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ぎ出すカエル



 27. たゆたうカエル


 恐らく寝室であろう真っ暗な部屋は、凛と冷えた静寂が広がっていた。
 そっとベッドに横たえられた果恵は、息をこらし暗闇の中の聡を見つめた。 暖房は入っておらず触れているシーツはひんやりと冷たい筈なのに、緊張のせいか自分の体温が上がり過ぎているせいか、果恵は一向に寒さを感じなかった。

「電気、つけて良い?」
「ダメ」
 この部屋に入った時に交わされた会話を、もう一度繰り返す。別にはじめてではないが、煌々とした明かりの下に肌を晒す勇気はない。 長い間恋人がいない状態で正直気を抜いていたところもあり、そのあたりの女心は察して欲しい。それよりも何よりも、この状態で既にいっぱいいっぱいだから、これ以上の緊張は耐えられそうもなかった。
「残念。じゃあ次回に持ち越しで」
 聡は笑いを含みながらそう言うと、果恵の返事を拒むように口づけた。啄ばむようなキスは、やがて深く長くなってゆく。熱い舌が果恵の口内に侵入し、いつの間にか聡の手が彼女の頬から肩を伝って胸まで下りていた。 スーツのジャケットの下に着ていたニットの上からゆっくりと聡の手が這う。触れられた所から熱をもっていって、果恵は唇が離れた瞬間に大きく息を吸った。

 口づけを交わす音と少し乱れた呼吸の音だけが響いていた暗がりの中で、ふと笑い声が洩れた。
「どうしたの?」
 何か自分は変だっただろうか。不安にかられながら彼女が小さく尋ねると、闇の中で視線を合わせるように聡が果恵の顔を覗き込んできた。
「さっき自分の吐いた言葉を、あっさり裏切っているなと思って」
「どういう意味?」
 少し情けないような困った表情で笑う聡に、果恵は問い返した。彼は黙って果恵の頬に触れると、もう一度軽く口づけた。
「この家に入る前、佐々木さんの信頼を裏切りたくないと言ったのに、さっさと押し倒しているこの状況は説得力がなさすぎるなと思ってさ」

 明かりが消されカーテンも閉じられた部屋の中で、果恵はベッドに横たわっている。覆いかぶさるような体勢の聡とは息が触れ合う程の近さで、現に先程から何度も唇が触れている。
 夜目に慣れてきて、目の前の聡がまるで思春期の少年のように照れているのが分かった。それが何だか果恵には可笑しかった。
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
 先程までの緊張が、少しだけ解けてくる。
「別に筒井くんへの信頼は裏切られてないよ。今こうしているのはわたしも望んだことであって、わたしは中学生の頃から変わらず、これからもずっと筒井くんを信頼し続けるんだと思う」
 果恵がそう宣言した瞬間、聡は泣きそうな表情を見せた。そしてそれを隠すかのように、果恵の胸に顔を埋める。 先程からずっと、壊れているのではないかと思うくらい心臓が早鐘を打っているのだが、これでは聡にばれてしまうではないか。果恵はそう思いながら、そっと聡の髪を指で梳いた。


「果恵が欲しい」

 やがて、聡が低く呟いた。ゆっくりと体を起こした聡と、視線が交錯する。中学時代から彼のトレードマークである眼鏡は、この部屋に入った時にいつの間にか外されていた。 細いフレームの眼鏡は知的で穏やかな聡の雰囲気によく似合っていたが、眼鏡をとるとぞくりとするような熱を孕んでいる。
 聡はシャツのボタンを外すと、手早く身につけているものを脱ぎ去った。そして果恵の両腕を引いてそっと抱き起こすと、ニットを脱がせ、下着も順番に取り去ってゆく。
「寒くない?」
「ううん」
 やがてふたり一糸纏わぬ姿になると、再びシーツの上に果恵を横たえた。寒さは全く感じない。むしろ、体の内には熱がこもる一方だった。

 先程、この状況は自分が望んだことだと果恵は言った。驚くべきことに、それは事実なのだ。
 中学時代を知っている相手とはいえ、想いが通じ合ってすぐに体を重ねるなど、今までの果恵には考えられないことだった。 聡の気持ちを疑うわけではないが、流されているだけかも知れない。軽い女だと思われるかも知れない。冷静になればマイナスの要素ばかりが浮かんでくる筈なのに、今の果恵にはそんなことはどうでも良かった。 聡が求めてくれて、自分もそれに応えたい。ただ、それだけだった。
 再び、甘いキスが繰り返される。今度は唇からうなじ、鎖骨から乳房へと下りてきた。同時に体を這う聡の掌が熱くて、果恵は小さく身をよじりながら唇を噛んだ。
「果恵、果恵……」
 聡がうわごとのように、熱のこもった声で果恵の名前を呼ぶ。その度に、果恵は体の芯がとろりと熱く溶けてくるのを感じた。 名前を呼びながらも口づけは続いていて、胸のふくらみを掌で覆いながら唇は脇腹からへそを辿り、やがて熱く潤っているその場所へと到達する。
「やっ……」
 ずっと押さえていた声が洩れる。ただでさえ恥ずかしい状況なのに、自分の発した声により一層、果恵の羞恥心が煽られる。 そして困ったことに、恥ずかしいという気持ちと体の奥の熱は連動しているようで、先程までよりも更に体の奥が熱く疼いた。

