冬の夜は、思わずたじろいでしまうくらいに静かだ。
このマンションの防音が優れているのか、都心から少し離れた郊外に位置しているからか。果恵が息をのむ音だけが、広いリビングに小さく響いた。
この人は一体何を言っているのだろう。果恵はたった今彼が告げた言葉の意味をはかりかねて、聡の顔をじっと見つめた。
「祝福してくれた人に破談になったことを伝えるのは申し訳ないし、何よりもみっともない。遠方に住んでいるというのもあって、あいつには言い出せないままずるずるここまできていたんだ」
結局そのツケが回ってきたのだけれどと呟きながら、聡が自虐的な笑みを浮かべる。けれども果恵は、先程から聡が語る話の内容に混乱するだけだった。
「破談……?」
「そう。式場も押さえてドレスも決めて、それなのに突然結婚できませんって言われた」
「まさか」
ありえないという思いで聞き返すと、残酷にも彼はあっさりと肯定した。淡々と話す姿が逆に痛々しくて、果恵は思わず襟のあたりをぎゅっと掴んだ。
「結婚後の為に料理を習いたいと言って通い始めた料理教室で、講師と運命の出会いを果たしたんだってさ。
結婚を白紙に戻してほしいと言って彼女は俺のもとを去り、既に契約を済ませていたこの家だけが俺のもとに残ったんだ」
果恵がこのリビングに足を踏み入れた時に感じた違和感の謎が、ようやく解けた気がした。
家族の団欒の場となるべき広々としたリビングに置かれていたのは、明らかに単身者用のシンプルな家具や家電だ。
壁際に置かれたテレビは果恵の部屋にあるものと恐らく同じインチ数だろうし、テーブルもふたり分の料理がのるとは思えないサイズだった。
今まで聡が使用していたと思われる最低限のものがあるだけで、広く余ったスペースが余計に異様な雰囲気を漂わせていたのだ。
「三月の決算期までは忙しいからそれが終わったら結婚するつもりだったけど、去年の秋にはもう、俺たちは破綻していたんだよ」
「筒井くん、もう良いよ」
感情を排除するように語る聡の姿が逆に彼の負った傷の深さを思い起こさせて、無意識のうちに果恵は立ち上がった。そして聡の前に立つと、先程の彼よりも強い力でその手を握る。
そんな果恵の行動に一瞬驚いたような表情を見せた聡が、やがて穏やかに微笑んだ。
「聞いて。まだ続きがあるから」
どうしてこの人を傷つけて、彼女は別の人を選んだのか。果恵はふるふると首を横に振った。
「そんな辛いこと、口にしなくて良いから。筒井くんが苦しむ必要はないんだから」
「佐々木さんに、聞いて欲しいんだ」
そう言うと、聡は果恵が握った手をぎゅっと握り返した。
「彼女は同じ会社の後輩で、職場にはまだ正式に結婚の報告をしていなかったけれど、近しい人たちには知らせていた。
結婚が破談になると彼女は一身上の都合で早々に退職し、残された俺は同情の目を向けられながら淡々と仕事をこなしていた」
浅く腰かけている聡の顔は立っている果恵よりも少し下にあり、俯いている為に普段は目にすることのできないつむじが見えていた。
「俺は、佐々木さんの思っているような立派な男じゃないよ」
やがて顔を上げた聡が、哀しそうな目で果恵を見上げた。
「周囲の気遣いが逆に辛くて、ずっと居心地の悪さを感じていた。だけど家を買ったばかりだから仕事を辞めるわけにもいかず、ただ与えられた仕事だけをこなしていた。
給料を貰っている以上手は抜かないけれど、必要以上にやる気を見せることもなかったんだ」
「でも、新支店のオープンに奔走していたじゃない? わたしには、筒井くんが淡々と仕事をこなしているだけには見えなかったよ」
幻滅したかと尋ねてきた聡に、果恵はきっぱりと否定した。
もちろん詳しい状況までは分からないが、トラブルに見舞われ急な出張となった時の少し疲れた表情も、何とかオープンまでこぎつけた時の充実感に満ちた表情も、果恵は知っているのだ。
それは、とても受け身な仕事をする人の顔には見えなかった。
「ホテル・ボヤージュのフロントに、佐々木さんが立っていたからだよ」
不意に、握られた手に力が込められる。冷えていた体に血が巡り、頬が一気に火照った。
「たまたま出張先の宿として予約したビジネスホテルに、中学の頃ずっと気になっていた女の子が働いていた。
