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ぎ出すカエル



 18. 自覚するカエル


 終電で帰って来た果恵がマンションに辿り着いた時には、深夜十二時を過ぎていた。
 明日は、いや既に今日になってしまったが、遅番とは言え仕事なのでさっさとシャワーを浴びて休まなければならない。 けれども部屋に入るや否やぺたりと床に座り込んだ果恵は、すぐには立ち上がる気が起きなかった。やがてぼんやりと彷徨わせていた視線の先が、チェストの上の薄汚れたピンク色でふと止まる。 マニキュアの瓶と並んでちょこんと座っているカエルが、同情に満ちた視線をこちらに向けていた。
‘好きだったの?’
 無遠慮にそう尋ねられた気がした。そういうわけではない。確かに中学時代は少し特別な存在だったが、それは憧れというか目標であり、恋と呼べるような感情ではなかった。 再会したあとも、会えて嬉しいという感情はあったがそれは懐かしさであって、恋愛感情ではないように思う。
‘じゃあ、別に良いじゃん’
 そうだ、別に気にする必要はない。聡に婚約者がいて間もなく結婚を控えていたとしても、果恵がショックを受ける必要は微塵もないのだ。
 果恵は薄汚れたカエルの頭を人さし指でひと撫ですると、アルコールを含んだ溜息を吐いた。やがてゆっくりと立ち上がり、クローゼットから着替えを出してバスルームへと向かった。




「ええー、筒井も結婚!?」
 混乱している果恵をよそに、不満そうな声をあげたのは郁子だった。どいつもこいつも幸せになりやがってと、口を歪めながら黒い言葉を吐いている。
「いつ結婚するか、あいつ言ってなかった? てゆか、こっちに来てるなら俺に連絡しろってんだ」
「特に恋愛絡みの話はしなかったから、逆に今知って驚いてる。こっちに来るのは仕事のトラブルのせいでいつも急みたいだったから、堤くんには連絡できなかったんだと思うよ」
 別に果恵が申し訳なく思う必要はないのだが、落胆している堤に思わずフォローを入れた。
「もう式を挙げてたりしてね。寂しいひとり身の堤に幸せな姿を見せるのが可哀想だから、敢えて呼ばなかったのかも知れないよ」
「そんな訳ないだろ。佐々木さん、あいつまだ結婚指輪してなかったよな?」
 意地悪そうににやにやと笑う郁子に対し、否定しながらも若干不安そうな表情で堤が果恵に確認する。完全に彼は郁子におもちゃにされているようだ。
「たぶんしていなかったと思うけど、意識して見ていないから分からないよ」
 自信なさげに果恵は答えた。聡と飲んだ時に色んな話をしたが、仕事の話や中学時代の思い出話が中心で恋愛に関しては話題が及ばなかった。 そこまで親しくないということで遠慮があって、踏み込んで尋ねることができなかったというのもある。彼女はいるのかなと少し頭を掠めはしたが、結婚しているという考えには至らなかった。 年齢を考えると別に既婚でも不思議ではないが、もしそれならば果恵の食事の誘いにのらなかったのではないかと思ったのだ。果恵の中で聡は、どこまでも誠実で完璧な男性だった。
「果恵はそういうところ疎いからなあ。男の人に会ったら、まずは左手の薬指チェックすると思うんだけど」
「そんなものかな」
 郁子の意見に果恵は苦笑いを浮かべた。
 指輪をしていればさすがに目に留まると思うのでしていなかったと思うが、あまりそれは問題ではない。 既に結婚しているのか間もなく結婚するのか、どちらにせよ生涯を共にしようと決めた相手がいるのは確かなのだ。とても喜ばしいことなのに、果恵は自分の心が沈んでゆくのを感じて戸惑った。

「ところで、筒井って中学卒業と同時に東京に引越したんでしょ? ずっと連絡をとり合うほど、あんたたち仲良かったっけ?」
 生ビールをごくりと飲みながら、口元に泡をつけた郁子が不思議そうに尋ねる。それは果恵も疑問だったので、答を求めるように堤を見つめた。
「大学時代に東京で再会したんだよ」
「え、筒井って頭良かったよね!? アホの堤でも行けるような大学に通ってたの?」
「いちいちうっせーぞ、柴田。だから結婚できねえんだよ!」
 互いに互いが嫌がることを言うので、会話が全く進まない。まるで小学生のようだと思いながら、呆れたように果恵は目の前のふたりを諌めた。
「はいはい、分かったから話進めて」
 冷静に果恵が言うと、ふたりはしゅんとして黙り込んだ。やはり小学生だ。

