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ぎ出すカエル



 番外編  カエルと帰る 4


 電車に乗ってからの記憶は殆どない。気づけば聡は、見慣れた建物の前に立っていた。
 重い足を引きずるようにエントランスまでのアプローチを歩いていると、甘い匂いがした。綺麗に手入れされた植栽を見やると、白い花が咲いている。無性に不快な気持ちがして、聡は足早に通り過ぎた。


 聡のかつての婚約者は、同じ会社の二年下の後輩だった。と言っても部署が異なり、業務上の接点もなかったので話したことはなかった。
 はじめて彼女と会話したのは、聡の部署と彼女の部署での合同飲み会の席だ。同じフロアで働いている者同士、もっと交流しましょう。 彼女がいない男子社員の下心丸出しの企画だったのだが、若手社員が中心に集まった飲み会はそれなりに盛り上がった。 聡は自ら取り仕切る程の社交性は持ち合わせていないものの、別に同僚たちとの飲み会は苦ではない。むしろ、酒に強い彼は当然飲むことが好きなので、誘われれば基本的に参加していた。
 たまたま近くの席に座っていた彼女は、聞き上手だった。初対面の人間と話すのがあまり得意でない聡の話も熱心に耳を傾けてくれて、話しやすいなと思ったのが第一印象だ。 部署が違えど同じフロアで働いているので顔を合わせる機会はそれなりにあり、会えば挨拶するようになった。 やがて立ち話をするようになり、食事に行くようになり、告白して付き合い始めた時にはずっと大切にしようと心に誓っていた。

 二年付き合ってプロポーズしたのは、自然の流れだったと思う。
 特にきっかけがあったわけではないが、ずっと一緒にいるつもりだったし、年齢的に結婚を考えてもおかしくはないだろう。特別な演出は恥ずかしくてできず、ただ聡は結婚して欲しいとストレートに伝えた。 そしてその時の彼女は確かに、聡のプロポーズに嬉しそうに頷いてくれたのだ。
 何かがおかしい。そう感じたのはいつ頃だっただろうか。両親に挨拶を済ませ、友人に報告し、周囲から祝福の言葉を受けた時はふたりとも幸せだった。 式場を決め、具体的な話を決めてゆく過程でも楽しそうに準備を進めていたように思う。 聡は転勤の可能性が低い為、賃貸よりも買ってしまった方が将来的に得だろうとふたりで話し合い、新居のマンションを購入することを決断した。 不動産屋を回っている時も、インテリアをどうするかなどと大層はしゃいでいたものだ。
 しかし、気づけば彼女は思い悩むような表情を見せるようになっていた。世に言うマリッジブルーだと、最初はそう思っていた。 けれども、日に日に翳る表情に、聡の不安は増長する。そしてついに、彼の恐れが現実になった。

「聡くんは悪くない。全部わたしが悪いの」
 結局彼女は、最後まで別れの理由を説明しなかった。悪いところがあれば直すから。彼が何度そう言っても、聡は悪くないの一点張りだ。 話し合ってみても、時間をおいてみても、婚約を破棄して欲しいという彼女の希望は変わらなかった。 最初は彼女の両親も娘のわがままに激怒して説得を試みていたようだが、ついに彼の実家を訪れ、聡と両親に頭を下げた。 畳に額をつけんばかりにして謝罪の言葉を繰り返す彼らに対し、聡はもはや悲しいとか悔しいとかの感情はなく、ただぼんやりとその様子を眺めていた。
 やがて彼女は一身上の都合で職場を去り、婚約を破棄されたというレッテルを貼られた聡だけが残された。 彼女の同僚が噂話をしている場に居合わせ、彼女が花嫁修業に通い始めた料理教室の講師と付き合っていることを知ったのはほんの偶然だ。
 ―― 自分ではダメだったのか。
 既にあらゆる感情が麻痺していた聡だったが、さすがにその事実は胸に鈍く突き刺さった。



* * *   * * *   * * *



「筒井。この前頼んだ資料なんだが、提出期日が早まった。今日中にできるか?」
 ミーティングに参加していた上司は戻って来るなり、聡にそう声をかけてきた。
「ちょうど今作成しているところです。午後には提出できると思います」
「悪いな、助かるよ」
 ねぎらうように聡の肩をぽんと二度叩くと、ほっとしたように上司は自分の席に戻って行った。
 この部署を統括する部長は思いつきで発言するようなところがあり、期日を平気で前倒してくることがこれまでにも何度かあった。 聡の直属の上司である課長はいつも翻弄されていて、最近の聡はできるだけ余裕を持って仕事を進めるように心がけている。早めに仕上げておいて良かった。 そっと嘆息しながら、聡は再びパソコンのモニターに目を向けた。