当時負けず嫌いだったその子は大人になっても相変わらず頑張り屋さんで、その姿にずっと後ろ向きだった俺は勇気づけられたんだ」
そう言うと、聡は柔らかく微笑んだ。
「でも、わたし……」
予想もしていなかった言葉の羅列に、果恵は激しく混乱した。嬉しい言葉をたくさんもらったような気がするが、脳がパニックを起こしてなかなか内容を消化できない。
「やさぐれていた俺にとって、真っ直ぐに背筋を伸ばしてフロントに立つ佐々木さんは眩しかった。お客さんに辛い言葉をかけられても凛とした姿勢で、自分の仕事に誇りを持っていることが伝わってきた」
「買い被りすぎだよ。残業が続けばいつも仕事を辞めたくなるし、三十を過ぎて徐々に責任のある仕事を任せられたら逃げ出したくなる。
お客様からの理不尽なクレームに腹を立てて、嬉しい言葉を貰ってやる気を出して。沈んだり浮上したりを繰り返しながら、ただ生活の為に働いているだけだもの」
「そんなの、俺だって同じだよ。だけど、頑張っている佐々木さんを見ていたら、俺も負けていられないと思ったんだ」
やがて、果恵の手を握ったまま聡がゆっくりと立ち上がった。先程までは聡を見下ろしていたのに、今度は果恵が見上げることになる。
「仕事に前向きになれたのは、佐々木さんのおかげだよ。本当にありがとう」
そう言って、聡が頭を下げる。
「わたしは何もしていないもの。それに、お礼を言うのなら私の方だよ」
「それから、もう一度誰かを好きになろうと思えたのも佐々木さんのおかげだ」
「え?」
果恵の反論を聞かず、聡は被せるように言葉を繋いだ。先程までの穏やかな微笑みを消した真剣な聡の表情に、果恵は思わず息を止めた。
「好きだよ」
握った手から伝わる温もりに、ずっと甘い予感はあった。そうであれば良い。聡も自分のことを想ってくれていればと、怒涛の展開の中で果恵は切に祈っていた。
けれどもその一方で、都合の良い夢を見てはいけないと牽制する自分もいたのだ。
「……本当に?」
「本当だよ。再会して以来、会うたびに佐々木さんに惹かれていた」
「わたしも、わたしも筒井くんのことが好きでした」
果恵の二度目の告白が終わらないうちに、彼女はそっと聡に引き寄せられた。やがてその腕に力がこめられ、強く、強く抱きしめられる。
「ごめん。まさか佐々木さんが俺のことを想ってくれているとは思わなくて、結局全部佐々木さんに言わせてしまった。
もう一度誰かを好きになって傷つくのが怖くて、遠距離だからとか色々言い訳をして自分からは動けなかった。意気地がなくて、本当にごめん」
耳元で囁かれた謝罪の言葉は後悔に滲んでいて、果恵は聡の胸の中で懸命に首を振った。
「謝らないで。わたしだって、まさか筒井くんが同じ想いでいてくれたなんて考えてもみなかったもの」
やがて、果恵を抱きしめている聡の腕が少しだけ緩む。気恥ずかしさを感じながら果恵がそっと見上げると、ゆっくりと聡の顔が近づいてきた。
微かにまつげを震わせながら目を閉じると、少し乾いた唇が遠慮がちに果恵に触れた。唇から頬、そして瞼へと移動する。幸せすぎて眩暈がしそうだ。
一瞬触れるだけのキスを繰り返していた聡が、もう一度唇に口づける。今度は深く、激しく。
予想外の急展開に未だ戸惑っている果恵は、夢なら覚めないで欲しいと心の中で何度も強く願いながら、縋るように聡に抱きついた。
やがて酸素を取り込む為に唇を離した聡は、そのまま果恵の耳元に顔を寄せた。そっと耳たぶに口づけると、小さく囁いた。
「果恵、帰したくない」
少しだけ掠れた声でそう告げられた果恵は、体の芯が熱をもつのを感じた。あの春の夜、ふたりで食事をした帰りに聡がからかって言ったのと正反対の台詞だと、果恵は呆けた頭でぼんやり思った。
それは果恵が少女だった頃、友人たちとふざけて笑い合っていた無邪気な言葉遊びだ。
聡の声にはあの春の日と同じからかいの色が滲んでいたが、そっと見上げた瞳には、思わずたじろいでしまうくらいの熱情が潜んでいた。
「わたしも、帰りたくない……」
さすがに、聡の目を見て伝える勇気はなかった。相手の胸に顔を埋めながら果恵が小さく答えると、再び強く抱きしめられた。