 堤の話によると、彼は地元の高校を卒業したあと東京へ進学したらしい。実家の工場を継ぐ代わり、大学は好きなところに行かせて欲しいと頼んだそうだ。 猛勉強の末に何とか三流大学の工学部にすべり込み、入学後は生活費を稼ぐ為にアルバイトに勤しんでいた堤は、大学一年の春休みに引越し業者の短期バイトで聡に偶然再会したと言う。
「バイト先で知り合ったのか。ああ、びっくりした」
 再び余計なひと言を挟んだ郁子をじろりと睨むと、堤はそのまま話を続けた。
「中学の時はあまり喋ったことはなかったけど、意外と気が合ってさ。あいつは高校からずっと東京だから色々詳しいし、短期バイトの期間が終わっても連絡とって会っていたんだよ。 俺はひとり暮らしだからたまに聡の家で飯食わせてもらたり、うちのボロアパートにもよく泊りに来てたな」
「そうなんだ」
 果恵は驚きながら相槌を打った。まさかふたりにそんな繋がりがあるとは思ってもみなかった。
「卒業後こっちに戻ってからはそう簡単に会えなくなったけど、忘れた頃にメールが届いて縁が切れることはなかったな。 だから、去年の夏に大学時代の友達の結婚式に招待されて上京することになった時、久しぶりに会おうぜって連絡とったんだ」
 そこまで説明すると、堤はジョッキの中のビールを飲み干した。空になったのを確認すると、郁子がすかさず追加をオーダーする。
「聡に会う為に式の前日から東京行って、久々にふたりで飲んだんだ。そしたらあいつ、俺も結婚するって言うんだぜ。職場の後輩って言ってたかな。 俺は会ったことはないけど結構長いこと付き合っていて、前から何度か話は聞いていたからまあめでたいよな。 まだ親に挨拶したばかりで詳しいことは何も決まっていないらしいけど、春くらいの予定だって言うから絶対に招待しろよって言ってたんだ」

 手元のグラスを呷ると、果恵は一気に梅酒を飲み干した。そして堤のビールを運んで来た店員に同じものを注文した。
「東京で再会するなんて、すごい偶然だねえ」
 あまりアルコールに強くないのでいつもちびちびと飲むのだが、グラスに半分くらい残っていた梅酒を勢いよく空けたので急激に頬が火照ってくる。
「筒井くんは今大きな仕事を任せられていて今回の出張もその一環らしいんだけど、仕事が落ち着いてから式を挙げるつもりなのかもね。五月で片付くみたいだから、もしかしたらジューンブライドかもよ」
 そう言うと、果恵はふふふと笑った。だからちゃんと招待状は届くよと言って堤を慰める。
「ちょっと果恵、今日はえらくピッチが早いけど大丈夫?」
 果恵の言葉にほっとした表情を見せた堤の隣で、いつもと少し様子の異なる親友に対して郁子が心配そうに尋ねてきた。
「今日は調子が良いみたい。明日は遅番だから出勤遅いし、平気だよ」
「おし、じゃあ今日は売れ残り三人組で飲もうぜ!」
「ちょっと、勝手にひとくくりにしないでよ!!」
 果恵がそう言って旨そうに梅酒を飲むので、堤が嬉しそうに加勢する。最初は怪訝そうだった郁子も、酔っ払いふたりに乗せられて豪快にビールを呷った。

 酔いがまわった果恵は頬を赤く染めて、いつもよりもたくさん笑った。堤の下らない話やそれに対する郁子の辛辣な突っ込みのひとつひとつが、面白くて仕方がなかった。
「佐々木さんって、飲むと笑い上戸になるんだ?」
「今日は特にテンション高いね。堤の話なんて大したオチもないのに、果恵ってばちょっと笑いのハードル低くなりすぎてるんじゃないの?」
 舌好調な郁子にもはや堤も反論することを諦めたようで、さらりとスルーしながら唐揚げに箸を伸ばす。
「色々懐かしいなと思ってさ。偶然にも筒井くんと堤くんに立て続けに再会できたから、中学の頃をいっぱい思い出せて楽しい」
「次に聡がこっちに来る時は、聡も誘ってこのメンバーで飲みたいな」
 果恵の言葉に頷きながら堤がそう提案する。その瞬間、それは嫌だなと果恵は反射的に思った。
「えー、嫌よ! 結婚控えた幸せオーラ満載の奴となんか一緒に飲みたくなーい」
 毒舌の女王と化した郁子が再び黒い台詞を吐く。それは果恵の気持ちを代弁していたのだけれど、心の奥のどろどろとしたものがあまりにも違いすぎていた。
「そうか、じゃあ次も売れ残り三人組で飲むか?」
「だから勝手にひとくくりにするなっつうの!」
 飽きもせず子供のようなやりとりを繰り広げる郁子と堤をよそに、果恵は再びグラスを空にした。

