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ぎ出すカエル



 19. 惑うカエル


 例え失恋を自覚したとしても、時間はいつもと変わりなく過ぎてゆく。翌日、遅番シフトの果恵は乗客のまばらな電車に揺られ、既に高く日が昇った中を出勤した。
「果恵さん、おはようございます。午前中に明後日の団体の件でエージェントからお電話ありました。コールバックお願いします」
 出勤後の引き継ぎを受けるや否や、早番の菜乃花から声をかけられる。電話番号を記載したメモを受け取りながら、果恵はラックから該当の手配書を抜き出した。
「あと、ゴールデンウィークの返室は終わってます」
「本当? さすがなっちゃん、ありがとう!」
 付け足すように処理済みの業務を報告してきた後輩は、褒めて褒めてと目を輝かせながら果恵を見つめてくる。それはしっぽを振る子犬のようで、吹き出しそうになりながら果恵はわざと大袈裟に反応した。 すると菜乃花は満足気な表情でえへへと笑う。果恵が今日やらなければと思っていたことを、先に出勤していた菜乃花が既に処理してくれていた。 些細なことだけれども後輩の成長が頼もしくて、少し得意気な彼女の様子が愛らしくて、果恵の沈んだ気持ちが徐々に浮上してくる。
 今日が出勤で良かった。そう思いながら受話器をとると、メモに書かれている番号をプッシュした。

 失恋で仕事が手につかない。なんて三十過ぎて言ったらみっともないだけだ。いつもより集中力を欠いている自覚はあるので、果恵はミスだけはしないようにと注意深く業務をこなす。 ふとした瞬間に脳裏を掠める雑念を追い払いたくて、かかってくる電話を手当たり次第に受けた。
「お電話ありがとうございます。ホテル・ボヤージュ佐々木でございます」
 新入社員が出るよりも早く、ワンコールで電話をとる。
「良かった、佐々木が出てくれて。ちょっと頼みがあるんだけど」
 電話の主は、ホテル・ボヤージュ北町に勤務している果恵の同期だった。先月末にオーバーブッキング分を受け入れてもらったので改めて礼を伝えると、困った時はお互い様だと軽く流された。 それよりも、今日は彼の方が頼みがあると言う。
「そっち歯ブラシの在庫に余裕あるか? 発注忘れていたらしく、うちは明後日の納品まで持たないんだ。悪いけど在庫分けてくれないか?」
 どうやら客室アメニティの歯ブラシの在庫が残り僅からしい。グループホテルは同じロゴの入った物を使用しているので、ホテル・ボヤージュで発注している歯ブラシを北町で使用することは問題ない。
「たぶん大丈夫だと思うけど、確認してすぐに折り返す」
「悪いな、頼む」
 電話を切ると、果恵は急いでハウスキーピングに内線をかけた。幸いにも先日納品されたばかりで在庫に余裕はあり、北町へ貸し出しても問題ないとのことだ。 マネージャーに報告して許可を貰うと、果恵はすぐに北町に連絡を入れた。
「助かるよ。今から取りに行く」
「じゃあ、到着したら連絡して。駐車場まで運ぶから」

 同期から連絡が入ったのは、それから三十分後だった。台車を押して備品庫に向かいダンボールを一箱載せると、果恵はそのまま駐車場に向かった。 中途採用のフロントスタッフが手伝おうかと声をかけてくれたが、大丈夫だと笑顔で断る。動いている方が、何も考えずに済むので好都合だった。
「忙しいのに、わざわざ悪いな」
 昼間の駐車場は空車だらけで、裏口に近いスペースに社用車を停めると制服姿の同期が降りてきた。シティホテルでは購買課があるらしいが、ホテル・ボヤージュでは発注もフロントスタッフの業務の一部だ。 ハウスキーピングと連携をとって棚卸をしたり発注をかけたりする仕事は、主に若手社員が任される。北町でも入社二年目の社員が担当しているらしいが、高稼働が続いて発注のタイミングを誤ったらしい。
「納品が間に合わないくらい稼働率が良いって羨ましい話だね。きっとルームコントローラーが優れているんだろうなあ」
「からかうなよ」
 北町のルームコントロールは、四月にアシスタントマネージャーに昇格した彼が主に行っている。 同期の気安さで果恵が軽口を叩くと、彼はむくれたように台車からダンボールを奪って助手席に放り込んだ。横顔が、少し痩せて見えた。
「やっぱり大変?」
「まあな」
 役職を与えられると、当然責任も増す。上を目指している彼にとっては単なる通過点かも知れないが、それでも慣れるまでは大変だろう。
「ひとりで抱え込んだら駄目だよ。下の子にも頼らないと」
 彼に言う必要はないだろうが、少し前の自分を振り返って果恵は忠告する。
「大丈夫、しっかりこき使っているから。それより、佐々木こそ無理していないか? 顔色悪いぞ」