 先日、先輩社員がひとり退社した為、聡の職場では従来よりも少ない人数で業務をこなしていた。 最近のニュースでは景気が良くなりつつあると報じられているが、実際には企業が人件費を削る傾向はまだまだ続いている。 聡の職場でも新しい人員の補充はせず、来春に新入社員が配属されるまでは今の体制でやってゆくらしい。
(今日も残業だな……)
 退職した先輩社員が抱えていた仕事は、聡ともうひとりの同僚とに割り振られた。 もともと興味のある分野だったのでやりがいはあるが、これまで抱えていた業務が少なかったわけではないので、プラスアルファで仕事が増えるのは正直きつい。 それでも今の聡には、時間に追われるこの状況がありがたかった。少なくとも仕事に追われている間は、余計なことを考えなくてすむのだ。

「課長、例の書類が完成しましたので確認願います」
「早いな。いつもの場所にあるのか?」
「はい。共有フォルダに保存しています」
 完成したばかりのデータを上司が開いたのを確認すると、聡は同僚に声をかけて社員食堂に向かった。きりが悪かったので先に仕上げてしまおうと思い、昼休みを返上して業務にあたっていたのだ。 さすがに腹が減ったので遅めの昼食をとり、戻って来る頃には上司も全てに目を通し終わっているだろう。修正点を指摘されたとしても、夕方の提出期限には余裕で間に合う筈だ。

 一時を過ぎた社員食堂に人影はまばらだ。人気の定食は既に売り切れで、販売している食券は限られている。 窓際の席でうどんとおにぎりを食べ終えた聡は、窓の外に広がる灰色の景色をぼんやりと眺めていた。今日は朝から雨で、今もまだ雨脚が弱まることはない。 小さく溜息を吐きながら、何気なくポケットを探りスマートフォンを確認した。
 画面には、果恵からの新着メールが表示されていた。ロックを解除してメールを開く。そこには、土曜日も雨らしいよという他愛もない文章と共に、泣き顔と傘の絵文字が踊っていた。
 あの日、果恵に会おうと思って途中下車したことは、彼女には伝えていない。言えば、何故声をかけてくれなかったのと軽く流されそうな気もするが、見られていたのかと気まずい空気になるのが怖かった。 もともとふたりともあまり頻繁にメールをするタイプではないので、聡は現実から目を逸らすように今日まで連絡をとらずにいたのだ。

「どうした? 深刻そうな顔して」
 不意に声をかけられ、びくりと肩が跳ねる。顔を上げると、目の前に上司が立っていた。彼は聡に向かって缶コーヒーを差し出すと、そのまま向かいの席に腰かけた。
「ありがとうございます」
「いや、こっちこそありがとう。あれで部長に提出する」
 どうやら先程完成させた資料に修正点はなかったようだ。ほっと息を吐くと、いただきますと呟いて聡は缶コーヒーのプルトップを開けた。
「筒井」
 僅かな沈黙のあと、おもむろに上司が口を開いた。聡がはいと言って顔を上げると、言葉を探しあぐねているのか再び彼は口をつぐんでしまった。
「なあ、筒井」
 再び名前を呼ばれる。聡は黙って、次の言葉を待った。
「これからも、頼りにしてるぞ」
 無口な上司はそれだけ言うと立ち上がった。そして、予想外の言葉に呆気にとられたままの聡をおいてさっさと事務所に戻ってしまった。
 五年前に異動して来た上司は、口数は少ないものの部下をよく見ている人だった。聡が婚約破棄で腐っていた時も、言葉にしないながらも気にかけてくれているのは感じていた。 今思えば情けない話だが、あの頃は何に対しても投げやりで、仕事も与えられたことをただこなすだけだった。そんな聡に、新事務所の立ち上げに関わる一切を任せたのは彼だった。 子供時代を過ごした町に近い。ただそれだけの理由で聡を指名したのは、いつまでもふがいない聡へ上司からの無言の叱責だったのだろう。

 結局、聡はそこで果恵と再会した。懸命に働く彼女の姿に刺激され、最初は任された仕事の重圧に及び腰だった聡も、最善を尽くそうと前向きな気持ちになった。 そしてその結果を、誰よりも喜んでくれたのが件の上司だったのだ。
 常に自信はないし胸に広がる憂いは晴れないけれど、とりあえず仕事は頑張ろう。コーヒーを飲み干すと、聡は胸の内でそう誓った。 それは自分を気にかけてくれている上司の為であり、いつも背筋を伸ばして努力し続けている恋人と対等である為だった。
 金曜の夜に会って、ふたりで土曜日の予定を決めよう。少し考えて、聡はそう返信した。金曜の夜から翌日まで、ずっと一緒に過ごしたい。 そうすればこの漠とした不安も払拭されるような気がして、聡はようやく少しだけ気持ちが軽くなった。

 


2013/10/17 


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