「てゆか、郁は筒井くんのこと忘れてたでしょ? 堤くんとごっちゃになってたもんね」
 堤がビールの追加を頼む際、果恵も一緒に梅酒のお代わりを注文する。そして、心の中のもやもやを無視するように明るく話題を振った。
「マジか!? 当時は嫌になるくらい間違われたんだよな」
「だって紛らわしいんだもん。まあ、アホの堤と優等生の筒井じゃあ、中身は全然違ったんだけどね」
「覚えていなかったくせにうっせーぞ。記憶がごっちゃになっていたおまえも相当のアホじゃんか」
 堤の反撃に郁子が拳を上げ、小学生の男子並みの幼稚な攻防が繰り広げられる。
「筒井くんはあの頃のこと、驚くほどたくさん覚えてたよ。やっぱり頭の良い人は記憶力が凄いんだね」
 郁子と堤の攻防戦を止めることもせず、ふわふわと笑いながら果恵が言った。
「わたしのことも郁のこともちゃんと覚えてくれていて、郁はあなたのこと忘れていたんですよとも言えないし、わたし筒井くんにすごく申し訳なく思っちゃったよ」
 果恵が悪戯っぽくそう付け加えると、郁子は決まり悪そうに口を尖らせた。その様子を見て、隣で堤が肩を震わせている。
「笑いすぎ!」
 悔しそうな郁子の表情が可笑しくて、果恵は声をあげて笑った。笑っていれば楽しいような気がした。
 いや、郁子と堤との時間は本当に楽しいのだけれど、ふとした瞬間に素の自分に引き戻されそうな気がして恐かったのだ。何となく現実と向き合いたくなくて、すっかり酔っぱらった果恵はへらへらと笑い続けていた。 理不尽な客にも常に笑顔で対応しなければならないホテリエとしては、笑顔の仮面を貼り付けてはしゃぐことくらい造作もないことだった。




 熱いシャワーを浴びると、アルコールがだいぶ抜けたような気がした。
 手早く髪を乾かして基礎化粧品で肌を整えた果恵は、ベッドの上にごろりと横になると大きく息を吐いた。ベッドサイドで充電中の携帯電話には一通のメールが届いていて、それは先程まで一緒だった郁子からだった。 次こそはランチバイキングに行こうねというメッセージと共に、カラフルな絵文字が踊っている。果恵は手早く返信すると、送信完了を確認してメール画面を閉じた。
 けれども、携帯を握りしめたまま僅かに逡巡したのち、果恵は再び受信フォルダを開いた。その中には、友人や家族からのメールに紛れて、聡からのメールが一通だけ保存されていた。

 聡と連絡先を交換していなかった果恵は菜乃花から盛大なダメ出しをくらったのだが、さすがに先日の食事の際には自然な流れでメールアドレスを交換することができた。 けれども、だからと言って頻繁にメールのやりとりをするわけではない。菜乃花に知られると説教されるに違いないので絶対に言わないが、食事のお礼のメールを一度送り合っただけだ。
 所詮はそんなものだろうと果恵は思う。メールアドレスを交換するのは名刺の交換をするようなものだ。用もないのに何しているのだなんて、親しくない間柄で送れる筈がない。 だからアドレス帳に保存されている彼のアドレスは、果恵にとっては単なるお守りだ。遠い春の日、唐突に海辺の小さな町から姿を消した聡に対して、当時まだ少女だった果恵は為す術がなかった。 けれども今回は、五月の出張を最後に彼がこちらに来る機会がなくなっても、その気になれば連絡をとれるのだ。とるつもりはないくせに、いつでもとれるという気休めだった。
 もともと使うことはないだろうと思っていたが、結婚の話を聞いてしまうと使う可能性はゼロになる。ただ、いつか遠い未来にあるかも知れない‘またね’の為に、アドレスを消去する気にはなれなかった。

 今度こそメール画面を閉じると、果恵は携帯電話を枕元に放ってごろりと寝がえりをうった。先程からちくちくと背中に視線が刺さっているような気がする。
‘ずいぶんと物分かりが良いふりをするんだね’
 チェストの上に座っている薄汚れたピンク色のカエルが、物言いたげにこちらを見ていた。果恵は、じっとカエルの目を見つめ返す。
‘素直になれば良いのに。やっぱり好きなんだろう?’

 仕方がないじゃないかと、果恵はカエルを睨んだ。
 彼は果恵が一番辛かった時に、彼女が一番欲しい言葉で救ってくれた。不器用だけれども懸命に働いていた果恵を、いつもさりげに認めてくれたのだ。
 ――好きにならない筈がない。恋に落ちない筈がないのだ。
 けれども彼のホームタウンは東京に移って久しく、果恵は地元に生活の基盤を置いている。 聡との関係が少しずつ砕けたものになってゆく喜びを感じながらも、現実的に考えてそれ以上ふたりの距離が縮まるとは思えなかった。 物理的な距離というものがどれだけ大きいかは、就職したての頃に経験した遠距離恋愛で身をもって知っている。ならば、深入りはしないでおこう。 いくら心揺らしてみても、そもそも彼が遠方に住む女をわざわざ恋愛対象にする可能性の方が低いのだ。
 懸命に好きにならないようにと予防線を張っていた果恵は、聡に婚約者がいる事実を知り、彼の出張が五月で終わることに心の底から安堵した。

 頑なに否定していた気持ちを認めてしまうと、喉の奥から熱い塊がせり上げてきた。
 だから嫌だったんだと果恵はぎゅっと目を瞑る。三十路の失恋は、想像以上にダメージが大きかった。

 


2013/06/22 


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