。
そう思ったのは、車内で隣に立っていた学生が熱心に映画情報誌を読んでいたのが目に入ったからだ。
駅前のショッピングモールの地下にあるのは、聡が学生の頃によく訪れたミニシアターだ。意外と此処に映画館があるのは知られておらず、週末の賑わいが嘘のように地下はひっそりと静かだった。何を上映しているかも知らずにやって来たが、フランスの海辺の町を舞台にした話らしい。タイミングが良いことに十五分後に上映開始らしく、聡は中年の女性がひとりで座っている窓口へ向かうとチケットを購入した。
中に入ると観客はまばらで、ひとりで来ている人が多い。席に着くと、聡はポケットからスマートフォンを取り出した。果恵には、明日会えるのだから今日はキャンセルしようとメールを送っているが、仕事でバタバタしているのかその返事は届いていなかった。
やがて上映時間になり照明が落とされる。予告編が何本か流れたあと、いよいよ映画が始まった。フランスの少し寂れた海辺の町に暮らす家族の物語は物悲しくも温かく、文学的な匂いがする。洋風の家が並ぶ景色は明らかに異国のものだけれど、どこか懐かしさを感じさせる空気に聡は自分が生まれ育った町の風景を重ねていた。
映画の余韻に浸りながら、聡はひとり家路についた。
霧雨がけぶる中をぼんやりと歩いていた聡は、鼻孔を掠める甘い匂いに自分の住むマンションに到着したことを知る。白い花の匂いは雨に溶け、濃密な甘さが湿った空気と混ざり合っていた。
歩調を速めてアプローチを抜け、ポケットの中の鍵を探りながらエントランスへと向かう。ふとアプローチの脇に人の気配を感じ、何気なく視線をやった。
「果恵……?」
そこには、傘を手にした果恵が立っていた。