 同期が心配そうに果恵の顔を覗き込む。昨晩は大して飲めない酒を調子に乗って何杯も飲んだので、朝起きたらひどい二日酔いだった。 うとうとしては目が覚めるということを繰り返し、あまり眠れなかったので顔色も悪い。化粧で何とか誤魔化せたと思っていたけれど、やはり誤魔化しきれていないらしい。
「昨日地元の友達と飲んでいて、ちょと飲みすぎちゃた」
「何だ、二日酔いかよ。もういい年なんだから、調子に乗るなよ」
「いい年は余計だよ!」
 そう抗議しながらパンチを繰り出す真似をすると、彼は大袈裟にのけぞった。
「まあ、お互い無理は禁物ということで」
「だね」
 それじゃあと言って、彼が車に乗り込む。
「納品されたらすぐ返しに来るから。マネージャーにもお礼言っといて」
「うちはまだ余裕あるから気にしないで」
「ありがとう。また近いうちに同期会しようぜ」
「良いね。しばらくやっていないもんね」
 また連絡すると告げるとエンジンをかけ、やがてゆっくりと走り出す。駐車場を出て交差点で曲がって見えなくなるまで、果恵はじっと眺めていた。

 しばらくぼんやりと突っ立っていた果恵は、ふと我に返り小さく溜息をついた。そんなに顔色が悪いかと、そっと自分の頬に手をやる。
「おはよう」
 その瞬間、背後から声をかけられた。思わずびくりと肩が跳ねる。振り返ると、アシスタントマネージャーの飯塚が私服姿で立っていた。今日はこれから夜勤なので、出勤して来たところのようだ。
「おはようございます」
「今の車、北町だよな? 何かあったのか?」
 空になった台車を押して事務所に戻りながら、果恵は不思議そうに尋ねてきた飯塚に事情を説明した。
「彼は佐々木と同期だっけ?」
「はい。わたしを含めて同期はもう三人しか残っていませんけど」
 外の明るさとは対照的に廊下は薄暗く、台車の音がごろごろと響く。
「頑張っているね、彼。新しい仕事に貪欲で、この間俺のところにもエージェントのことで問い合わせの電話があったよ」
「入社した時から向上心が強かったですから」
 何事にも臆せず向き合ってゆく姿は、同期として誇らしい気持ちと敵わないなという気持ちの両方だ。