 体を這いまわる唇と掌に、どれだけ翻弄されていただろうか。果恵の体が切ない悲鳴をあげ始めた頃、聡の唇がようやく果恵の唇に戻って来た。
「いい?」
 欲望に満ちた瞳に見つめられ、低く掠れた声で尋ねられた。
「うん」
 真っ直ぐに見つめ返しながら、果恵は小さく頷いた。きっと自分も彼と同じ目をしているのだろう。
 彼が欲しい。意外と酒に強くて、意外と意地悪で、意外と情熱的で。中学時代、殆ど話したことのないクラスメイトは果恵の想像通り真面目で誠実で、けれども想像と違うところもたくさんあった。 もっと彼のことが知りたい。強さも弱さも、聡のすべてを知りたいと果恵は思った。
 やがて準備を終えた聡が、ゆっくりと果恵の中に入って来る。
「あ……つ……」
 思わず顔をしかめた果恵に、大丈夫かと目の前にある瞳が心配そうに尋ねてくる。いつも通りの優しさに果恵はほっとして、強張らせていた体を少しだけ緩めた。
「大丈夫。でも、熱い」
「俺も」

 自分が熱いのか、相手が熱いのか。きっとふたりとも熱いのだろう。
 まるで熱を分け合うように、聡が果恵の奥深くへと入り込んで来る。荒れ狂う海に投げ出されたカエルは、押し寄せる快楽の波に呼吸の仕方すら忘れてしまったようだ。 声にならない声が洩れて、果恵は縋るように手を伸ばした。その手を掴むと、聡は自分の首へ巻きつけさせた。そして、深く口づける。
「好き、好き……」
 知らぬ間に、涙が零れていた。ぽろぽろと涙を流しながら、果恵はまるではじめて言葉を覚えた赤子のように、聡にきつく抱きつきながらただ好きだと繰り返した。 やがて、果恵を揺らすリズムが激しくなる。もはや果恵には、揺らされているのか自分が揺れているのかさえ分からなかった。
「果恵……!」
 聡が短く名前を呼んだ瞬間、果恵はぎゅっと目を閉じた。瞼の裏に、白く閃光が走ったような気がした。




 凪いだ海に浮かんでいるような心地良いまどろみから醒めると、果恵は温もりに包まれていた。
 ゆるゆると瞼を開くと、目の前には熟睡している想い人の寝顔があった。温もりの正体は、果恵を抱きしめている聡の体温だ。 一瞬茫然とした果恵は次の瞬間一気に覚醒し、幸せな夢だと思っていたことが現実だと知って彼の腕の中で思い切り狼狽した。
 体を重ねたあと、抱き合ったままふたり色んな話をした。体を溶かしそうな程の熱は心地良い温もりに変わり、やがて安らぎに満ちた睡魔がおとずれる。 明日、いや恐らく日付は超えているだろうから今日になるが、果恵は幸いにも公休だ。けれども平日なので聡は仕事があり、出勤する聡と一緒に果恵も帰ることにしてふたり体温を分け合いながら眠りについたのだった。
 どれくらい眠っていたのだろうか。動くと聡が目を覚ましそうなので時計は確認できないが、アラームが鳴る時刻まではもう少しあるだろう。果恵は不思議な気持ちで、すやすやと寝息をたてている聡の寝顔を見つめた。 数時間前までは、彼の腕の中で眠る未来など想像すらできなかったのだ。恐らく果恵が告げなければ終わっていた恋に、彼女は勇気を出して良かったとしみじみ思った。

 不意に、聡が身じろぎをする。目覚めたかと果恵は一瞬身構えたが、どうやら未だ夢の中にいるようで、果恵を抱き直すと再び穏やかな寝息をたて始めた。 果恵の温もりを求めているのか、ベッドから落ちないよう無意識のうちに守ってくれているのか。 眠りにつく前から聡の体は果恵に密着していた。確かにベッドは狭い。ただ、その事実が心の底から果恵を安堵させた。 先程までは余裕がなくて気づかなかったが、果恵と聡が眠っているベッドは、明らかにシングルベッドだったのだ。
 じっと聡の寝顔を見つめていた果恵は、小さなあくびを洩らすとやがてそっと目を閉じた。 朝起きた時にどんな風に彼と視線を合わせどう言葉を交わせば良いか、想像しただけで何とも気恥ずかしい。けれども今は、そんなことよりも、ただ幸福感に包まれて眠りたいと果恵は思った。

 


2013/09/03 


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