「出世は実力だけじゃできないからね。タイミングを掴む力が彼にはあるんだろうな」
 静かな廊下に飯塚の穏やかな声が響く。言葉の意味をはかりかねて、果恵はそっと隣を見上げた。
「当然仕事ができないとステップアップのチャンスはない。だけど、仕事ができるからといっていつでもチャンスが与えられているわけではないんだよな」
「そうですね」
 飯塚の話を聞きながら、果恵は一年前に退職した先輩を思い浮かべた。彼は果恵よりも四歳年上で、頭の切れる人物だった。 事務処理能力は高く、接客もそつなくこなす。果恵にとってはお手本になる先輩のひとりだった。けれども不運なことに、上のポストに空きがなく、なかなか彼は昇格できなかったのだ。 マネージャーの小野も彼のことを高く評価しており社長にも昇格させるよう掛け合っていたらしいが、結局欠員が出ないままステップアップを望んだ彼は他のホテルへ転職してしまったのだ。 四月に北町のアシスタントマネージャーが退職して果恵の同期が昇格したが、彼がまだ続けていれば間違いなく彼が北町に異動になって昇格しただろう。要は、タイミングなのだ。
「腐らず時機を待って、与えられたチャンスを躊躇せずに掴むことが大事なんだろうな」
 まるでひとりごとのように飯塚が呟く。彼は退職した件の人物を可愛がっていたので、色々と思うところがあるのかも知れない。 もしかすると、小野が東京に異動したあとにマネージャー職を継ぐことになるので、自分自身に言い聞かせている可能性もある。
「じゃあ、あとで」
 そう言っていつもと同じ穏やかな笑みを果恵に向けると、飯塚は男子更衣室に向かって行った。果恵はそのまま台車を戻しに行く。飯塚もプレッシャーを感じているのだろうか。 果恵は男子更衣室の扉をちらりと見やりながら思った。経験豊富でいつも冷静な飯塚だが、そんな人でも迷いはあるのか。
 入社したての頃は、先輩たちは皆自信に溢れて仕事をこなしているように見えたが、いざ自分がその年齢になるとそんな余裕はない。他の人もそうなのだろうか。 皆迷ったり戸惑ったりしているのならば、少しだけ安心するなと果恵は思った。




 それから一週間、果恵は淡々と仕事をこなした。
 間もなく迎えるゴールデンウィークは満室だがその他の日の稼働はさして高くなく、団体の数も春休みほどは多くない。夏休みまではしばらく落ち着いた日々が続きそうだ。 もう少し忙しくても良いのに。時には深夜まで残業しなければならなかった三月は閑散期が待ち遠しかったくせに、いざ残業が減ると果恵は今の状況が苦痛だった。
 仕事をしていれば余計なことを考えなくて済む。 だから繁忙期に備えてより効率的に仕事ができるよう、菜乃花と団体予約の管理方法を見直してエクセルで管理表を作り直したり手配書の保管方法を変更したりと、果恵は積極的に動いていた。 きっと周りは彼女が張り切って仕事をしていると思っているだろう。けれども実際は、単に現実から目を逸らして嫌なことを忘れようとしているだけだった。

「お先に失礼します」
 四月も間もなく終わりを迎え、昼間の時間がどんどんと長くなる。一時間残業してから退社しても、空はまだほんのりと明るかった。
 駅に向かう人波に混ざった果恵の足どりは、早く帰れるというのに重かった。家に帰ってひとりになると余計なことを考えてしまう。だから少しでも長く職場にいたかったのだ。 職場でなくても誰かと一緒にいられればそれで良かったのだが、月末に予定していた由美と菜乃花との飲み会は都合が合わず延期になり、他の友人ともなかなか予定が合わない。 果恵はのろのろと鞄から定期を取り出して、改札をくぐった。
 これから梅雨が来て、夏を迎え、季節が過ぎればこの沈んだ気持ちも晴れるだろうか。果恵はぼんやりと思った。きっとすぐに忘れられるだろうと、まるで暗示をかけるように自答する。 だって自分が抱いていた感情は、ほんの微かな想いだ。憧れを抱いていた同級生から優しい言葉をかけられて、長年恋愛から遠ざかっていた果恵は錯覚してしまったのだ。
 そう自分に言い聞かせると、果恵は早足でホームへと向かった。毎日同じように自らを納得させているにも関わらず、一向に忘れる気配がないことには気づかないふりをして……。


「あら、あなた」
 雑踏の中で聞こえた声に、何気なく果恵は振り返った。
「あ……」
 声の主を認めた果恵は、思わず固まってしまう。やがて我に返ると、慌てて頭を下げた。
「いつもお世話になっております。先日はご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ございませんでした」
「こんなところでやめて頂戴。過ぎたことはもう良いのよ」
 仕事ができるキャリアウーマンの雰囲気を嫌というほど漂わせながら立っていたのは、シマザキフーズの人事部長である中谷だった。 シマザキフーズの本社ビルはホテル・ボヤージュと同じ並びに建っているので、その社員である中谷と駅でばったり会っても不思議はない。 けれどもこれまで偶然顔を合わせたことはなく、予想していなかった状況に果恵はしどろもどろになりながらとりあえず先日の不手際を詫びた。

 帰宅ラッシュのピークは少し過ぎていて、駅構内の人の流れはさほど多くはない。何となく人の波から離れて端に寄り、立ち話をする体勢になる。
「あの時は悪かったわね、バタバタしていて。あなたが謝罪したそうにしていたのは気づいていたけど、こっちはそれどころじゃなかったのよ」
 どうやら入社式当日のことを言っているのだろう。中谷の姿を見かけて声をかけたが、忙しそうできちんと謝ることができなかったのだ。
「いえ、お忙しいのにこちらがお手間をお掛けしてしまったので。お陰様で本当に助かりました」
「本当にねえ。ただでさえ忙しいのに余計な手間を増やしてくれて、あの時はどうしてくれようかと思ったわ」
 中谷のストレートな物言いに、果恵はいたたまれなくなる。すみませんと小さく呟いて再び頭を下げた。
「でもね、あなたあれからきちんとお礼状を送って下さったでしょう?」
 丸井が謝罪に向かって一応話は済んでいたが、あれだけ迷惑をかけてそのまま中途半端な挨拶だけでは済ませられない気がしていた。 お詫びを繰り返してそこにつけ込まれると会社として困るが、お礼を伝えるならば良いだろう。実際、シマザキフーズの既存の社員たちが北町に代わってくれたことでかなり助かったのだ。 だから果恵は、後日簡単なお礼状を中谷宛に郵送したのだった。
「あの時、きちんとお礼をお伝えできなかったので。あんなことがあったのに、九月もご予約頂いたそうでありがとうございます」
「正直に言うとね、うちは長いこと利用させて貰っているのにこんな仕打ちあるのかと、ボヤージュさんの利用はもう止めようかと思ったの。でも、そんな時にあなたからのお礼状が届いたのよね。 メールじゃなく、あなたの言葉をあなたの字で伝えてくれたことが決め手だった。真摯な姿勢に、もう一度ボヤージュさんを使わせて貰おうと思ったのよ」

 中谷の言葉に、果恵は驚いたように目を見開いた。そんな大そうなことは書いていない。ただ感謝の気持ちを綴っただけで、文章も短かった筈だ。
「九月に予約を入れているのは、この間入社した子たちのフォローアップ研修なの。営業でひとつふたつ大きなミスをして自信を失くしている頃だと思うから、あなたの話を彼らにしてあげて良いかしら?」
「勘弁して下さい……」
 中谷の言葉は冗談とも本気ともつかず、果恵は顔を赤くして俯いた。狼狽する彼女の様子を見て、中谷が楽しそうに声をあげて笑う。
「佐々木さん」
「はい」
「あの時はあなたじゃ話にならないなんて、感情的に怒鳴って悪かったわね」
 潔い女性だなと果恵は思った。これまでの苦手意識が、女性としての憧れに代わってゆく。
「中谷部長、止めてください。ご迷惑をお掛けしたのはこちらなのですから。二度とこのような不始末は起こしませんから、引き続き私共をご利用下さいますようお願い致します」
「当然よ。あんなこと、もう一度起こされたらたまったもんじゃないわ」
 赤いルージュを引いた口角を上げてにやりと笑うと、呼び止めて悪かったわねと中谷が言った。どうやら彼女は果恵とは反対方向の上り電車に乗るらしい。
「いえ、中谷部長とお話ができて良かったです」

 紺色のスーツをきっちりと着こなした中谷が反対側のホームに颯爽と消えて行くのを、果恵はじっと見送っていた。伝わっていた。そのことが何よりも嬉しかった。
 中谷が言っていたことは、どこまで本当かは分からない。 そもそも中谷に与えられている権限がどの程度まで及ぶのかを知らないし、由美が言う通り割引料金を提示しているのでそう簡単に研修会場を変えることはできないだろう。 けれども、料金面で妥協して利用されるのではなくサービスに納得して利用してもらうのがホテル側の理想であり、どうやらそこはクリアできているようだ。
 ミスから逃げないで良かった。やがて下りのホームに向かって歩き出した果恵は、改めてきちんと仕事と向き合ってみようと考え始めていた。

 


2013/07/03 


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